友人で先輩
瑠璃の野球部受けはとても良かった。
その誠実な性格と、見た目の可愛さもあり、貴浩、石崎先輩、監督からもとても慕われるようになった。知識が乏しいことを伝えると、みんながみんな口を揃えて、「おいおい覚えていけばええ」と寛容に対応してくれた。
マネジメントに関しては、教えることを教えると、すぐに上達した。ジャグ運びなど、それなりの力がいる作業は、瑠璃よりも力持ちの葵が行うことが多かったが、飲み物の買い出しや簡単な道具の準備は自分から積極的に動き、葵はもちろんの事、僕らもだいぶ助かっていた。
「みなさん、お疲れ様でした! 飲み物、ちゃんと冷えてますよー!!」
ノックが終わって、顔に浮かぶ汗をぬぐいながら休憩に向かう僕らに、瑠璃の涼やかな声がかけられる。 五月に入り、気温は少しずつだが上がっている。この間に、僕ら新入生のユニフォームも完成し、それを身に着けての練習も始まった。まだ熱中症を本格的に危惧するような季節でもないが、油断は禁物である。人が一人欠ければ、今以上に練習は窮屈に、困難になる。脱水症状にならないように、定期的な水分補給は必要不可欠なのだ。
「どう? そろそろ野球部にも慣れた?」
タオルを首にかけ、用意してくれたお茶のご相伴に預かりつつ、瑠璃に訊ねる。
「うん、もう二週間ぐらいになるからね。だいぶ落ち着いてきたよ!」
ニコニコ笑顔を浮かべながら、瑠璃は答える。
「でも、課題の野球知識に関しては全然かな。これでもネットとかで調べて勉強はしているんだけど、なかなか……」
そう言って、苦笑する。
葵も、できる限りのサポートはしているらしいのだが、進捗状況はあまり芳しくないようだ。やはり練習試合などの実践を交えて教える方がわかりやすいだろう。野球中継を見て勉強するという手段もあるにはあるのだが、瑠璃一人で見て、用語を把握しろ、というのは少々難易度が高いと思う。野球中継で実況者や解説者が言うことは、既にそれらの意味を知っているという前提がある。だから、目の前で行われている試合を見て葵から教えてもらいながら学ぶのが一番だろうと思う。
(でも、試合はできひんしなぁー)
まだ試合をやるうえで必要な人数に達してもいない。もうクラブに入る人は入っているだろうし、今からの新入部員は見込めない。
(なんか手段はあらへんかな……)
瑠璃のために、そしてもちろん自分たちの為にも、試合は必要だ。少しでも早く、試合ができる環境に持っていきたい。
しばらく考えたかったが、再び練習が始まろうとしていたので、仕方なく思考を遮断した。
練習後、用具の片づけをしている貴浩を捕まえ、何とか練習試合をする方法はないか訊ねてみた。ただ、自分で問うておいてなのだが、そんな都合のいい方法があるとは思えない。僕よりも野球知識が豊富であろう貴浩に、縋る思いでの質問だった。
だが、僕の淡い期待に対して、貴浩は渋い顔をしただけだった。彼も、この部を引っ張る上級生の一人として、他校と比べて本格的な野球をできていないことに、少なからず焦りや不安を感じていたことだろう。その中での僕の相談だったので、追い打ちをかける形になってしまったのかもしれない。
「まぁ、俺も何とかできひんもんかなー、と考えてはいるんやけどな……。勉強も一応せなあかんし、ほかにもいろいろと、な」
疲れたような、はたまた苛立ちをも覚えたような声色で彼は言った。顔こそ、僕を怖がらせないようにか苦笑いを浮かべた表情をしていたが、それが強引に作ったものであることぐらいは、鈍い僕でも察することができた。
「だから、お前がその方法を見つけてくれへんか?」
僕が送った思いをそのままそっくり返すように、今度は貴浩が、縋るような視線を向けた。
「うん……」
その瞳に首を振る姿を映し出すことなどできるはずもなく、僕は静かにうなずいていた。
部室で着替えを終え、誰もいない教室でぼけっと窓の外を眺めていた。電車の時間まではまだ余裕がある。僕がちょっと考え事をしたい、と言うと、葵と良太は「じゃあ席取っとくから」と気を遣ってか先に駅に向かってくれた。
