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常に楽しく! 常楽高校野球部物語~入学編~  作者: 深淵ノ鯱×kareat
1年・春~夏
19/54

哀しき夜

 深夜。草木も眠る丑三つ時、と呼ばれるような時間に、僕は目を覚ました。

 小さな窓から見える外は、墨汁を直接塗りつけたかのような暗闇だった。隣では、貴浩が布団から足を放り出して、いびきをかいて眠っている。

「……トイレトイレ」

 山のロッジということもあり、気温は低い。その所為で尿意を催したのだろうか。家ではこんなことは滅多にないので、闇に眼が慣れるまで時間がかかる。ようやく薄ぼんやりと見えてきた風景をなぞって、僕は廊下に出た。


「……さむっ」

 思わず身震いする。

 魚を冷凍保存する時に使用される、巨大な冷凍庫の内部のような空気だ。中学の時に、社会見学で訪れたある漁港で体験したのだが、体の外側から徐々に内部に冷気が沁みこんでくるようで、気持ちのいいものではなかったのを覚えている。その時のことを思い出して、僕は再び体を震わせた。

 非常灯の緑の灯りだけを頼りに、ゆっくりと壁に沿って進む。やがて、「御手洗い」と書かれたプレートと、夜中でも煌々(こうこう)と眩しい光を放つ自販機が見えてきた。

 早いところ用を足して、暖かい布団に戻りたいとひたすらに思っていたのだが、あることに気づいた。

 男子トイレの隣にある、女子トイレの灯りがついていた。

 初めは職員の点検ミスかとも思ったが、暗い中でこの光はかなり目立つし、それはないだろうとすぐに思い直す。夜中は、使う人が自身で電気をつけて使用してくれ、とのことだったので、今誰かが入っているのだろう。

 誰が入っているのか、少々気になったが、自分の膀胱ぼうこうも限界が近づいていたので、慌てて灯りをつけ、用を足した。

 

 手を洗って廊下に戻り、備え付けのソファーに腰を下ろす。折角なので、中の人を待ってみることにしたのだ。職員なら挨拶してそれまでだし、葵ならば一言二言会話を交わしてもいい。目がくらむような蛍光灯の眩しさに負け、僕の睡魔はどこかに霧散してしまっていた。

 すると、大して時を待たずして、女子トイレの方向から水を流す音が聞こえてきた。

「……友哉?」

 ハンカチで濡れた手を拭きながら姿を現したのは、やはり葵だった。別に確信があったわけではないが、なんとなく予想はしていた。暗闇の中、悠然ゆうぜんと佇んでいる僕を不思議そうな眼で見つめている。

 僕はそんな葵に軽く片手をあげ、隣に座るように促す。葵はまだ若干戸惑いながらも、僕の隣に身を寄せてきた。

「どしたん、友哉……? こんな時間に」

 おっかなびっくりと言った様子で葵が口を開く。葵は特に体を震わせているような様子はなかった。むしろ平然と、この環境に順応している。

「ん、別に。トイレに起きたら女子トイレもついとったから。もしかしたら葵かもなー、て思って、ちょっと待っとっただけやで」

 僕は努めていつもの調子で話す。闇に包まれたエントランスに響く、小さな声。眼前に見える食堂からは、今にも得体のしれない何かがのっそりと歩み出してきそうで、恐怖心をそそる。

「そ、そうなんや」

 葵はと言うと、少し落ち着かない様子で体を揺らしている。寝るときはしているのか、後ろ髪をくくった葵。その部分が、不安げにぶれていた。いくら葵とはいえ、深夜に同い年の男子と面と向かって話すというのは緊張するのかもしれない。かくいう僕も、全く緊張していないわけではなかった。

 だから、葵の、そして自分自身を落ち着かせるために、話しかける。

「葵は?」

「私……? 私は、その……なかなか寝付けんくて。今日はいろんなことがあって、疲れとるはずやのにな。疲れ取らなあかんのに、目がえてもて」

 口角を少し上げて、苦笑する。

 夕食の時には、精神力も体力もさぞかし使ったことだろう。この前からのストレスも少なからず溜まっているはずなのに、眠れないのか。

「……そりゃ、大変やな」

「そ、大変なの」

 僕の言葉をオウム返しして、葵は視線を床に落とす。薄暗い中、その表情は見ることはできなかったが、あまり正の感情を伴ったものではない、ということだけは見えた気がした。

