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常に楽しく! 常楽高校野球部物語~入学編~  作者: 深淵ノ鯱×kareat
1年・春~夏
18/54

ただ一言

 *

 トイレの個室に入り、一人でむせる。白いタイル張りの床を強く踏みしめ、なおも荒い息を吐き続ける。

 やはり、脆い精神の持ち主の俺には、ややハードルが高すぎる。食堂を後にするとき、山本先輩の優しい声掛けもあったが、半ば無視するようにしてここまで来てしまった。さらに、一つか二つ程度ではあったが、奇異きいの視線を背中に感じた。これからあそこに戻る時、一体どんな顔をして行けばいいのだろう。

 俺は頭を振って、その思考を外に追いやる。そのまま、トイレの水と共に流してしまうように。

 一度二度、軽く息を吸って、吐き出す。トイレの空気なんて、あまりたくさん吸うものではないだろうが、この際贅沢は言えない。少しだけ、心臓の鼓動が落ち着いた気がした。

 気分もましになってきたところで、早いところ出てしまおうと思って鍵に手をかけたところで、誰かがトイレの中に入ってきた。声が、狭い部屋の中に響く。

「支倉? いるのか??」

 山本先輩の声だった。その問いからするに、用を足しに来たというわけではなさそうだ。すると、俺のことを心配して、来てくれたのか。

「いねーのかな? とするとどこや……?」

 先輩が去ろうとしていたので、ちょっと待って! といった感じで慌てて個室から飛び出す。予想以上に大きな音がした。

 見ると、先輩は突然の物音に驚いたのか、その場に立ちすくんでいた。

「お、おう、支倉……。そこにおったんか。……びっくりしたわ」

 最後に少しだけ漏れた先輩の本音に、俺は少し苦笑する。すみません、と軽く頭を下げて謝ると、ええって、と朗らかな笑顔で返された。

「先輩は……その、どうしてここに?」

 にわかに疑問に感じていたので、問う。

「ん? いや、お前の様子がどうもおかしかったから、ちょっと気になってな。もしかしたら体調(わろ)うして戻しとったりしとったら大変やからなー」

 でも、そんなわけでもなさそうやし、安心したわ。

 まるで当たり前のことのように、あっけらかんと言う山本先輩。そんな先輩が、今の俺にはとても眩しく見えた。

「ほな、戻ろか。飯の時間、無くなってまうし」

 きびすを返して立ち去ろうとする先輩に、俺は頼みごとをする。きっと、この先輩なら信じて大丈夫だと、俺の中で一種の確信が芽生えていた。

 俺の話を聞いた先輩は、初めは訝しげな顔をしていたが、やがて元の顔つきに戻り、快諾してくれた。


 俺たちは、無言で食堂へと入る。まだ食べている者もいるが、石崎先輩は既に終えているようだった。薬缶やかんに入っている緑茶を、ずずず、と啜っている。

「お、支倉。大丈夫か?」

 その石崎先輩が心配げな顔つきで訊ねる。大丈夫です、ということと、心配してくださってありがとうございます、という意味を込めて会釈を返した。

 それで察してくれたのか、早く座って食え、と言うように、手で促す。俺はそれを丁重ていちょうに断って、テーブルの正面へと立った。楠木や木ノ下が、そんな俺の様子を不思議そうな瞳で見つめる。

 山本先輩が石崎先輩に耳打ちして、理由を言ってくれる。数秒で終えた後、石崎先輩は小さく頷いた。

「お前らー。何か支倉が言いたいことがあるそうだ。黙って聞いてやれ」

 先輩の一声で、ひそひそと囁いていた楠木たちも黙ってこちらを凝視ぎょうしする。木ノ下は、少し伏し目がちだったため、その表情は見ることができない。

 一筋の汗が、背中を伝っていった。まるで、肝試しの最中に背後を襲われたかのような、とてつもない恐怖感と、不快感が体を支配する。

 皆が俺を見る視線は、なんだかメドゥーサのそれのようだった。俺をそのまま石にさせてしまいそうな、恐ろしいもののように思えた。いっそのこと、そのまま固まらせてくれた方が楽なんじゃないか、とすら考えてしまう。このままではだめなんだ、とわかっていながらも、なかなか言葉を紡げない。

