たとえ声じゃなくても
僕たちは、そのまま合宿当日を迎えた。
葵は一晩中愚痴り続けた。いつもは可愛らしい顔文字で彩られているその文面は、酷く味気なく感じた。
僕だけに吐露してくれたことだが、その日は帰ってからも泣いていたらしい。仕方のないことだと思う。昔から比較的、血気盛んだった彼女は、自分の意見を貫徹するタイプだ。だから、あのように逆らわれると、つい頭に血が上ってしまう。そんなところが女の子らしくない、と彼女は日々嘆いていた。
そして、高校に入って僅か数日で、その悪癖を晒け出してしまった。いくら人が少なかったとはいえ、不覚だっただろう。
そんな葵の後悔の言葉を、僕は静かに受け止め続けた。それで少しでも葵が楽になるのなら。僕は吝かではない。
気付けば、部屋から見える景色は丑三つ時となっていた。随分長い間、話していたらしい。
軈て、葵からのメッセージも途切れ、僕だけが残された。ただ無言で、僕は文字の羅列を眺める。ずらっと並ぶ、葵の本音。久しぶりに聞いたかもしれない。明るい単語はないが、それでも嬉しく思ってしまう。
数秒おきに来ていたメッセージが、暫し待っても来ないのを確認して、僕はそっとスマホの電源を落とした。けれど、すぐに思い直して再び点ける。そして、一言一言を噛み締めるように打った。
『オヤスミ』
うーん、と少し考える。葵が見るのは、きっと夜が明けてからだろう。だから僕はもう一つメッセージを送ることにした。
『おはよう』
変な奴に思われるかもしれない。けれど、この一言をみて、少しでも朝を迎えてしまったことを嬉しく思ってほしい。二つ並ぶ、他人が見ると、間違いなく怪訝な顔をするであろう言葉。
それが功を奏することを祈って、僕は今度こそ電源を落とした。暗転する画面に映る、僕の小さな顔。それから逃れるように僕は目を閉じて、ベッドに寝転がった。明日は早いから、少しでも眠らなければならない。けれど、いつまで経っても眠気は襲って来なかった。
今頃、葵は夢の世界で何をしているんだろう。僕たちと笑いあえているだろうか。それとも現実の続きのように、ひたすら孤独に耐え、悔恨の情に苛まれているのだろうか。もしそうなら、助けてあげたい想いが募るが、非力な僕にはどうすることもできない。実際、今日も何もしてあげられなかった。
考えていると、教室での葵の慟哭が、蘇って聞こえてくるかのようだ。
忘れたい。この現実を、嘘だと誰かに言ってほしい。
僕の叫びは、心の内で止めておく。出したところで結果が変わるわけでも、過去が改変されるわけでもない。僕は相当な小心者であると同時にリアリズムでもあるのかもしれない。でも、このやるせない気持ちを、どこかにぶつけたい。
枕と共に投げてやろうかとも思ったが、寸でのところでとどまった。情けなく思い、一人で苦笑する。こんなことまで臆するとは。悔しいなあ、なんて考える。自分の中に溜めて消化することも、それを発散することもできないなんて。
「……はは」
気づけば、僕も泣いていた。嘲るような笑みが口元に浮かび、勝手に声が漏れる。声にすらなっていないような泣き声だったけれど、その声と零れる滴に鬱憤を乗せるように、外に吐き出した。思わずきゅっとベッドのシーツをつかむ。なるほど、と葵の気持ちに合点が行った気がした。
人は辛くなると、そろいもそろってその気持ちを捨てたがる。それは人に限らず、ほかの動物たちも同じだろう。その手段の一つとして、『なく』ということがあるのだろう。独りになれば人は『泣く』し、動物も『鳴く』。ないた後は少しすっきりして、前を向こうとする。たとえ事態が好転しなかったとしても、きっとそのことに価値はあるはずだ。捨てる神あれば拾う神あり、ということである。
僕はまだ涙が治まらぬまま、暗闇の中でイヤホンを手繰り寄せ、耳に押し込んだ。少しでも気分が楽になるような曲を選ぶ。
涙さえ、力に変えて。
僕が、葵が流した涙が、意味のあるものになりますように。
翌日、僕は慌ただしく登校した。夜更かししてしまったおかげで、寝坊してしまい、いつもの列車に乗り遅れてしまった。
ちなみに、朝起きると、眠気の襲来はあったが、気分は結構すっきりとしていた。全部流れ出てしまったのかもしれない。もしそうなら嬉しいな、と思う。今日からは、目の前のことに集中したい。
そして駅に着く。次の列車が来るまで三十分ほど待たなければならない。こんな時、田舎は不便やなぁ、としみじみと思う。大阪なんて三分に一本来るというのに。
そう考えて、嘆息しているうちに、列車到着の十分前になった。ベンチに座って、自販機で買った眠気覚ましのコーヒーを飲んでいると、不意に一人の少女が目に入った。改札口を通って、僕と同じく、福知山方面行のホームに降り立っていた。
頭の真ん中あたりから生えている、二本のツインテールが一際目立つ子だった。左手には通学かばんを提げ、右手でスマホをいじっている。背は決して高くなく、どちらかというと低い方に入るのではないだろうか。そんなに距離が近いわけではないが、かなり整った顔立ちをしているように見えた。葵とはまた違う、「女の子らしい」女の子だった。