「寒く、ないん?」

 僕が腕をさすりながら問うと、

「ううん。結構長い間ここにおるから。慣れてもた」

 その体勢のまま、短く応答する。

 それを最後に、会話が途切れた。街中のように、深夜といえど自動車やトラックが走り回る世界とは違って、ここは何もない。あるのは自然と、ここにいるみんなの気持ちだけ。

「……なぁ、友哉」

 下げていた目を戻して、僕に顔を向ける。

「ちょっと外……出ぇへん?」


 扉についている鍵のツマミをくいっと回すと、いとも簡単に開錠された。警報とか鳴らないのかな? とか考えていたが、杞憂きゆうだったようだ。開けた途端、凄まじい冷気が僕らを襲う。一瞬で縮こまり、歯を鳴らす僕に反して、葵はちょっと震えただけだった。もしかしたら、僕が来る前に既に一度出てしまっているのかもしれない。

 闇夜の中見る景色は、昼間とは全く違うように映った。ここが本当に、約半日前に自分たちが降り立った場所なのか、と疑ってしまうほどの異なりようだった。時折吹く風に、木々は鎮魂歌(レクイエム)を奏でるようにひしめきあい、そして悲鳴を上げている。

「ちょっと……不気味、やな」

 思わず漏れた感想に、葵がくるりとこちらを振り向く。そして無言で空を仰ぎ見た。僕も、彼女に倣う。

「…………」

 言葉が出なかった。

 誰かが、宝石をまき散らしたのだろうか。

 僕の地元の石生でもたまに見る。けれど、ここまで密に集まり、それが重なり合っているような美しい星空を、僕は生まれて初めて見た。

 過去にプラネタリウムで星空を眺めた時も綺麗だと思ったが、さすがの科学でも、自然にはやはり勝てないのだろう。人工的に生み出されたものをはるかにしのぐ、濁り無く、純粋な小さな光。

「どれがどの星座で、なんていう星か、なんて私にはわからへんけど……。でも、この景色は、誰かと見ておきたかったんだ」

 首を上に向けたまま、葵が独り言でも呟くかのように言う。また風が吹けば、僕の耳まで届かなかったかもしれない。

「僕も……僕も、天体なんか詳しくないからわからんけど……。すごい。これは、ホンマにすごい……」

 僕の口から出たのは、まるで幼稚園児が言うような、拙い感想だった。けれど、僕はそれを発するのも、正直言って、やっとだったのだ。手を伸ばせば届きそうな、念じれば自分のものにできてしまいそうな、星々の欠片。気づけば寒さも風に飛ばされたのか感じなくなっており、このまま、いつまでも見続けていたくなるような感覚に襲われていた。

 僕らは時間にしておよそ十五分ほど、ずっと夜空を眺めていた。目では感じ取れない、微細な変化しか起こらないような短時間だったが、僕は、この景色を見られてよかったと心から思えている。何よりも、女の子と。大切な、友達と。

「どう? 友哉。この星空」

 先ほどの僕の言葉は聞こえていなかったのか、それともただ単に再度聞いただけなのか、定かではなかったが、葵の問いに、僕はさっきと似たような言葉をもう一度繰り返した。葵はなにそれ、とふきだすのをこらえるように笑っていた。しゃあないやろ、とぼやき、僕は視線を戻す。

 葵が、かわいらしく小さなくしゃみをした。だいぶ外に出てから時間も経っているので、体も冷えてきたことだろう。

「戻ろっか」

 葵の肩を叩いて、呼び戻す。素直に従った葵は、先を行く僕の後をゆっくりとした足取りでついてくる。僕もそれに合わせて歩調を遅くする。ドアを開ける直前、不意に葵が呟いた。

