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常に楽しく! 常楽高校野球部物語~入学編~  作者: 深淵ノ鯱×kareat
1年・春~夏
20/54

 4

 その日、僕は夢を見た。普段見る、脳が適当につくりだした夢なんかじゃない。昔の記憶が、そのままフラッシュバックしてきたようなものだった。

 まずは、真夏の焼けるような日射しの下から始まった。目の前には、陽の光を反射する、青々しい芝生が広がっており、少し先を見れば、多くの足跡が付いた茶色い土もあった。流れるように綺麗な音楽が響き渡り、それに乗っかるように、野太い声も聴こえる。

 僕は、甲子園のスタンドから高校野球を見ていた。まだ小学校低学年だった僕は、母親に連れられてここまでやってきた。道中での母は、ずっと上機嫌だった。

「高校野球の決勝戦よ」

「ここまで来れる、って信じてた!」

「絶対勝てる!」

 そんな言葉を幾度となく繰り返していたと思う。正直、当時の僕には意味などさっぱり解らなかった。高校野球というものをよく知らなかったし、うきうきすることもなく、車内ではただ沈黙していた。そんなところに行くのならば、遊園地とか行きたい、と何度となく心の中で叫んだ。

 けれど、一つだけ僕にもわかることがあった。普段は比較的大人しい母が、ここまで熱くなる理由。

 それは、僕の兄がこの試合に出るからだ。だからだと、幼いながらに納得していた。

 試合は、一対〇で最終回まで進んだ。兄の高校が、勝っている。いきり立つ周りの様子に僕が戸惑っていると、母がひそかに耳打ちしてくれて、「あと少しで、お兄ちゃんの学校が勝つのよ」と教えてくれた。つまり、あとちょっと頑張れば、お兄ちゃんは有名になれるのか、と得心した。

 一球一球を投げるたびに、周囲からは大声や、祈るような声が漏れる。「あと一球ーー!!」と誰かが叫んだ。

 そしてその直後、僕の周りから大歓声が上がった。グラウンドではたくさんの人が、抱き合うようにしている。隣では、母が狂ったように、僕を抱きしめながら涙を流していた。

 流石の僕にも理解できた。あぁ、お兄ちゃんは有名になれたんだ。

 なぜだか、とても嬉しかった。自分のことではないのに、まるで自分が何か嬉しいこと、楽しいことをしている気分だった。


 一気に場面は変わった。今度は自宅だろう。休日なのか、父も母も、そして兄も、くつろいでいる。先ほどの光景から少しだけ時は流れたのか、みんなの顔つきは少し変わっており、自分が見る景色もわずかに高くなっていた。兄が、優しい笑顔で、映画でも観ようか、と声をかけてくれる。僕が大好きなアニメ映画だ。僕は嬉しくて、そんな兄が大好きで、満面の笑みで頷いた。

 けれど、映画が始まって数十分後。外が騒がしくなった。多くの人が走り回る音がひっきりなしに聞こえ初め、怒鳴り声のようなものもきこえる。

「また、こうしえんがやってきたのかな!?」

 無邪気な僕は、何も考えず兄に問う。兄は、ひきつった笑みで僕の頭を撫でただけだった。母と父は、迷惑そうな顔をして、ドアの奥を見つめている。

「何かあったのかしらねぇ……?」

 母が不安そうな顔で呟いたとき、ドアが叩かれた。ぴんぽーんと、鈴のなるようなインターホンの音も響き渡る。途端に、兄は血相を変えて僕の横から姿を消した。どたどた、と階段を上がり、二階へ行く。

「……お兄ちゃん?」

 兄を追うようにして、階段のところまで行く。上から「来るな!!」と涙交じりの怒号が聞こえてきて、僕はその場に立ちすくむ。

「…………どしたの??」

 僕が呟く声と同時に、玄関の方から、多くの足音と、母さんの悲鳴。あわてて振り向くと、凛々しい服に身を包んだ大人の人たちが、大勢立っていた。その人たちは、僕を押しのけて二階へと進む。一分も経たないうちに、兄がその人たちに両腕を抱えられて降りてきた。

