いつか、絶対
中学時代、葵は野球部に所属していた。僕が入部した約一か月後のある日の朝休み、唐突に入部したいと言い出したのだ。
その時、少なからず僕は驚いた。小学生の時、いつものメンバーで三角ベースのようなものをしたことがあって、葵自身、野球には触れてきた。だが、九人でプレイする本格的な野球はしたことがなかった。少年野球で僕がプレイするときにちらっと見ていた程度だ。僕が打ったボールが転がって外野へ抜けた時や、走者がホームベースへかえってきた時、葵は拍手して讃えてくれた。だが、きっと細かいルールは知らない。僕はそう思い、葵に入部したがる理由を訊ねてみることにした。
一時間目が終わった直後の十分休み。僕は挨拶が済むとすぐに葵を捕まえ、問うた。
葵は、天真爛漫な笑顔で一言、答えた。
「楽しそうやから!!」
けたけたと愉快そうに笑う葵を前に、僕は盛大にため息を吐いた。なんとなくそんな理由やろな、と心のどこかでは考えていたが、まさか的中するとは。肩を落とす僕をよそに、葵はまだ大きな声で笑っている。周囲のクラスメイトが、訝しげな視線を送ってくる。
「で? 理由はそれだけなん?」
少し口調を強めた僕にわずかに表情を引き締める葵。でもまだ、顔の端は弛緩している。
最後に一つ、ははっ、と笑ってから、葵はその小さな口を開いた。
「まぁ……。そういうわけやないけどね」
葵の声が少し萎んだ。そして、視線を自分の足元に落とす。僕もつられて頭を下げる。ところどころ燻ったようになっているクリーム色の床が苦しそうに並んでいる。誰かが横で暴れた所為で起こった風が、淋しく転がる小さな埃を飛ばしていった。
「なんていうか……」
困った笑みを浮かべながら、後ろ頭を掻く葵。肩のあたりで切りそろえられたショートヘアの先がぴょこぴょこと揺れる。視線を送る瞳が、目的を定めずにふらふらしている。葵にしては珍しい、と僕は思った。
「葵ー! ちょっといいー?」
僕と葵の間に流れる重い空気を打ち払うように、背後から声がかけられる。葵と仲の良い女子がこちらに向かって、大きく手を振っている。それを見て、葵の困惑する色がさらに濃くなった。僕に対して、救ってほしいような、縋るような視線を投げかけてくる。
それを見て、僕は非常にいたたまれなくなり、弱々しく言葉を吐き出した。
「……ごめん。ちょっと強く聞きすぎた」
「私も、答えられんくてごめん」
気まずそうに言い残した後、葵はその女子生徒の元に向かって行った。「何話しとったん?」などと声が聞こえてくる。それらに背を向け、僕は自分の席へ戻った。程なくして鳴ったチャイムが、僕を切り裂くかのように心の中に重く響いた。
葵はその後、「いつか、絶対」と僕に言葉を残した。それを伝えた時の葵はひどく申し訳なさそうな、哀しそうな表情だった。葵にとっては、デリケートな話だったのかもしれない。それを探求した自分に対しての後悔の念と、葵への謝意が、心の中で沈むように交錯した。
その日の放課後。葵はいつもの元気を取り戻した様子で、グラウンドに姿を現していた。頭上で燦々と輝く太陽の如く、彼女は輝いているように見える。葵が入部の理由を話した時、監督は思わず苦笑していた。先輩も、同級生も同様だった。ただ僕だけが、沈んだ表情をしていた。監督に野球のルールを教えてもらい、先輩と、いつもの様子で会話する。
頭上に広がる空に、一筋の雲が流れる。独りになった時に見せる葵のその表情は、グラウンドが灰色に包まれると同時に、翳に蝕まれているように見えた。
「そういや、そんなこともあったなー」
葵が鞄を持たない手をぐーっと伸ばしながら、しみじみと呟く。
