一番の幸福
2
兵庫県丹波市にある石生駅。
そこが僕や葵、良太に貴浩の家の最寄駅だ。
出入り口は新旧で二カ所あり、新しい方が西口、旧い方が東口。僕と葵の家は東口側、良太と貴浩の家は西口側だ。昔ながらの雰囲気を醸し出す平屋の駅舎が、西日を浴びて赤く染まっている。
タクシーの傍らで退屈そうに煙草をふかしている運転手を後目に、僕は歩き出した。両脇に立つ、小さな家が織り成す光と影の間を縫うように進むと、すぐにT字路に辿り着く。そこを右折し、さらに直進。道を走る車の数はかなり少ない。視界を遮るものは何もなく、ただただまっすぐな道路がそこには伸びていた。
きっと僕はまだ、出発点にすら立てていない。これから僕が過ごす時間は霧に隠されたままだ。それを晴らすのが、かなり難しいことはよく判っている。本当の霧のように、時間が経てば消えてくれるものではない。
「…………霧の方が、よっぽどええな」
終わりのないこの道が、その勇ましい姿を僕の前に現すのは果していつになるのだろうか。
前方から、ヘッドライトを薄く点けた車が一台走ってきた。小さな本音は、僕を軽く照らす光と唸る轟音が掻き消していった。
数分で家に着いた。前には道路が走っているものの、周囲を見回すとのどかな田園風景が広がる。まだ水の張っていない田んぼは、逢魔が時を迎えたこの地で静かに並んでいる。微かに不気味に感じながらも、その先の家の灯りを見つめ、僕は扉を開けた。
「お帰り。遅かったやん」
台所から母親の静かな声が聞こえる。リビングに入ると、すでに夕食が所狭しと並んでいた。
「ほら、さっさと着替えて。もうご飯にするで」
ほっこりと湯気を立てている白米と地元で採れた野菜のいためもの。それらを見ているうちに、先ほどまで感じなかった空腹を急に認識した。張りつめすぎてもだめだ。そう思い、僕は温かな茶碗に手を伸ばした。
「ほんで? 今日、初日から遅かったんは何でなん?」
食べ始めてから数分が経ったとき、徐に母さんが口を開いた。心配する気持ちと単なる興味が入り混じった視線を向けられる。
隠すことでもないので、僕は正直に話す。ただ、細部は少しはぐらかした。
「そう。高校でも野球やるんやね」
母さんは穏やかな口調で言う。その語調には訝しんだり、反対するような感じはなかった。
「ほんで? 高校でもちゃんとやっていけそうか?」
黙って僕の話を聞いていた父さんが口をはさむ。僕はこくん、と頷く。
「そうか。ならええんや。ま、お隣の葵ちゃんとかも一緒やしな。大丈夫か」
父さんは満足そうにうんうんと頷いている。
葵の家は、田んぼを挟んだすぐ隣だ。洋風だが決して派手なわけでもなく、むしろ落ち着いた感じのする家だ。自分の家に入る時、どうしても葵の家が視界に入る形になる。その時、煌びやかな光を感じるのが、僕の一つの癖か習慣じみたものになりつつあった。
その立地のこともあって、僕と葵は昔から一緒に登校することが多かった。小学校は集団登校だったのでそうもいかなかったが、中学校に入るとそのような機会は増えた。
学校は駅を超えた先にあった。そのため、良太や貴浩と合流するまでは二人きりだった。十数年、ずっと一緒だったので、お互いを男女として特に意識することもなく、その間は他愛もないことで盛り上がった。最近ブレイクした芸能人のこと、勉強のこと、ツイッターでのこと、ウザいクラスメイトや先生のこと、部活のこと……。ほぼ毎日一緒に同じ道を歩き、その間、話題が尽きることはなかった。
僕たちのことをよく知らない人や、ほかの小学校から来た同級生には何度となく「付き合っとんの?」と尋ねられた。そのたびに僕たちは、動揺することなくきっぱりと否定した。あくまで僕たちの関係は幼馴染。この関係を、僕は崩したくないし、自ら崩そうとも思わない。これは一種の、僕の決意なのかもしれない。この状態であることが、僕にとって一番の幸福なのだから。高校生になっても問題なく過ごせていければいい。心から、そう願っている。
でも中学校を卒業する一週間前ぐらいだっただろうか。野球部の後輩に、同じことを訊かれたとき。僕はいつものように答えた。耳にたこができるほど聞いてきた言葉だ。今さらあわてるほどのものでもない。
だが僕は、その時後輩に指摘された。
その理由を、未だに僕は理解できていない。
「ふぅ……」
お風呂から上がって、二階の自分の部屋でくつろぐ。直前に飲んだ冷たい牛乳が、胃腸を清々しく宥めてくれる。
「風呂上りは、やっぱり牛乳やな……」
爽やかな気分のなか、ベッド脇においてあるスマホを手に取る。素早い手つきで起動、パスワードを入力して、ツイッターを開く。
中学の時から、クラスメイトとのコミュニケーションツールや連絡用として使っている「ツイッター」。今はもう、それぞれの高校に進学して散り散りになってしまったので、会話をする手段はこれしかない。高校でも上手に活用して、より良い人間関係を築けていければいいな、と僕は思う。