 兄は何も口にせず、ずっと俯いていた。先ほど見た笑顔はそこにはない。

「お兄ちゃん!? ねぇ、お兄ちゃん、どうしたの!? 映画は!?」

 僕は叫んだ。まだ映画は途中だ。終わりまで、一緒に観たい。

「ねぇ! ねぇってばっ!!」

 兄を抱える大人が、鬱陶しそうな眼で僕を睨む。兄は、僕の横を通りぬけるとき、一言だけ苦しそうに、哀しそうに呟いた。

「お前……も、いつ、か……あの、場所、に……」

 僕の意識はそこで途切れた。甲高い僕の叫びと、むせび泣く両親の声を残らせて……。


 *

 朝陽が眩しい。毎朝聴くような、すずめの鳴き声などは聞こえないが、一層ひんやりとした空気が急速に僕を現実の世界に引き戻す。

「……寝ちゃってもたか……」

 明るさでうまく開かない目をこすりながら、近くにかけてあった時計を見ると、時刻は午前五時。言い渡されている起床時間は六時半なので、まだ余裕はあった。

 隣を見ると、やはり葵がすうすうと寝息を立てて気持ちよさそうに眠っている。あまりに起こすのが申し訳なく思えてしまったので、しばらくこのままにしておくことにする。

「にしても……あの夢か」

 ずっと昔の夢だった。なぜ今になってあんな夢を見たのだろう。寝る前に考えてしまったのが悪かったのだろうか。睡眠前に考えたことや想像したことは夢に出やすいと聞いたことがあるし、もしかしたらその所為なのかもしれない。

 あの日、僕の前から忽然こつぜんと姿を消した兄とは、今に至るまで会っていない。今どこにいて、どんな顔をして、どんな人と共に何をやっているのかといった、彼に関する情報は何一つ得られていない。

「まぁ、でも……」

 当時は全く理解できず、その後数日は泣いたり気を落としたりしていたが、成長した今になっては、兄の言動などからなんとなく推察はできる。ただ、僕はそれを認めたくないだけだ。嘘であってほしい、と願い続けている。

「今は、関係ないよな」

 数時間前にも言った言葉をもう一度繰り返す。

「……んん」

 葵が小さく、寝ぼけた声を出す。彼女は、少し体を揺らしたが、すぐに何事もなかったように安定した呼吸を始める。

 もうしばらく、このままでいるか。

 それから三十分ほど、僕らは寄り添い合った体勢で過ごした。


 六時前に葵を起こし、それぞれの自室へと帰った。僕の肩の上で目覚めた葵は、その直後は状況が呑みこめずにあたふたしていたが、僕が話すとやがて思いだしたのか、理解してくれた。お礼と謝罪を言った彼女は、軽そうな足取りで自分の部屋に入っていった。

 僕のルームメイトである貴浩は、まだ眠っていた。布団に入った時にいた位置とはかなり異なる場所に、今彼はいる。両足はだらしなく放り出され、掛布団は誰もいないところへと飛ばされている。普段は真面目な貴浩が、ここまで不格好な姿勢であるというのは少々可笑(おか)しくて、もうちょっと眺めてみたいな、などと思ったが、時間が迫っていたので起こした。

 そして、午前八時には、朝の準備や朝食なども終えて、みんな準備万端な状態で集合することができた。

 風も止み、空は快晴。ところどころにふわふわと雲が浮かび、鮮やかな水色の絨毯じゅうたんを滑るように流れている。近くにあるグラウンドの調子も良好で、今日はようやくちゃんとした練習が出来そうだった。

「おっしゃ、今日は時間がようけあるから、じっくり練習すんで! まずは軽くジョギングでもしよか!」

 今日は機嫌がいいのか、珍しくテンションが高い石崎先輩がそう言い、僕らは整列する。いきなり体を動かすのもあまりよくないので、少しずつ体を温めていこうということだろう。

 本当に軽く、朝のラジオ体操代わりのような感じで、僕らはロッジ付近を走る。朝の清々しく新鮮な空気が顔を撫でる感覚が、実に気持ちいい。市内の朝も、都会と比べれば随分とましなものだが、人里離れた世界のものは本質的に何かが違った。言うなれば、「味」を感じられることだろうか。無味無臭のはずの空気なのに、ほんのりと甘みがするような気がするのだ。

「…………」

 誰も喋ることなく、一同黙々と道をく。葵も、今日は最後尾をついてきている。柴田と支倉も、ずいぶんと大人しく、足を動かしていた。特に、支倉の表情はこんな朝に似つかわしい、晴れやかな表情をしているような気がした。

