斜陽式野球
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常楽斜陽連合チームのキャプテンは、満場一致で斜陽の野村大地先輩となった。三年生と、全員の中で最高学年というのが大きな理由なのだが、野球部的にも野村先輩がキャプテンに相応しい、と斜陽の選手たちに言われたためだ。投手としてはツーシームや変化球で打者の芯を外すのが得意で、技術指導もうまい。そして、どんなことに関してもまっすぐで、みんなを率いることに長けている。谷村先輩からそう熱く語られた結果、その言葉を信じ、常楽の面々も野村先輩を支持することにしたのだ。
キャプテンとしての挨拶の場で、野村キャプテンはこう言った。
「俺は初の連合チーム甲子園出場を目指して、本気でみんなを引っ張っていく。俺はもちろん、真面目に、誠実に野球をする。だからみんなもついてきてほしい」
簡素な言葉ではあったが、威厳と言う名の独特の重さがそこにはあった。大きな体から染み出ているオーラが、その言葉を際立たせていた。
「はいっ!!」
二校の混ざり合った返事が、広いグラウンドに木霊するように響いた。
それから数日が経ち、キャプテンは自分が発した言葉を有言実行するべく、声を張り上げていた。
「イッチニ―イッチニ!」
「ソーレ!!」
「イッチニ―イッチニ!」
「ソーレ!!」
広々と開放的なグラウンドを、ほかの部活動の邪魔にならぬよう、コースを配慮しながら全員で走っていた。これまでは六人が普通だったために、合計十一人集まると、その声の渦中にいる僕たちにはとても大きく聞こえる。もちろん、強豪校の、百人を超えるような部員数を誇る野球部の掛け声と比べると、それは蚊の泣く声に過ぎないだろうが、僕としては今の状況であっても充分に満足だった。念願の試合ができる、そう思えることだけがこの上なく嬉しかった。
「もっと声出せーーー!!」
先頭で走るキャプテンの大声が、最後尾を走る僕に間近で怒鳴られているかのように届く。その声に応えるべく一層高く声を張り上げる。ボリュームが上がるたびに、ほかのクラブの選手からの視線がより強く刺さるようになっている気がした。その掛け声も視線も全て掻き消すように、グラウンドの周りを走り続けた。
たっぷり五〇〇メートルほどありそうな距離を二周走り終えて、一息つく。
「はぁ、はぁ……」
肩で息をする、と言うほどではないが、安定しているとは言い難い。もともと走るのが得意な亮輔はまだまだ行けそうな感じだが、僕や、走るのがやや苦手な良太は呼吸を整えるのに多少の時間を必要とした。だが、斜陽の選手たちは全員が亮輔のように、「何てことないぜ」といった顔をしていた。今すぐにでも和やかに談笑を始めそうなぐらいに落ち着いていた。
「これからもうちょっと長く走ってもええんちゃいますかー?」
一年投手、西野が白い歯を覗かせて笑いながらキャプテンに向かってそう言う。
「んー……。まぁ、せやな。もうちょっとしたら三周ぐらいにするか」
その声を聞いたとき、良太が少しだけ顔を歪めた。その一瞬をキャプテンは見逃すことなく、
「おい良太。本格的な合同練習は今日が初めてやからあんま強くは言わへんけど、んな顔すんな。雰囲気が悪うなるやろ」
真面目な顔で叱責する。
「はい」
良太は途端に背筋を伸ばし、先ほどの感情を完全に隠して返事した。隠しただけで、心の奥底にはまだ居残っていることだろうが、真面目な良太の事だ。きっと自分の中でうまく消化させてしまうことだろう。
そんな良太を見て納得したのか、数秒経ってからこうとも付け加えた。
「大丈夫や、すぐに慣れる。こいつらも……特に西野はな。初めはお前みたいに嫌そうな、しんどそうな顔しとったんや」
西野の方を向くと、頭を掻きながらむず痒そうに笑っていた。
「けど、今ではあんな軽口を叩けるようにまでなった。これは偏にこいつの努力の賜物や。学年も一緒なんやし、お前もきっと楽に走れる日がくるわ」
キャプテンの言葉を、良太はじっと石のように固まって聞いていた。しかしすぐに口を開いて、
「はい!」
その時を心から楽しみにするような声色で返事をした。
「お茶足りてる!?」
「あぁー、アクエリもうちょっとや!!」
