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常に楽しく! 常楽高校野球部物語~入学編~  作者: 深淵ノ鯱×kareat
1年・春~夏
14/54

涙の雨

 今日の屋外練習は、悪天候で中止と聞いた。貴浩がわざわざ、僕らの教室まで来て、言ってくれた。けれど、室内練習はするらしい。支倉と柴田もそのことに頷いた。

 昼休みの最中さなかに降り出した雨は、時が経つにつれて激しさを増していった。授業中も雨音が思考を遮り、全く集中できない。周りのクラスメイトもそうらしく、ノートに落書きをしたり、女子は既に仲良くなった人たちとお喋りに興じていた。

「なんか、警報とか出そうな雰囲気やなー」

 六時間目、すなわち最後の授業が始まる前の休み時間、良太が僕の席までやってきて、そう言った。

 この地方は、大雨が降る時は、今日のようにどしゃ降りになる。ある時には、二年連続で市内の大きな河川が氾濫はんらんし、市街地を濁流で浸した。

 また、冬は北陸や北海道などには及ばないものの、結構な雪が降る。そのため、警報が発令され、学校が休みになることも少なくはなかった。「明日まで警報出とるかな?」「もし明日休みになったら何しよ?」などと、夜遅くまで盛り上がったのを思い出す。

「まぁ、今から警報出ても何か微妙な気分やけどな」

「……それもそうやな」

 苦笑して言う。どうせ、あと一時間なのだ。それが終われば、野球練習もある。今帰るのは少しもったいない気もする。

「心配なんは、明日からの合宿やな。この雨やったら、グラウンドびしょびしょやろし……」

「スポンジで水、吸いまくるんちゃう?」

「マジかー……。あれ嫌なんやけど。腰、いとうなるし、服汚れるし。中学んときも先生が言っとっちゃったやん。あんなん、意味ないって」

 良太が心底嫌そうな顔つきで言う。僕も、良太と同意見だ。

 ちなみに、「ちゃった」はこのあたりの方言だ。軽い敬語の意味となる。「ちゃった弁」という名で、福知山、そしてお隣の舞鶴まいづる地方などで使われている。

「まぁ、しゃーないか。すぐにむとええけどなぁ……」

 良太が窓の外を眺めながら呟く。

 びしゃびしゃと音を立てて、雨が窓ガラスに当たり続けている。それを見ているうちに、言い知れぬ不安が体のそこから湧き上がってくる。雑念が、小さく開いた心の隙間からスッと入り込むような不快感に襲われる。あの二人とちゃんと話すことができるのだろうか。数少ない部員との間に、もしかしたら深い溝を作ってしまうかもしれない。周りのメンバーに迷惑をかけることだけは避けなければならなかった。

「友哉、そんな気張らんな」

 良太が、重い面持ちになった僕を見て声をかけてくれる。優しく、穏やかな表情だった。

「友哉と葵以外とは話すん、全然得意やないわしやけど……。それでもよかったら、付き合うてやるし」

 今朝の葵みたく、ぽんと肩に手を置いてくれた。そして軽く動かし、僕の肩をほぐしてくれる。

「……じゃ、期待しとる」

 微笑して言った。

「いや、期待されても困る」

 良太は真顔で、まるで息を吐き出すように早く答えた。それが面白くて、僕は思わず吹き出す。そして二人で笑い合った。でも、まだ心からの笑いじゃない。良太は、それを知ってか知らずか、少し遠慮気味に笑っていた。気を遣わせてしもたな、と申し訳なく思う。

「ま、何とかなるやろ」

 よく「学生は良いなぁ」と言う言葉を大人から聞くが、それはもしかしたら、こんな簡単な一言で片づけることができてしまうからかもしれない。

「何とかなる……よな」

 何かが解決するわけでもない。一歩前進したわけでもない。けれど、不思議と気分は楽になる。

 そんな謎の言葉に後押しされ、僕は答える。

 すぐにチャイムが鳴り、教科担任の教師が入ってきた。皆、スマホやタブレットを急いで仕舞(しま)って席に着く。

 最後の授業が始まった。けれど、内容なんて、ほとんど頭に入らなかった。


 そして放課後になり、僕と良太は体操服に着替え、練習を行う校舎へと向かっていた。

 今日の練習は、体力づくりと言うことで、筋トレや階段ダッシュなどを行う。監督をはじめとする、教師たちには許可を得ていた。けれど、騒々しくなるということで、書道室やパソコンルームなどの特別教室が多い校舎でやれ、とのことだった。