 小一時間ほど走った後、ロッジの職員さんが淹れてくれた冷たいお茶を飲んで、いよいよ本格的な練習となった。


「よーし、それじゃ行くぞー」

 バッターボックスで、まだやや眠たそうな目をしているようにも見える開田監督がバットを片手に、白球を掲げる。僕はショートの位置で声を張り上げた。

 まずは基本的な守備練習。ゴロ処理やライナー、フライの捕球。あとは送球を正確に行うことを目当てに、練習を行った。

 初練習の時に落球してしまった柴田は、若干慎重になりすぎているのか、その動きはぎこちなく見えた。自分の前に落ちてしまいそうな打球に対して、尻込みしてしまったりといった課題が見つかった。これは本人の気持ちの問題なので、明確な解決策があるわけでもない。言葉で落ち着かせつつ、少しずつ本来の姿に戻ってくれるのを待つだけだった。

 基本的な内容が終わると、連携プレーの練習が始まった。ダブルプレーや、盗塁された際のベースカバーなどを中心に行った。本来ならば、狭殺ランダウンプレイといった練習もするべきなのだろうが、人数の都合上、満足にできないのである。飛び出したランナーを挟み撃ちの要領でアウトにする方法なのだが、動きがかなり煩雑はんざつなので、慣れるまでに時間がかかる。そういう意味でも、部員は最低九人はやはり欲しい。

「……ほいっ、楠木!」

 僕が考えている間にも練習は絶え間なく進む。転がってきたボールを拾った二塁手の支倉が、二塁ベースに入った僕に軽くトスする。胸の前に放られた球を、しっかりと受け取り、ベースを少しだけ踏んでから、一塁に送球する。

「ふぅ」

 既に十数回ほど同じ練習を繰り返しているが、ようやく僕と支倉の動きも落ち着いたものになってきた。初めて何回かの内は、お互いにベースに入るのが遅れてしまったり、送球がうまくいかなかったりして、そのたびに石崎先輩たちの指導を得てきた。それがようやく功を奏したのだ。

「じゃ、ちょっと休憩しようか。そろそろ一時間半が立つしね~」

 何十球もの球を打った監督がそう能天気のうてんきな表情で言う。さすがの僕もそろそろ休みたいな、と密かに思っていたので、監督の提案は願ったりかなったりだった。

 既に用意されていたジャグからスポーツ飲料をコップに注ぎ、一気にあおる。

「どう……ですかね? 今日のアクエリは……」

 葵が僕らの傍らで、少々心配そうな顔つきをしながら見つめている。

 実は、昨日の練習では、飲み物を薄く作りすぎてしまって苦言を呈されていたのだ。計画が狂ったりしてドタバタしてしまったので、味見する暇もなかったか、配分を間違えてしまったのだろう。その時の葵は酷く気を落としてしまい、猛省していた。

 けれど、今日はその反省が活きたのか、しっかりとしたアクエリアスの味だった。ほんのりとした甘みと、口内に少しだけ残る酸味が非常に気持ちいい。個人的に、スポーツをやっていてよかったなぁ、と心の底から思える瞬間である。

「うん、上手に出来とるで。問題ないよ」

 笑みを携えて葵に言う。「ホンマ?」と嬉しそうな声が返ってきたので、僕は改めて頷き返す。

「よかったぁ……」

 葵は心底ほっとしたように胸をなでおろした。ほかの部員たちも問題ない、といった表情で飲んでいる。それをみて、葵は一歩動き出した。

「その、どう……? 口にあえばええんやけど……」

 彼女が向かったのは柴田と支倉のところ。僕たちからは数メートル離れたところで給水していたのだ。突然に声をかけられ、少しドギマギする支倉たち。けれど、すぐに気を取り直して、僅かに顔を綻ばせ、答えた。

「……大丈夫、ありがとな」

「僕も同じく。ありがとうね」

 二人とも、ぎこちないながらもしっかりと返事した。

 彼らとの壁はまだ、有刺鉄線ゆうしてっせんのようにいじらしく残っているのかもしれない。寧ろ、残っている可能性が高い。だけれど、その鋭く尖った部分を越えることは不可能ではないはずだ。ゆっくりと、その部分を溶かしていけばいい。いつか、人の体に、心に刺さらない穏やかな丸みになり、楽々と乗り越えられる日が来ることを、僕は楽しみにしている。


 十数分程の休憩をはさんだのち、もうしばらく、今度はミスが多かった部分を重点的に練習することになった。とはいっても、二遊間の連携プレーはそつなくこなせるようになったし、エラーをしたわけでもなかったので、あまり僕がやるようなことはなかった。そこで、僕は久しぶりに投手の練習をすることにした。

