二人の感情
二人だけの野球部。
それを聞いたとき、はたして僕はどのような感情を抱いただろうか。
この学校は人数が少ない。だから、初めから覚悟はしていたつもりだ。それでも最低限の野球ができる人数、つまり九人はおるやろう、と思っていた。先輩たちだけで九人いれば、新入生が入部すればサポートもできるし、チームに厚みを持たすこともできる……。
だがしかし、僕の考えは甘かったようだ。
さっきまで涼しく感じていた春の風が、今は冷たい。
僕は何も喋ることができず、そして貴浩も何も喋らない。少し前に、近くを過ぎていった運動部の掛け声がまだ、頭の中で響いている。僕の脳内に、静寂は訪れなかった。
差し込む光の筋が、少し動いた気がする。そしてようやく、貴浩が口を開いた。
「まぁ、なんていうか……。とりあえず入れよ、そんなとこに突っ立っとらんと」
いつもより低い声だ。その声が手招きして僕を促す。僕もこのままなのは決していい気分ではないので、その室内に一歩足を踏み入れた。
グローブの皮のにおい、ここで落とした泥や砂のにおい。それらが汗と混じった、野球部部室特有の言葉にできない、そんな空気が僕を包む。スッと軽く息を吸い込む。このにおいはどこの野球部でも変わらへんのやな、と僕は少し安心する。
だが、その室内は僕の見慣れたそれではなかった。
先ほどの自分は、色眼鏡でもかけていたのではないか、とさえ感じるほどの異様さだった。
毎日、場所の確保に手間取っていた、ユニフォームに着替えた後、制服を入れる棚。そこは住民が全て去った蜂の巣のように何もない。ぽつんと、悲しく置かれているミット。もしかしたら貴浩のものかもしれない。
ミットはほかにも点々と置いてあったが、それらは存在感を殆ど放っていないように思えた。
「……驚いたか?」
唖然としている僕に、貴浩が静かな口調で話しかけてくる。僕は素直に首を縦に動かした。それを見て、なぜか貴浩は安心とも満足とも言えぬ、小さな笑みを浮かべた。
「そう思うわな、そりゃ。いや、そう思うんが普通やで。中学ん時はこんなん想像もせんかった。俺も驚いたよ。初めてここに連れてこられたとき」
貴浩にとってほんの一年前の話だが、懐かしそうに目を細めた。笑みは崩れていなかった。
「やけど、何が一番驚いたって、ここの連中はそれを何とも思ってへんねん。これで普通。問題ないって思っとる。俺は最初、それが許せへんくて、何とかして変えようと思った。去年卒業した先輩に向かって、必死に自分の意見を言い続けた」
貴浩の話す瞳は真剣だ。それだけ、彼は本気で訴えかけたのだろう。細めていた目が少し開く。
「でも全く相手にしてもらえへんかった。……いや、相手にしてもらえへんだけやったら、まだよかったかもしれん。先輩ら、何て言ったと思う?」
貴浩は僕の顔を見ずに問うた。その顔に張り付いていた笑みは消えていた。目も大きく開かれている。
「『部員おらへんのやから、しゃーないやろ』やって。続けて『ここは常楽高校や。名前の通り、常に楽しく、やらんとな』。俺は思ったね。こりゃアカンわって。……去年のこの高校の夏の大会の成績、知っとるか?」
頭の中で去年の記憶を探るが、該当する答えは出ない。僕の反応を見て、貴浩は少し笑った。自虐的な、哀しい笑みだった。
「出てへん……いや、出れへんかったねん。部員不足でな。俺は悔しかったし、悲しかった。怒りに似た感情やったと思う。でも、そんな俺の想いを踏みにじるように、先輩らはのうのうと卒業していった。その後姿から後悔とかは全く感じられへんかった。俺たち後輩に何かを託すわけでもなく、命令することもなく、『卒業式』って書かれた看板の横に立って笑顔で写真に写ろうとしとる先輩は、ただの『高校生』やったよ……」
言葉を区切ったとたんに、外の音が良く聞こえるようになる。いつの間にか、聞こえていた掛け声は止んでいた。静寂が耳を劈き、何とも言えない複雑な心境に、僕は顔を歪める。
「……まぁ、こういうところなんだよ。ここは。それでもお前は、入りたいんか?」
貴浩は、すべてを諦めきったような口調と表情を僕に向ける。でもその目には、小さく期待の色が浮かんでいる感じがした。
パラリと、砂が舞った。僕は躊躇うことなく頷く。
「……そうか。ありがとうな」
貴浩は、やっぱり哀しそうな瞳で。
だけど、どこか嬉しそうに微笑んだ。
「そういや、貴浩」
僕の声に貴浩が「ん?」と振り向く。
「さっき『二人』って言ったつうことは、あと一人おってん?」
聞いて、貴浩はあぁ、と頷いた。
「もう一人だけおるよ。俺の同級生や。多分、まだ居ると思うから何なら会っとくか?」
その提案を、僕は快く受けいれる。貴浩は「よっしゃ」と言い、疾風の如く部室を飛び出していった。