練習の合間の休憩時間。ほんの僅かな時間のために、葵と瑠璃は字の如く忙殺されていた。気温・湿度の上昇と、いつも以上にハードな練習のせいで、ジャグの中の飲み物が瞬く間に減っていき、すぐの底を尽くのである。僕たちも、そんな二人の状況を理解したうえで多少は遠慮しているのだが、それでもついつい手が伸びてしまうのだ。たくさん動いて汗として水分を体から放出した僕たちには、ひんやりと冷えた麦茶やアクエリは、どんな高級料理よりも舌を滑るように通過していく。その感触がたまらなく気持ちよくて、結果、葵たちの仕事を増やしてしまっているというわけだ。
ちなみに、斜陽には葵や瑠璃のようなマネージャーの類は一人もいない。そのため、斜陽のサポートに慣れた人物もまたいないのだ。
それでも、決して弱音を吐くことなく、只々みんなのために二人は仕事を全うしようとしてくれている。作業の合間には笑顔も見せ、実際忙しいことには変わりないことだろうと思うが、苦しんでいたり、嫌々やっているわけではなさそうだった。だから、僕たち選手も最高の状態でベンチからグラウンドに駆けだすことができる。
「ありがとな、葵、瑠璃」
集合の合図がかかって、みんなが監督の元へ向かう時、また密かに二人に礼を言う。聞こえるかどうか不安なほどに小さな声になってしまったが、特に問題はなかったらしく、「どういたしまして」「こっちこそ、ありがと」と揃って笑顔を向けてくれた。
「じゃあ、次はノックです。今回がほぼ初めてのノック、といってもいいぐらいなので、最初は体を慣らす程度の気持ちでやってみてください。もちろん、気は抜かないように。それで、余裕があれば、近くのポジションの人との相性とかも確認してみてください。……ちなみに、真人。常楽のマネージャーの方は、ノックできますか?」
問われた石崎先輩が背筋を伸ばして「いえ」と答える。
世の中の学校には、女子マネージャーがノッカーを務めている学校もある。ただ、本当に数少ないので、ほぼ肯定の回答は聞けないとわかっていながらの質問だったのだろう。監督は特に表情を変えることもなく、「そうですか」と頷いただけだった。
変わってキャプテンが前に躍り出る。
「では、それぞれ守備位置に着け!」
命令通り、僕はショートの守備位置に着く。しばらくは斜陽との選手との相性を確認するために、ピッチャーだけでなく、ショートの練習もしっかりしろ、と監督に言われたためだ。
僕と同じくショートには石崎先輩が、セカンドには俊介、サードには谷村先輩、ファーストには貴浩、と言っては失礼だが、内野には常楽だけの練習の時と比べて、あまり変わりっ気がない。ただ、外野には亮輔だけでなく、前田先輩に、凛が加わった。こちらはかなり充実したと言っていいだろう。
「よっしゃー、声出して行けー!!」
監督がバッターボックスに立ち、声を張り上げる。数分前までの監督とは別人かと思うほどに熱血さを感じた。それに負けじと、全方向から掛け声が飛ぶ。
以前、葵にも教えたとおりイップスを防ぐためでもあるが、球場の大歓声の中、ボールを追って行って衝突などしてしまったらエラーどころでは済まない。下手をすれば、以後の野球人生を棒に振る可能性もある。高校野球でもプロ野球でも、そう言った光景は決してありえないものではない。
早速僕の守る方向に向かって打球が飛んでくる。簡単なゴロだ。難無くキャッチし、素早く一塁に投げる。
はじめの内こそ打球は、本当に体を慣らすだけのような簡単なものだったが、徐々に難易度は上がってくる。ライナーは思わず目を瞑ってしまうほどに強烈なものになり、ゴロは外野まで抜けてしまいそうになる。当然、捕球時に目を瞑るなどしてしまっては、監督の怒号を受ける以外に選択肢はない。
「おい友哉!! 目ェ瞑んな!!」
そして追い打ちをかけるように強い打球が飛んでくる。実戦ではこんなことよくあることだ。寧ろ今は「自分のところに打球が来る」と何となくわかっているので、幾分かはましだと思っていい。弾丸のように僕の顔面めがけて飛びこむ打球を、必死の形相で受け止めた。
「ナイスッ! でもまだまだ行くで!!」
今度は飛び込まなければ飛び込まなければならない程に遠いゴロだ。
(間に合うかッ!?)