 そもそも、僕の本職はピッチャーだ。中学野球部に入部してすぐのころ、選手不足でショートに入ったら、思っていた以上にうまくできたので、ショートもするようになったのだ。そして、中学の間は基本的にショートを本職にしていた。

 先輩や監督に、投手練習をする旨を伝えると、すぐに承諾してくれた。石崎先輩は、正遊撃手争いができなくなるためか、少し悲しそうな表情をしているようにも見えた。

 キャッチャーの良太にも頼んで、まずはキャッチボールから入ることにした。守備練習をしているメンバーとは少しだけ離れる。初めは良太にも立ってもらって投球する。これまでの数時間の練習である程度肩は温まっていたため、なんとなく納得のいくボールは投げられるようになった。

 続いて、良太には座ってもらい、実際の試合のような感覚で投球する。振りかぶって力をため、オーバースローで投じた。

 僕の投じた球は、良太が構えていた位置とは違い、大きく上に逸れた。良太が俊敏に反応し、捕球してくれる。「ごめん!」と一言謝り、返球を受け取った。

 まだ投手時代の感覚が戻っておらず、ボールを握る手が滑ってしまった。球速も速いとは言えず、中学の時と比べると、衰えてしまっているように感じる。

 もう一度グローブの中でボールをくるくると弄ってから、握り直す。野手とは違い、ピッチャーは当然の如くボールを握る時間が長い。縫い目の凹凸おうとつの感触を短い時間、楽しむ。

 もう一度振りかぶり、二球目を投じた。今度は先ほどよりも低く投げることに成功した。ただ、良太の構えていた位置とは真逆のところでパスンと音がした。二球連続で、いわゆる、逆球ぎゃくだまを投げてしまった。

「んー……」

 やはりまだ感覚が呼び戻せられない。逆球になっているということは、自分のコントロールが落ちているということだ。逆球になると、捕手の要求とは異なったところにボールが行ってしまうため、パスボールやワイルドピッチなどのエラーにつながる可能性もある。また、球威が落ちていることが多いので、長打を喰らうこともある。一球の失投が、失点やチームの負けにつながることは非常に多い。

 ボールを受け取った良太が立ち上がり、僕の方に歩み寄る。

「ちょっとボールが荒れとんな。まぁ、わしを座らせて投げるんも久しぶりやし、今はコントロール重視で投げてみ」

 軽くアドバイスをくれる。僕もちょうど思っていたところだったので、一も二もなく頷く。

「にしても、お前とまたバッテリー組む日が来るとは思ってへんかったわ。一年の時にショートに転向してもて、もう友哉の球受ける機会はないと諦めとったのに」

 良太がおどけた顔つきで苦笑いする。

「でも、急にピッチング練習ってどしたん? いや、友哉がピッチャーできるんはわかっとるけど。中学んときはずっとショートやったやん?」

 良太が不思議そうな顔つきで僕を見る。

「うーん……。自分でもよーわからへんねんけど……。何というか、夢、の影響かな……?」

 これが正直なところだ。僕さえも、明確な答えは判っていない。

「……夢?」

「うん……。ま、まぁ、自分でもよくは覚えてへんねんけどね。僕がピッチャーやろう、って決心したときの夢」

 覚えていないというのは嘘だ。夢の内容は、自らの記憶。忘れるはずがない。

 だが、ここは良太には申し訳ないが、嘘を吐かせてもらう。良太を始め、葵や貴浩にも僕の兄のことは伝えていない。余計な心配をかけたくないのと、今の友人という関係が壊れることを危惧してのことだ。詮索されるのが面倒であり、怖くもあった。

「へぇー……。まぁ友哉がピッチャー始めた理由、っていうんも気になるけど。そろそろ練習再開せんとな」

 良太は笑いながらポジションに戻る。きっと、理由が気になるというのは本当だろう。誰だって、他人の情報というのには興味がある。僕だって、みんなが隠したがっているようなことも知りたいと常日頃思っている。

「じゃ、コントロール重視でいこうぜー!」

 マスクをかぶりながら、良太がミットをパンと叩く。乾いた音が、葉擦れの音に交って僕まで届く。

 きっと、その理由を僕が周囲に明かす機会は、この三年間の内には来ないとは思う。でも、いずればれてしまう可能性は高い。その時に、みんなはどんな反応をするのだろうか。僕をうそつきと罵るだろうか。はたまた、人でなしでもみるような目つきで見るだろうか。それを想像すると、背筋に氷水をぶっかけられたかのような悪寒が走る。