「ちょっと……哀しいね」


 ガコン、と缶コーヒーが落ちる音が響く。

 屋内に戻った僕らは、冷えた体を温めるべく、何か飲むことにした。僕はミルクコーヒーを、葵はホットココアを希望したので、ここは僕のおごりで購入した。ちなみに、僕がお金を出すことに関しては、葵は最初こそ反対していたものの、僕がやんわりと説得すると、応じてくれた。

 僕が軽く放ったココアを、葵は両手で受け取る。そして、その温かみを直接感じ取るように、冷えた手で包み込んだ。

「……あったかい」

 ほっこりした笑顔で葵が呟く。日向ひなたぼっこをしている猫のようだ。頬のあたりでころころと転がして、体をゆっくりと温めている。

 僕も自分のコーヒーを手に、しばらく温まっていた。

「……寒かったね」

 窓の外を見つめながら、僕は囁く。ここから見えるのは、鬱蒼とした森林だけだ。けれど、それを透過とうかした先には、満天の星空が広がっているのだ。先ほど見た光景は、夢ではないかと思ってしまうが、これはまごうことなき現実なのだ。葵も横にいるし、自分もここは夢の中じゃないと言い切れる自信はある。

(いや……)

 そう考えたところで思い直す。これはただ単に、この世界が夢であってほしくないと祈る、自分の我儘なのかもしれない。美しい景色を、そして温度を感じられたことを、有耶無耶うやむやにしたくないという、願望なのだ。我ながら自分勝手だと思う。けれど、その欲望に勝てる気はしなかった。

 キュポッ、というプルタブを捻る音が聞こえた。葵が少しだけ飲んで、すぐに缶を置く。その顔には、僅かに憂いの色が浮かんでいるように見えた。

「ねぇ、友哉……」

 葵の、沈みそうに小さな声に、僕は「ん?」と返して振り向く。

「入学したばかりでこんなこと、言うんも変な話やけど……」

 一旦言葉を切って、葵は少しばかり顔を上げる。

「友哉って、高校を卒業したらどないするん?」

 唐突に向けられた問いに、僕は少しの間逡巡する。訊かれても、まだ決めていないのが本音だ。

「まだ、何も決めてへんよ。進学するかも、就職するかも。……何で?」

 逆に問い返された葵の瞳が、ゆっくりと、広がる漆黒の世界に向けられた。

「さっき、友哉と星見てたらさ、ちょっとだけ思っちゃったんだ……」

 葵は静かに語りだす。

「この星たちは、すぐに私たちの見えないところに行ってまう。次にここに姿を見せてくれるんは一年後。星の周期は一年やからな。……でも、きっと友哉と、またここに来ることはない。そら来ようとすれば来れるけど、まだ高校生やし、そう簡単にできることやない……よね」

 哀しそうな顔をして、葵はぽつりぽつりと言葉を選ぶように話す。微かに、鼻を啜る音も聞こえる気がする。 

「そんな風に考えてまうと、少し怖くなって……。もしかしたら三年後には、みんなは、私の手の届かないようなところに行ってしまっとるかもしれん。星は一年待てばまた拝めるけど、人っていうんは、お別れしたら二度と会えんくなるかもしれへんやん……。だから……!!」

 葵の吐露を、僕は動かずに、呼吸をすることをも忘れたかのように聞いていた。葵が口にしているのは、そう遠くない未来の話だ。けれど、まだ確証もない、来るのかどうかという実感すらも湧かない先の話。

「……だからね……」

 一瞬、間が空く。一秒もないはずの時間が、僕には異様に長く感じた。

 葵は、話しながら静やかに涙をこぼしていた。自販機の明るい光だけが、その水滴を淡く照らす。闇の中で、一粒の宝石を見ているようだった。そして僕は、それに吸い寄せられるように近づく。