鞄に施されているラインを見ると、どうやら僕と同じ学校・同じ学年らしい。ということは、少なくとも会ってはいるはずだ。入学式から今までの記憶を漁るが、ほかにインパクトのある出来事が多すぎたせいで、全く思い出すことができなかった。
せっかく、ここで出会ったのも何かの縁かもしれないので、話しかけようかとも思ったが、なかなか決心がつかない。僕の心に潜む、恥ずかしがる気持ちが邪魔をする。悩めば悩むほど、蟻地獄のように引きずり込まれていく。そして、抜け出すことのできない迷いの渦へと飲み込まれるのである。
「……はぁ」
もっと、積極的な性格になりたいな、とこんなとき心の底から思う。いわゆる「コミュ障」というやつだ。話しかけたらこんな風に思われてしまうのではないか、第一印象に気をつかなければ、などと堂々巡りに考えてしまう。いっそのことイメージチェンジでもしてみようか、と一時期本気で考えたこともあったが、知り合いも進学する学校に入学することになったため、泣く泣くあきらめた。
僕はその女の子から視線を外し、黄色い点字ブロックの内側に立つ。もう既に駅付近の桜は散り、春らしさはなくなってしまっていた。けれど、季節はまだ春。別れと、出会いの季節。
まだまだ高校生活の先は長い。ゆっくり距離を近づけていけばいい。そう思い直すことで、幾分かは気分が楽になる。
やっと列車がやってくる。この時間は、二両のワンマン列車ではなく、四両の列車だ。僕は目の前に止まった車両に乗り込み、適当な席に座る。休日と言うことで、あまり客は多くない。皆、温かな日差しに誘われ、うつらうつらしている。ぐるりと付近を見渡して、あの子がいないか確認したが、違う車両に乗り込んだらしく、姿はなかった。
そのことに少し安堵し、僕も目を瞑る。精々三十分ほどだけだが、眠っておいた方がよいだろう。束の間、僕はすべてのことを思考の外に追いやり、眠ることに専念した。
学校に着くと、既にみんな揃っていて、あとは僕だけという状態だった。石崎先輩に、ちょっと不機嫌そうな顔で睨まれたが、遅れた分、しっかりと挨拶をして許してもらう。貴浩や良太、支倉に柴田は適当に雑談したり、携帯をいじったりしていた。
そして、そんな彼らから少し離れたところに葵が立っていた。大きなボストンバッグを両手で抱え、何とも窮屈そうな表情をしている。何度も手を持ち返たりして、重さに耐えようとしているようだ。
僕は葵の元にゆっくりと近づき、声をかける。
「おはよ、葵」
「あ、友哉! おはよー」
直後、ドスン、と足元から大きな音が聞こえる。急に意識を向ける方向が変わったことで、力が抜けてしまったせいか、葵の手にあったはずのバッグが地面に転がっていた。
「たはは……。ゴメン」
旋毛のあたりを恥ずかしそうにポリポリと掻いて、バッグを拾う。一瞬見えた葵の掌は、真っ赤に充血していた。
「何なら僕が持とうか?」
提案しながら自分のバッグを片手に持ち返る。重みが片方に寄ったことで重心が傾く。意外な重さに、わずかに戸惑った。
「え、でも友哉も自分のんあるやん?」
「別にええって。葵、めっちゃ手痛そうやったしさ。無理してもろちゃ、かなわんからな」
言われて自分の掌を見て、思わず反対の掌で覆う。荒れていた部分を見られて恥ずかしかったのだろうか。
「……んじゃお願い。でも、無理やったら下に置いてもらっても大丈夫やから」
僕はうなずいて、葵からバッグを受け取る。
手持無沙汰になった葵は、後ろめたい気持ちが先行してしまうのか、僕とは目を合わせてくれなかった。気まずそうに、視線を泳がせている。
でも、僕は確信した。
うん、いつもの葵に戻ってる。
もし昨日の一件を引きずって、いつもの調子を取り戻していなかったらどうしよう、と少なからず悩んでいたのだが、心配なさそうだ。二人のことを許したり、認めたわけでは決してないが、葵が元の元気な姿でいてくれるのなら、僕としては嬉しいことこの上ない。
やがて、監督もやってきて、いよいよバスに乗り込んだ。
葵は唯一の女子部員なので、僕や良太・貴浩の近くがいいだろう、と思っていたら、僕の隣に座り込んできた。「いいやんな?」という笑顔を向けられたので、当然の如く快諾する。
貴浩は僕のひとつ前に石崎先輩と、良太は補助席を挟んで、葵の隣に座った。問題の残り二人は、僕らとは少し距離を置いた。まぁ、これも当然の事だろう。
ゆっくりとバスが動き出した。のんびりとした景色が流れてゆく。
ふと、思った。結局駅で見かけた子は誰だったのだろう。福知山駅に着いてからは僕は猛ダッシュしたので、そのことまで気を回す余裕がなかった。
今度、どこかで見かけたら一声かけてみようかな。
窓の外には、まるで地球の側面でも見ているような、瑠璃色の空が、果てしなく広がっていた。