「くそっ」

 小さく呟き、その苦しみから逃れるように、一球を投げた。


 その後、数十球を投げ、僕の久々の投手練習は終わった。初めこそ、狙ったところにボールが行かなかったり、ワンバウンドしてしまったりと大いに荒れたのだが、十球を越えたあたりから徐々に落ち着き始めた。球威や球速こそ、本調子ではないものの、コントロールは幾分かましにはなったと感じられた。

 そして午後は、僕がマウンドに立ち、シート打撃のようなことも行った。といっても、全守備位置に選手がいるわけでもないので、ほとんど遊びのような雰囲気だった。でも、僕としてはバッターを意識して投球できるので、実戦感覚で投げられたことがとても嬉しかった。 

 石崎先輩や支倉、柴田は僕の変化球に初めは苦しんでいた。僕はストレートやスライダーでカウントを整え、ゆるいカーブとフォークでアウトを取るピッチャーなのだ。特にカーブには変化量・球威共に自信を持っているので、堂々と投げ込んだ。

 ただ、やはり経験がものを言うのか、石崎先輩の順応は早かった。強振から、安打を打つことを目当てにしたミート打ちに変更し、僕のカーブをセンター前に弾きかえした。中学の時は、こんなにも早く打たれることはかなり少なかったので、やはり高校野球は違うんだなぁ、と再認識させられた。

 他にも、貴浩が外野の頭上を越える大飛球を打ったり、ちょっと打ってみたい、と打席に入った葵が初球をヒットにするなど、予想以上に盛り上がった。 

 気づけば、日が傾き始める時間になっていた。そろそろ帰るぞー、と石崎先輩が言い、皆笑顔で、どこか名残惜しそうにグラウンドを後にした。

 この合宿のことを聞いたときは、果たしてどうなるのかと少なからず不安だったのだが、こうして終わる直前にまでなってみると、良い経験ができたものだととても満足していた。大変な謝罪があったり、深夜に葵と夜空を見上げたり、久しぶりの投球練習をしたり。

 野球に関しては、色々課題が見つかったが、チームメイトとの関係は、この二日間で大きく変わった。少なくとも、軽い雑談を交わせるほどには改善された。今も、僕を含め、葵たちは「疲れたなー」とか「学校嫌やなー」など、和気あいあいとしゃべっている。

 部屋から荷物を引っ張り出し、ロッジの駐車場に集合する。既に、オレンジの光が辺り一面を照らしていた。

 最後に、お世話になった職員さんにお礼の言葉を述べ、僕たちはバスに乗り込んだ。行きの時と同じく、隣は葵だったが、その葵は発車後、すぐに眠ってしまった。昨夜、慣れない体勢で寝たせいで疲れが抜けきっていなかったのだろう。そうでなくても、今日の葵はとても生き生きとしていた。その反動もあるに違いない。

 他のみんなも、葵同様に寝るか、寝ていなくても大人しくしていたので、車内はとても静かだった。

 バスの大きなフロントガラスから見える夕陽を眺める。あの光が消えると、ここには夜が訪れる。また、宝物のように煌めく星屑たちが、闇の世界を月と共に照らしだす。また、そんな景色を葵と共に見られたらいいな、なんて考えた。

「…………」 

 気づけば僕も寝てしまっていた。目覚めたのは、すでに学校に着いてからだった。先に起きたのであろう葵が、楽しそうに僕の体を揺らしていた。

 まだ半分寝ぼけながら、バスのステップを降りる。そしてみんなで駅まで歩き、各々の電車に乗る。

 一旦眠ったため、電車内では眠気は訪れなかった。窓の外は夜のとばりが下り、一番星が輝く時間となっていた。

 駅について、それぞれの方向に分かれてからは、葵と二人ぽつぽつと話しながら歩いた。それでも、騒ぐほどの元気は残っていないのか、とても静かだった。

 家に戻って夕食を食べ、お風呂に入り、学校の準備をすると、僕はスマホを弄ることもなくベッドに身を沈めた。すーっとシートに吸い込まれるかのような感覚に、身を委ねる。途中で何かの着信音が聞こえたような気もしたが、取る気力がなく、無視してしまった。

 その日の夜、僕はまた夢を見た。それは、寒い中、少しばかり成長した葵と共に星空を眺めている、そんな夢だった。

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