「僕は……僕はまだ、そんな先のことは考えてへんよ。今考えとるんは、どうやって葵を落ち着かせようか、ってことだけ」

 そう言って、僕は彼女のショートヘアをさらっと撫でる。癖のないまっすぐな髪は、僕の指に馴染みこむようだった。

「友哉……」

 葵はされるがままに、その場に固まっている。指を止めることなく、僕は言葉を続ける。

「もし仮にさ、このまま月日が流れて……卒業ってことになってもさ。また逢おうよ。家だって歩いて数秒やん。一年も待つ必要なんかないって。春の星座が過ぎても、すぐにまた夏の星座が来る……。そんな風にさ、またすぐに会えるよ。……それとも、葵は卒業したら、僕らとは離れてしまいたい?」

 僕の意地悪な問いに、葵は首がもげそうな勢いでかぶりを振る。その動作が微笑ましくて、僕はやわらかく笑む。

「もちろん、友哉とは離れたくないし、良太とも、貴浩とも……。誰とも別れたくないよ……! でもっ、でも、そんなことも言ってられない。出会いがあれば、当然、別れもある。知ってても、いずれ来るとわかってても、やっぱり怖いよ……!」

 葵の心の叫びに、僕は彼女の髪から手を放し、背中に持っていく。そしてゆっくりと擦る。服の上からでも感じる、女の子の体温にすこしためらいもしたが、葵のためにとその気持ちを殺す。

 葵は、身動みじろぎ一つせずに、僕の行動を受け容れてくれた。

「もし、葵の気持ちがこの先もずーっと変わらへんなかったらさ……。そん時はみんなで暮らそうよ。仲の良い幼馴染同士で、むつまじく過ごそうよ。誰にも邪魔されず、静かで、平和なところで」

 少し恥ずかしさもあったが、言い切った。思いつきで告げたが、もし本当に葵の気持ちが変わらなかったら、僕は実行してもいい。良太や貴浩が応じてくれるかどうかは、その時になってみないとわからないが、もし否であった場合は、僕だけでも共に暮らすことにしよう。葵を助けるために、大切な友人として。

「ありがと、友哉……。もし、良太たちが頷かなかったらそん時は――」

 葵の言葉を遮るように、僕はその華奢きゃしゃな肩をたたいた。

「……ありがと」

 それでなんとなく察してくれたのか、葵がまたお礼を言う。そしてくぴりとココアを飲んだ。

「……冷めちゃっとる」

 長い話をしている間に、僕らの手中のコーヒーとココアは温かさを失ってしまっていた。苦笑しながら、それらを飲み干す。冷たい液体が、体の中に侵入する。

 けれど、寒く感じることはなかった。それさえも、心地よく感じるほどに、僕のなかは温まっていた。

 しばらくその感慨にふける。とても、幸せに感じた。

「じゃ、そろそろ部屋に――」

 こてん、と。肩に重みが乗っかった。

「……葵?」

 と同時に、すーすーという呼吸音までが聞こえてくる。シャンプーの匂いが、鼻腔をくすぐる。

「……寝てもた?」

 安心したことで、急に眠気が襲ってきたのだろうか。涙の跡が目の端に見えたが、安穏あんのんな寝顔だった。無防備だなぁ、なんて思いつつ、僕も目を閉じる。今のままではロクに眠れる気はしなかったが、とりあえずの動作だ。葵が目を覚ましてしまわないように、一つ一つの行動には細心の注意を払う。

(でも、別れか……) 

 別れと聞いて思いだす、数年前の出来事。心の奥底に封印した、過去の僕の記憶。まだ、今のようではなく、幼さが残っていたころの楠木友哉の記憶。誰もが予想しなかった展開で、その「別れ」は訪れた。

(今は……どこで何してるんだろうか)

 もうその顔を思いだすことはできない。笑顔も、怒った顔も、僕を勇気づける顔も。全てに靄がかかったようで、輪郭りんかくはあやふやだ。

(別に……いいか)

 今の僕に、彼は関係ない。今は、隣の少女と、みんなと、一度きりの青春を謳歌おうかするだけなのだ。

 また目を開けて、葵の頭越しに外を見る。まだ風が吹いているのか、木々は絶え間なく動いている。

 その一瞬開いた隙間から、眩しく輝く一等星が垣間見えた。

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