僕は少し操作して、ツイッターの機能の一つである「DM」を開く。相手と一対一で会話でき、他者に見られないことが大きな特徴だ。相談事や、特定の誰かと話したいとき、僕はよく使う。誰にも邪魔されることはないので、比較的自由に言葉を発信できる。また、複数の人を追加しての会話も可能なので、野球部のグループなどを作ったりもしていた。もちろん、こちらの顔が見えない分、言葉には気を付けなければいけないことは変わらない。
葵とのDMは「23時間前」と書いてある僕からのメッセージを最後に途絶えている。まだ見ていないのか、それとも意図的なものなのか。でも今はそれに思考力を使っている暇はない。
葵からのメッセージの右下に短く伸びる、青いふきだしを見つめて文面を考える。
『入学式お疲れさまー。高校でもよろしくm(_ _)m』
軽い挨拶に、礼をする顔文字を添えて送信する。僕の考えとは裏腹に、返信はすぐに来た。
『お疲れ様! こっちこそ、よろしく!(≧▽≦)ノ』
普段は男勝りなところもあるが、こういう時やはり女の子なんだな、と感じてしまう。僕とは違う、かわいらしい顔文字が、黒いだけの文字を彩っている。
『早速で悪いんやけど、ちょっと相談したいことが……』
『友哉はやっぱ相談事多いなーww そんな悩んどったら体に穴空くでww』
笑っていることを示す「w」の記号が多くついている。こっちはそんな気分やないけどな、と思いながら今日聞いたことを細かく説明しながら打っていく。
全て打ち終わるまで、葵は「ほう」とか「えー」とか小さな反応は見せたものの、話の腰を折るようなことはしなかった。
葵にはこれまでにもたくさんのことの相談相手になってもらった。
少し前、良太と喧嘩してしまった時。憤っていた僕を静かに宥めてくれて、アドバイスしてくれた。「早く謝れ」という、ごく普通のものだったが、次の日にはお互い謝りあい、仲直りすることができた。
文化祭の合唱で、リーダーだった僕が注意してもみんながまとまらない時も。葵は的確なアドバイスで僕を救ってくれた。その時、少し躍起になっていた僕は、次の日から落ち着いて行動することに徹した。クラスの剽軽な連中はなかなかまとまろうとはしなかったが、全体的に落ち着かせることに成功した。そのおかげか、僕たちのクラスは合唱コンクールで金賞を取ることができた。文化祭後、葵に改めて礼を言うと、照れくさそうに「気にすんなって」と言われた。その時の眩しい笑顔を、僕は忘れることはない。
『まぁ、勧誘ゆうてもそんな気張らんでいいんちゃう? 人数は少ないけど何人かは入ってくれるやろ。それに良太もおるし』
『そうやけどさ……』
『友哉は考えすぎなんやって! せやからそんな追い詰められたような表情しとんや!ww』
『誰が追い詰められたような表情やw そんなんしてへん』
『マヂデェ━━━Σ(*`Д´*)ノノ━━━!? 鏡見てへんの!!』
話が脱線してきたので元に戻そうとする。だが、その前に葵が颯爽とメッセージを送ってきた。
『さっきも言ったけど、友哉は考え過ぎなんやん! これ見て笑って落ち着きなよ』
そこには数枚の画像。あるプロ野球選手のものだ。ファンならだれもが知っている選手で、フィールド上やインタビューの時に見せる、天然な面白さが話題になっている。僕がネット上で知ったことを、葵にも教えたのだ。それ以降、葵もハマり、ことあるたびにネタとして送ってくる。
『頭が痛くなるよ!』
葵の言葉とともに送られてきた画像を見て、僕は思わず噴き出した。
ひとしきり笑い終えた後、落ち着いた頭でもう一度考える。するといとも簡単に答えが出た。話しかければいいだけである。葵の言うとおり、三十三人しかいないとはいえ、その中に何人野球経験者や興味がある人がいるかはわからない。試合ができるほどの人数は集まるかもしれない。
『あと、私からの相談もいい?』
スマホに目を落とすと、葵からの新しいメッセージが届いていた。その文面から少し真面目な雰囲気が感じられる。
『何?』
『えっと……。私も野球部、入部してもいい?』
葵からの言葉。それに僕は驚くことはなかった。葵のことだから、もしかしたらあるかもしれない、とは考えていた。そして僕自身、それを望んでいたかもしれない。葵の、黒い文字と白いふきだしを見つめ、僕はゆっくりと言葉を打っていく。
『いいんやない? でも選手としては厳しいんじゃ……』
『それは判ってる! だから、マネージャーとして』
『なるほど。せやったら大丈夫ちゃうかな。多分』
『やんな!! よかったー ε~( ̄、 ̄;)ゞフー 友哉だけやったら不安やもん(*´ω`*)』
『ところで葵ってマネージャーできるん?』
葵の言葉を無視して僕は続ける。
『 |(゜3゜)|キコエマシェーン』
『おいwwww』
そんなことを話しているうちに、時間はどんどん過ぎてゆく。時の流れを感じぬほどに早く感じる、このやりとり。僕はこの時間が大好きだ。毎日顔を合わせ、しっかりと会話をしている相手なのに。くだらないことで盛り上がり、相手の文面の変化に動揺し、安堵する。そんな日々の繰り返し。飽きもせずに延々と続く。今が幸せだと感じる、理由の一つかもしれない。
次々と流れる文字に応えながら、僕は静かに微笑んだ。
これまでの会話が、『高校生になっても頑張ろう』と僕が昨日送ったメッセージの、答えなのだろう。