駅への道を二人並んでゆっくり歩く。白線が細く引かれただけの歩道。朝の早い時間帯で車が滅多に来ないとはいえ、僕と葵の間の距離は自然と近くなる。
「結局、なんで入部したん?」
三年前の過ちを繰り返さぬよう、穏やかに問いかける。
「理由か……」
葵は天を仰ぎ、顎に人差し指をかける。今日の空に、雲はなかった。
「楽しそうやから、ってだけやないんやろ?」
僕の質問に、葵は素直に首肯する。二つの瞳が捉えるその先には、僕には視ることのできない何かがあるのだろうか。ただ空気だけが存在するように見える虚空を眺めたまま、葵は考えていた。時々口が小さく動く。けれどそれは音として生まれることなく、朝陽に溶け込んでいく。流れる空気は変わらない。だが、映る景色は僕らの歩くスピードのまま変化していく。長い時間が経ったとき、葵はゆっくりと顔を下ろした。
「やっぱり、まだ内緒かな」
視線を僕に戻した葵は、はにかんだ笑顔で小さく答えた。その笑顔とその言葉は、一体何を意味して出されたものなのか。きっと、今の僕にはいくら考えてもその答えは見つからないだろう。
駅の前方にある踏切の警報機がけたたましく鳴りだす。
「やば!! 急がんと!」
葵が叫び、ダッシュを始める。僕も同じような言葉を繰り返して、その背中を追う。
霞んだ世界の先から姿を現す二つのライト。ガタンガタンと近づく規則的な音。鉄道のように、敷かれたレールを進めば答えが見えるわけでもない。
あの時の『いつか、絶対』の指す『いつか』とは果していつなのだろうか。
葵を追っている最中、そのことが一瞬、脳裏を過った。
停車している列車に駆け込む。僕が車内に入ると同時に、ドアが静かに閉まった。急に走ったせいで息が苦しく、速い呼吸を繰り返す。ぐるりと周囲を見回すと、四人掛けのシートで貴浩が大きく手を振っているのが見えた。声を上げて呼ぼうとしていたのか、口が中途半端に開かれている。その横では相変わらず良太が困ったような顔つきをしていた。
葵は早々にその席へ向かっている。僕もそれに倣う。
向かい合って座っている山本兄弟の横に腰を据える。それと待っていたと言わんばかりに、貴浩が開けかけていた口を再び開く。
「お前ら、ギリギリやなー。どないしたんや?」
横で、「小さな声でな」と忠告する弟を無視して貴浩はいつもの声量で話す。近くに座っている、同じく登校中の生徒たちの視線が痛い。良太が小さくため息を吐いたのが聞こえた。
「……まぁ、ちょっと寝坊してしもた」
正直に言うのも少し面倒なので、僕は適当に、あり得そうな嘘を吐く。貴浩の隣に座った葵がピクッと反応するのが視界の隅に映った気がした。
「ほぉー……。それは昨日言ったことを考えたりしとったんか?」
今度は声を落として尋ねる。一瞬不審がる目をしていたが、それが何かという結論にまで至らなかったのか、すぐに引っ込めた。僕は若干のうしろめたさを感じつつ頷いた。
「昨日言ったことって?」
良太が首をかしげる。貴浩が「言ってへんかったっけ?」と呟き、良太が頷いたのを見てから簡単に説明する。概要を聞くと、良太は心底驚いたように息を吐いた。
「それで、友哉が部員集めを任された訳か」
良太の言葉に僕はうなずく。その時に、誰に聞かせるわけでもなく漏らした小さなため息は、僕の想定以上に重かった。
「具体的な案は何かあるん?」
僕はその問いを認めることも否定することもなく、昨日葵と話したことを軽く説明した。決して長い話ではない。貴浩たちは僕が話し終えるまで何も話すことなく、耳を傾けてくれた。
聞き終えた後、貴浩はボソッと言った。
「……俺たちと、一緒やな」
その言葉に、僕は思わず聞き返す。
「だから、俺たち……俺と真人と一緒や、って」