 静寂が落とされたまま、一分ほどが経過しつつあった。俺を見る顔には、そろそろ苛立ちが募り始めている。俺は意を決して、れたような声を発する。

 その時、俺のものではない、小さな声が聞こえたような気がした。思わず出かかっていた言葉をひっこめる。

「ちゃんと……言いなさいよ」

 テーブルの後ろの方から聞こえる、低く、重い声。みんなの視線が、一瞬そちらへと逸れる。顔を伏せたまま、瞳を見せることなく、彼女は短い言葉を放った。

「言う、責任ってもんがあるでしょ」

 俺は再び黙り込む。けれど、今度はほんの一秒だけ。木ノ下の言葉に背中を押されたのか定かはわからないが、気づけば俺は頭を下げていた。そして、自分の声でしっかりと言う。

「昨日は……すみませんした!!」


 誰もが、意外そうな顔をしていたことだろう。頭を下げていた俺には見ることはできなかったが、みんなから溢れだす空気が、それを物語っていた。

 その体勢のまま、俺は続ける。

「昨日の練習をさぼってしまったのは、俺の、心の緩みが原因です! 自己中心的な考えで、練習に参加しませんでした! そのことで、チームメイトのみんなに大きな迷惑をかけてしまったことをお詫びします! 大変、失礼しました!!」

 最後は半分泣きながら、喚くように言った。俺の慟哭が、水を打ったかのように静かな食堂に、品もなく響く。下を向きながら、ひしひしとそれを感じていた。

「……ったく」

 ずっと頭を上げようとしない俺に、石崎先輩が怒ったような、けれどどこか悲しそうな表情を浮かべて近づく。

「お前の言いたいことは判った。ほんまなら、今から俺はすんごい説教せなあかんのやろけど。正直面倒やしな。俺も、こんな合宿の最中に怒鳴り散らして怒るようなことはせえへん。けどな……、まぁ、今のままではお前も辛いやろから、落ち着いたらちょっと考えてみ。お前ひとり……いや、お前がいないことで、誰がどんな迷惑を受けるのか、っちゅうことを」

 言いながら先輩の視線は柴田の方に向く。柴田はチーターに睨まれたシマウマのように萎縮するが、ゆっくりと立ち上がり、そして深々と頭を下げた。

「僕も……すみませんでした! 僕も誘惑に負けて先日の練習をさぼりました! すみませんでした!!」

 柴田の言葉を、石崎先輩は微笑みながら聞いていた。そして、にやりとした表情をする。

「まぁ、さっき言うた『迷惑』の元凶になった俺が言うんも変な話やけど……。昨日、お前らが来うへんくて一番迷惑したんは、こいつらや。あとで謝っとけよ。……あと、俺も昨日は機嫌悪うしてもてすまんかった。楠木、山本、木ノ下」

 三人の方を向いて、機敏きびんな動きで頭を下げる石崎先輩。突然の謝罪に、三人ともあたふたしている。楠木が気にしてないですよ、というと、先輩は悲痛な面持ちで、元に戻った。もしかしたら、結構気にしていたのかもしれない。

 俺は、それと同時に、楠木らの前に立つ。そして、また頭を下げた。

「その……昨日は悪いことをした。ごめん」

 俺に倣って、柴田もする。こんな俺たちにも、社交辞令しゃこうじれいかもしれないが、楠木は優しく対応してくれた。今の俺には、それがとてつもなく嬉しかったことは、言うまでもない。

 でも、そんな中でも木ノ下はまだ憮然ぶぜんとした表情のままだった。俺の謝罪など聞く耳を持とうともせず、自分の髪の毛を指先で弄っていた。

 やはり、そう簡単に解決するものではない。現実を突き付けられたようで、心が重い。

「さぁ! 辛気臭いんはここまで! ちゃっちゃと食っちまおうぜ!」

 山本先輩が場の雰囲気を盛り上げようと、必死で頑張ってくれる。そのことに感謝しつつも、俺はまだ、自らの調子を取り戻すことはできなさそうだった。


 *

 いろいろあった夕食の時間も終わり、僕と葵は、連れだって部屋の方向へと向かっていた。良太はトイレに行き、貴浩と石崎先輩は明日の練習などの打ち合わせか、食堂にまだ残っている。

 葵は、その道中もあまり機嫌はよくなかった。個別に謝らない限り、許すつもりはないらしい。そこまで意地張らんでもええのになぁ……、と僕はそろそろ思いだしたのだが、それを口にすると、葵に拳骨げんこつをお見舞いされそうなので、やめておく。