誰もいなくなった部室を改めて見回す。本当に何もない。夢も、感情も、心も。そこにはただ空虚な空間が存在しているだけだった。一歩歩けばその足音は儚く消えていき、一つため息を吐けば、空しく堕ちてゆく。
仕方なく、備えてある椅子に座って貴浩の帰りを待っていると、ほどなくして外から足音と話し声が聞こえてきた。それらは、部室のドアの前で止まった。
ギギィ……と軋んだ悲鳴を上げて扉が開く。そこには貴浩のほかにもう一人立っていた。
「友哉、紹介するわ。俺のクラスメイトで、一応この野球部のキャプテン、石崎真人」
「石崎真人。紹介してもろた通り、『一応』のキャプテンや」
そう言って石崎先輩は右手を差し出した。とても筋肉質で、大きな手だ。手だけではない。石崎先輩は体全体が大きかった。砂漠の中央で生き続ける巨木のような足。その上では、逞しく鍛えられた胸筋が存在感を放っている。一言で言うなら『巨人』だった。
差し出された手をぎゅっと握って握手する。ごつごつとした岩のような手が、長年の苦労を物語っている気がした。
「んで、君がこの野球部に入りたい、っていう……」
「あ、はい。自己紹介が遅れてすみません。野球部に入部希望します、楠木友哉です」
僕は簡単に名乗って、軽く頭を下げる。
「そうか。楠木は、もうこの部の現状については聞いとるんやろ?」
貴浩からさっき聞いたばかりなので、はい、と返事する。
「それなら話は早い。こんな部活、入らん方がええで。悪いことは言わん。やめとけ」
石崎先輩は冷たく言い放ち、とっとと帰れ、と言うような視線を投げてくる。それは、草原で迷った獲物を狙う肉食獣のそれのようだった。
あまりの冷たさで、しかもそこに嘘や冗談の色はなかったため、次の言葉が喉で引っかかる。嫌な汗が背中を伝っていくのがわかった。
「おい、聞いとるんか、楠木」
低い声が、暗い室内に響く。
そんな石崎先輩を宥めるように、貴浩が声をかけた。
「真人、そんなカリカリすんな。こいつも困っとるやんか。それに、お前も野球したいんやろ? そのためにはメンバー、集めなアカンのとちゃうん?」
貴浩の言葉に、石崎先輩は黙り込む。不愉快そうな表情は全く動かない。
しばしの沈黙の後、石崎先輩は面倒くさそうに口を開き、ボソッと呟いた。
「じゃあ、お前がメンバーを集めてこい」
そう言い残して、部室を出て行った。その背中が一歩、また一歩と遠ざかっていく。どれだけ離れても、その威圧感には空気を切り裂くような大きな力があった。
「はぁ~~~~……」
僕は緊張感を外に投げ出すような深いため息を吐く。胸につっかえていた蟠りと、出すはずだった言葉が一斉に流れ出していくような気がした。
「お疲れさん」
貴浩が歩み寄って、僕の肩をポンとたたく。
「まぁ、あいつはあんな奴やけど、特に気にすんな。あいつも去年から、俺と同じような気持ちを抱いとってな、まだ怒りが抜け切れてへんねん」
貴浩が苦笑しながら僕に説明する。当時の先輩が卒業した今になっても、その時の気持ちを拭いきれない。そんなにも酷かったのか、と僕は静かに考える。
「真人はあんな態度をとってはいるが、誰よりも野球をしたいと思っとるはずや。俺も協力する。せやから、頑張ってクラスの誰かを勧誘してみてくれへんか?」
そう言って貴浩は両手を合わせる。懇願するようなその瞳は、揺れることなくまっすぐに僕を捉えている。
「……うん。できるかどうかはわからんけど、とりあえず声かけてみる」
僕は、そんな貴浩の姿を前に断れるはずもなく、そう答えた。
「野球がしたい。その気持ちは、僕も誰にも負けとうないし」
想いを言葉にすれば、かけられた重圧も少し和らぐ。背中に圧し掛かる空気が少し軽くなった。
「…………そうか」
貴浩は満足そうにうなずいた後、短く答えた。
部室を照らす陽の光は朱色を帯び始めていた。
揺れる電車の中で一人考える。
貴浩はまだ残るから、と言ったので1人で帰ることにした。良太や葵は、きっと放課後すぐに帰っている。
流れていく緑を見つめる。
いきなり課せられた課題。冷静になって考えると、まだクラスの誰とも話していない。そして、人数も決して多いとは言えない。そんな状況下で、この難題を解決するのは骨が折れる。
「どうすっかなぁ……」
列車がトンネルに入る。ゴーという身体じゅうを轟かす振動に襲われる。
ガラス窓には入学初日から疲れ果て、憔悴している自分の顔が写っている。それを見ていると、またため息を吐きたくなる。
『間もなく、丹波竹田、丹波竹田です。御忘れ物の無いように……』
車内アナウンスが響き、駅に着く。ホームがあるだけの、簡素な無人駅だ。
列車はすぐに動き出す。
紅い夕陽が、車内に流れ込んでいた。
比喩じゃないと言っても過言ではない、聖地での燃えるような激戦。毎年テレビで観るそれを想像して、僕はあることを決める。
一人で悩んでいても仕方がない。
電車はすぐに僕の家の最寄駅に着いた。栄光へ向かうための、最初の戦いが始まる。