貴浩はおでこの前で両手を組んで話し出す。その瞳は影に覆われて、はっきりとは見ることはできなかった。
「俺らもな、そう思っとったんねん」
カーブのたびに唸るような悲鳴を上げ、時々体が大きく傾く中、貴浩は話す。
「まだ誰のこともよくわかってへん。せやから、可能性は未知数や」
一瞬だけ聞こえてすぐに流れてゆく踏切の音が何だか切ない。
「誰のことも知らないからこそ、生まれる安堵感というもんがあった。それは俺も、真人もやった。そもそも真人とは偶然初日から話すことがあってな。野球やっとる奴の勘みたいなもんがあるんかなー。一目で『こいつ、野球やっとる!』ってわかった。それは真人も同じやったみたいで、その日のうちに、俺たちは野球部に挨拶に行った。……昨日のお前みたいにな」
言いながら、貴浩がこちらに視線を寄越す。そして、あの時の貴浩の表情を思い出す。
「……でも、別に貴浩、何も考えてへんかったような」
「何も考えてへんとは失礼やな」
貴浩が即刻にツッコみを入れる。小さな笑いの輪が生まれるが、すぐに昇華する。
「結果は、お前が見たもんと同じや。きっと、感じたこともお前と同じやと思う。俺たちは、あの野球部の現状に絶望し、憤慨した。そして大きな後悔もした。もっと声をかけとくべきやった、って。今からでも遅くないか、と思て周りの連中に訊ねてみたが……。後の祭りやったよ。もう、野球部に入ってくれそうな奴は、おらんかった」
貴浩は哀しそうな声色でそう言った。
昨日の僕が、貴浩にとっては一年前の自分がタイムトラベルしてきたような感覚だったのかもしれない。貴浩から視線をわずかにずらすと、葵と目が合った。なぜか気まずそうに逸らされたその顔からは、表情を感じ取ることができなかった。
「もしかしたら、ちょっと覚悟はしとったんかもしれん。これまでずっと俺の尻の後ろを金魚のフンみたいにひっついてきとったんや。可能性はあるかもな、って」
貴浩が一度咳払いする。車窓に、土師川が流れてきた。そろそろ終点が近い。
「ちょっと話がそれてもたけど、結論を言うとな」
心なしか、貴浩が語るその口も少し早くなっている。
「話しかけるんや。そして、相手の警戒心を解け。間違いなく野球が好きな奴、やりたい奴はクラスの中にいる。そいつに、『目の前にいる奴と野球がしたい』と塵ほどでも思わせたら、お前の勝ちや」
俺も既に二年やけど、もう一度やってみる。
貴浩は、そう言って親指を立てた。そう宣言する眼光は、川面で反射する光線よりも眩い。自分たちの先輩が一切とらなかった責任を、自らが背負い、そして後輩にも託す。そんなところが貴浩らしいと、長年行動を共にしてきた僕は断言できる。だから僕はついていこうとしたのだろう。追い求めてきたのだろう。決して自分一人ですべてを片づけようとせず、かといって誰かに委託するわけでもない。大切なものを、一途に求め続けるその姿に僕は圧倒され、憧れた。
「あ、友哉が何かニヤニヤしとる」
良太が冷静に僕を分析した。
「え、何? 何考えとん? もしかして……惚れたん?」
葵がニタニタと薄気味悪い笑みを浮かべて僕に詰め寄ってくる。爛々と煌めく瞳がすぐ目の前に並ぶ。
「え? あ、いや……」
「ハッハッハ!! 友哉、悪いが俺は……」
「いやだから違うって!」
数分前までの厳かな空気はそこにはない。三人の茶化しは窄まる所をしらないのだろうか。次々と襲い掛かる言葉に、僕もいい加減辟易する。だけど。
僕はやっぱり、この四人がいい。『この四人で野球がしたい』と心から思うことができる。
気付けば、列車はすでに駅に到着していた。扉をくぐって、今日も僕は向かう。
新たな仲間を。そして、輝かしい戦場を手に入れるために。