「ところで、これからやけど――」

 僕が自由時間について聞こうとしたところで、後ろから割って入る声があった。良太がトイレから戻ってきたのかな、と振り向くが、良太ではなかった。

「…………」

 支倉が、沈鬱な表情をして、そこに立っていた。後ろには柴田もいる。

「何」

 葵がやはり素っ気なく問う。支倉は、一瞬体をこわばらせたが、すぐに顔を上げた。けれど、かげっているところに変化はない。

「僕、ちょっとトイレ行ってくるわ」

 支倉にとっては余計なことかもしれないが、僕は席を外すことにする。その方が、葵も満足に話せるだろう。

 案の定、支倉が驚愕きょうがくした表情で恨めしそうに僕を見つめるが、気にせずにトイレへと向かう。

 そして、二人から死角になったところで、僕は息をひそめる。自分で言いだしたこととはいえ、気になってしまうのだ。

 そっと、二人を見る。葵は変わらず、きっと支倉を睨み続け、支倉は固まってしまっている。それがあまりにも辛そうで、知らずの内に、僕は支倉を応援してしまう。

 地球の回転すら止まったのかと思ってしまうほどの時が過ぎた時、支倉が口を開く。僕は固唾かたずをのんで見守る。

「……何しとん?」

 トイレから戻ってきた良太が、僕の奇行を気にする。僕はしー、と人差し指を立てて、くだんの方を指さす。それだけで察してくれたのか、良太はうなずいて、僕の横に潜んでくれた。

「その……昨日はごめん!! 俺、逆上してもてあんな酷いことを! もうせえへんから、ほんまごめん!!」

「僕も、ごめん!」

 ロッジ中に響き渡るような大声で、支倉は謝罪した。次いで柴田も。葵は仁王立(におうだ)ちしたまま動じない。相手を射抜く視線を変えることはない。

 その間、支倉らはひれ伏すかのように動作を固定していた。

 ややあって、葵が口を開く。

「……私はマネージャー……ううん、ただのマネージャーやない。まだ歩けへん、ひよこのマネージャーや。まだまだ、選手のみんなのサポートも慣れてへんし、うまいことでけへん。マンガに出てくるような可愛さがあるわけでもないし、癒せるわけでもない。けど……そんな不束者ふつつかもんやけど、何かできることはあるんやないか、っていっつも考えとんよ。今日の練習の時やって、どないしたらみんな喜んでくれるんかなー、とか、ヘマしたらどないしよ、とかいろいろ考えてしもてな。けど、それが案外楽しかったんや。こんな私でも、みんなの役に立てるんかもしれん。そんな風に、作業しながらふと思ったんや。友哉も、良太も、貴浩も、石崎先輩も。……そして、支倉君に柴田君にも、喜んでもらえるかな、って」

 支倉と柴田が、ほぼ同時にはっと顔を上げる。

「昨日は……その、私も悪かった。私のエゴを勝手に押し付けようとしてもて。やから、その……」

 言葉を詰まらせる葵。隠れている僕らも、食堂に残っている先輩たち二人も、じっとその様子を、食い入るように見ていた。

「明日から。ううん、今から、よろしくねっ!」

 葵は笑顔で言った。先ほどまでの葵からは想像もできないほどに、眩いものだった。

「……ありがとう」

 支倉は、ほんの少しだけど、泣いていた。目をがしがしと擦りながら、葵に感謝を伝える。

「…………よかったな」

 隣で見ていた良太も、喜んでいる。良太も、葵のやさぐれたような様は見ていたくなかったのだろう。心の底から、安堵しているように感じた。

 隠れていたところから抜け出し、二人の元へ駆け寄る。

「よかったな、葵」

 僕が言うと、葵は顔を綻ばせたが、すぐに唇を尖らせて不満そうに言う。

「つか、友哉ずっと見とったん? ならとっとと出てきてーや」

 そしてポカン、と殴られる。どうやら、僕は結局殴られる運命だったらしい。

「いっつ……。しゃーないやろ、雰囲気が雰囲気やったんやし!」

 軽い力だったので別に痛くはなかったが、僕がムキになって対抗すると、葵は恥ずかしそうに頬を赤らめる。

「でも、言うてて恥ずかしかったなぁ……。思わず言ってしもたけど……」

 そんな姿がやけに可愛らしくて、さっき葵が口走った言葉は、決して間違いやないで、と伝えたくなるが、比喩じゃなく歯が浮いてしまうので、心の中にとどめておく。

「でも、……ホンマに良かったね、葵」

 貴浩たちもやってきた喧騒で、僕の言葉が葵に届いたのか定かではなかったが、そう口にせずにはいられない。

 みんなの中心で浮かべている、ここ数日の中では最高の笑顔と、本人は気づいていないだろうが、目の端に薄らと涙の粒を光らせている、葵の前では。

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