正直危うかった。
「ッ!!」
間に合わない、と思った瞬間、何かが僕の前を遮った。飛び込んだ体勢から素早く起き上がり、一塁に送球する。僕にはそれが、プロ野球選手の姿のように見えた。
「銀二、ナイスー!!」
監督だけでなく、ほかのチームメイトからも祝福を受ける。僕も練習の妨げにならない程度に「ありがとうござます」と礼を告げる。
「次ー! センター行くぞー!!」
言うが早いか、センターへと大飛球が打ちあがる。亮輔は少し後退して捕球、ホームへと返球した。しかしその返球はファースト側に大きく逸れてしまっていた。
「センター!! せめてサード側に逸れるように返さんか!!」
再び響く怒号に、亮輔は一瞬萎縮したものの、すぐに大きく返事する。
センターに限らず、外野からホームへと返球するとき。そこには百パーセント、得点が絡んでくる。いかにランナーをホームで刺せるか、もしくはサードで止められるかが重要になってくる。もし前者を狙うならば、逸れたとしてもランナーが走ってくいるサード側に逸らした方が、キャッチャー的にはアウトにしやすい。捕球し、比較的すぐにタッチできるからである。対して、ファースト側に逸れてしまうと、キャッチャーが捕球してからランナーにタッチするまでに大きなラグが生じる。よって、失点する確率がぐんと高まる。防ぐためには、確実なスローイングを身につけるか、中継に一旦送球する必要があるのだ。
続いて、強肩、前田先輩の元に打球が飛んでいく。
どんな返球をするのか、個人的にとても興味があった。きっと、レーザービームと称されるような返球をするのだろう。それこそ、中継など必要ないような。
「ッ……!!」
捕球した前田先輩は、僕の想像通り矢のような返球をした。それは当然の如くノーバウンドでホームベースまで到達し、キャッチャーミットに収まる綺麗な音を残して消えていく。斜陽の選手にとってはもう何度も見た光景であろうが、僕たち常楽の選手から見れば、まるで神の所業のようなものであった。
「すげー……」
練習中であるのもつかの間忘れて、思わず感嘆の息を漏らす。すると、それが聞こえたのか、隣で守る谷村先輩がそっと耳打ちするように声をかけてくる。
「な、あいつすごいやろ」
同じチームであることを誇らしげに思っているような表情だった。
「よし、次ー!!」
その後も、監督の怒鳴り声と共に白球が空を舞う時間が一時間ほど続いたのだった。
「アクエリにお茶、冷えてるよー!」
もう何度も聞いた声が、こんなにも嬉しく響く時が来るとは、想像もしていなかった。快晴の青空の下、一時間ぶっ通しでノックを受け続けた僕らの体は、この上なく水分を欲していた。熱中症、とまではいかないが、少しふらふらしてしまう。まだまだ自分も体力不足やな、と思った。
ジャグから冷えたアクエリアスをコップになみなみと注いで、一気に呷る。甘味と、ほんのりした柑橘の酸味が体中に溶け込むように沁み渡っていく。一口飲みこむたびに、生気が戻ってきている気がした。
「やっ、お疲れさん」
すると、同じくアクエリアスの入ったカップを持ちながら、谷村先輩が話しかけてきた。先ほどのランニングの時は余裕そうな表情をしていたものの、今はさすがにしんどそうだ。顔には大粒の汗が光っており、本人もそれを少し鬱陶しそうに拭っている。
「はい……。斜陽の練習って、想像はしてましたけど、ホンマに厳しいですね」
首にかけたタオルで顔を拭きつつ答える。谷村先輩の汗に感化されたみたいに、僕の額にも流れ出してしまっていた。
「いやいや、俺らーのとこなんかまだやさしい方やで。ホンマに上級の学校になったら、山の斜面を往復何キロも走らされるらしいからな」
確かにそれを思えば、これぐらいへでもないのかもしれない。
「あ、谷村先輩、改めて、さっきはありがとうございました」
外野に抜けそうなあたりを横っ飛びで捕球してくれた時のことだ。だが、先輩はしれっとした顔をして、
「いや、俺はあん時つい体が反応してしもてな。ホンマならあれはお前が捕っとらなアカン球やったな。確かに難しい打球ではあったけど、あれぐらいすました顔で捕れるようになってもらわんと」
と言った。
「普通に、ですか……」
少なくとも、僕の能力では、あれを平気な顔して捕れ、というのは、今すぐに難関大学の入試問題を受けて合格しろ、と言われるほどに難しい。ただ、それができるようになるのが、斜陽の野球部というものなのだろう。
「多分、すぐには上達はせんと思う。言っちゃ失礼やけど、常楽高校の野球のレベルはそんな高うない。けど、最初、主将も言っとっちゃったやろ? すぐに慣れるって。せやから、そんなに心配する必要はない。焦らずに、ゆっくりと斜陽式野球に染み込んでいけばええんや」
それは、確かにキャプテンの受け売りのように聞こえた。けれど、直に、実際に守備の上手い先輩から言われると、その価値がぐんと上がっているような気がする。
短い休憩時間が終わり、監督から集合の命令がかかる。そこに向かってみんながほぼ同時に走り出す。やっと、本格的な野球部人生が動き出したような気が、し始めていた。