電気を点けていない教室内に、僕の呼吸音だけが小さく木霊する。鞄は僕のそれ以外、一つも見当たらない。皆、放課後の時間を過ごし終え、自らの帰途に就いたのだろう。こんな風に、何も行動を起こさずに、見ているだけでは変わるはずの事も変わらない。練習の疲れもあって、今すぐ調べる気にはならなかった。もしかしたら今の悩みとは関係なく、一人になりたかっただけかもしれない。そうしたら、何か起こるような気がしたのだ。
「はぁ……」
一つ息を吐く。つい先日、貴浩に教わったばかりだ。辛くなったら息を吐け、と。今まで意識したことはなかったが、いざやってみると、本当に気分が楽になったような気がする。
「……ため息吐いたら幸せが逃げるよ?」
背後から声がかけられる。僕の息だけに汚染された空間には静謐すぎるほどの声。
「大丈夫」
僕は、そんな彼女の声に同調するように静かに答える。微かに首をかしげたのが、小さな音から感じられた。
「ため息ついても、幸せは逃げへんよ」
貴浩からの受け売りだが、口に出す。
へぇー、と感心するような声を出しながら、その姿が僕の横に並んできた。着替える時に解いたのか、髪をストレートに下ろした瑠璃。その瞳がゆっくりと僕の見る景色に添えられる。普段見慣れた姿との雰囲気の違いに、一瞬息を呑む。そして何も喋ることなく、そのまま二人、黙り込んだ。瑠璃のさらっと流れる黒髪が、緩やかな風に乗り、流麗に靡く。しかし、その風が吹く音は聴こえなかった。
「ごめん、今の貴浩の言葉」
瑠璃が僕の言葉を、僕の産物として受け取っているか、それとも他人の言葉と思っているか定かでなかったため、一応言っておく。ただ単に、僕が沈黙に耐えきれなかっただけでもあるのだが。
「……うん、そんな気はしてたよ」
しかし、瑠璃はふふっ、と柔和に微笑んで言った。「そっか」と僕は短く返す。柄でもないことを言い、さらにそれについて見透かされていたことに対して、恥ずかしさが湧きあがった。
瑠璃に気づかれないよう、小さな深呼吸をして自身を落ち着かせる。
「今のんは、貴浩の言葉。この前、僕が……落ち込んどる時に言ってくれたんよ。『ため息吐いたら楽になれるで』って。ほんで実際にやってみたら、ホンマに楽になるし。やっぱり、貴浩には敵わへんわ」
苦笑して言う。
言いながら、少し目の奥が熱くなるのを感じた。束の間忘れていた、貴浩からの頼みごとを思い出す。
元をたどれば、ここに一人でいたのは、確証のない予感に突き動かされていたためだ。そこに瑠璃がやってきたということは、これはまさに願ったりかなったりの状態ではないだろうか。まだ野球部に入って日も浅い瑠璃だが、もしかしたら未熟者なりの意見やヒントを言ってくれるかもしれない。そんな一縷の望みをかけて、聞いてみることにした。
「うーん……」
僕のヘルプに対し、大きく首をひねって思案する瑠璃。顎に手をついて唸る瑠璃は、どこの学校にもおいてあるであろう、「考える人」を彷彿させた。
たっぷり一分間ほどそうした後。
「……ごめん、やっぱりあたしにはわかんない」
項垂れて、そう答えた。役に立てなくてごめんね、と本当に申し訳なさそうな顔で、再度謝られる。心から親身になって考えてくれたらしい。
「い、いや、僕の知識が乏しいのが悪いんやし……! こっちこそ無理を言ってごめん!」
瑠璃のそんな萎れた表情を見ているのが嫌で、僕はあわてて両手を振ってそんな彼女の姿を遮る。
「あ、でも、調べることぐらいはできるよ。何ならちょっと調べてみよっか?」
影が差していた顔を少しだけふわっとさせ、瑠璃は言った。仄暗い教室の中で、それは小さいながらも、とても眩しく輝く光のように思えた。
「え、いいん? ホンマに?」
僕が少し声を荒げて確認すると、
「もちろん! 今、あたしが力になれることって言ったらそれぐらいしかないしね! 協力できることは何でもやっていかないと!」
言葉が輝いていれば、それを発する表情も明るくなる。入部する旨を伝えた時のように手を握り締め、自らを鼓舞するような仕草をしている。彼女が、強い願望を持って話すときの癖なのだろうか。
「……じゃ、お願いしてもええかな」
僕がもう一度確認すると、瑠璃は僕の顔を見据えるように顔の位置を正した。つられて、ふわっと柔らかく髪が揺れる。
「うんっ!!」
それと同じぐらいに、柔らかく、瑠璃は微笑んだ。