「パソコンルームってやっぱ豪華なんかな? 高校なわけやし」

 今日は珍しく良太が話題を振ってくれる。いつもは僕と葵の話題に乗っかるだけなのに。それはただ単に、僕が話をする余裕がないだけからなのかもしれないが。

「さ、さぁ……? 中学校のんはぼろぼろやったからなぁ」

 良太の落ち着いた、いつも通りの声に反して、僕の声はわずかだが小さい。心なしか、震えているような気さえする。さっき、幾分か気分は楽になったはずなのだが、すぐに元に戻ってしまった。僕も結構な小心者のようだ。

 ちなみに葵は、掃除係りだった僕らを置いて、先に野球部の方へ向かったらしい。僕は直接見てはいないが、良太が言うには帰りのホームルームが終わるとほぼ同時に教室を去ったという。昼休みのことがあるので、可能な限り一人にはさせたくなかった。先走って、二人をどのように刺激してしまうか、わかったものではない。葵は、野球をしていただけあり、握力や腕力も周りの女子よりはあるので、暴力沙汰になる可能性もある。

「ちょっと急ぐか」 

 そう考えているうちに、一抹の不安を覚え、僕は階段を下る速度を速めた。何も起きなければいいのだが。募る不安と、平穏を祈る気持ちが比例するように湧き上がる。

 僕らの教室がある三階から、スピードを一切落とさずに、下駄箱や職員室のある一階まで降りた。

 そこに葵はいた。下駄箱の前で何やら話している。葵の表情は真剣で、少なくとも、仲良くなったほかの誰かと雑談をしているような雰囲気ではなかった。

「もしかして、一人で……」

 追いついてきた良太が、その影を見つけて囁く。恐らく間違っていないだろう。葵の視線の先には、支倉と柴田、二人の姿があった。多くの生徒が傘を広げて帰ろうとしている間をすり抜け、彼女の元へと近づく。

「せやから、何回言ったらわかるん!?」

 いつもは怒鳴ったりなどしない葵の大声が、放課後の騒がしい廊下に響く。そのあまりの剣幕に、僕の体は思わずびくりと痙攣けいれんし、歩を止めてしまう。

 だが、葵の声に負けない程に、支倉が言い返した。

「俺らーはただ、用事があるから帰ろうとしただけやんか! やのに何でマネージャーのお前なんかにとやかく言われなあかんねん!?」

 周りの生徒たちも、何事かと注視している。ここは早く仲介に入らないと、収拾がつかなくなりかねない。僕はゆっくりと、二人の間に割り込むようにして喧嘩を止めた。違和感に気づいた葵が投げかけようとしていた言葉を飲み込む。

「……友哉」

「ん? お前はー」

 突然の乱入者に戸惑った二人が交戦を中止する。そして二人を宥めるために、僕は極めて穏やかな口調で話しかけた。

「とりあえず落ち着いて……。二人は何で、こんなところで喧嘩しとん?」

 僕の問いかけに、支倉が待っていたと言わんばかりに口を開く。

「俺らが帰ろうとしとったら、こいつがいきなり怒鳴りつけてきたんや。何も悪いことしてへんのになー?」

 隣で黙ったまま直立している柴田に同意を求めるように言う。急に話を振られた柴田は、戸惑った様子で首肯した。

「私はこの二人が練習さぼって帰ろうとしとったから、注意しようとしただけ。ほったら反発してきて、怒鳴りあいしてもた」 

 いくらか落ち着いた様子で葵は話す。

 二人の言い分を、僕は黙って聞いた。この場合、贔屓ひいきとかそういうものではなく、悪いのは支倉と柴田だろう。そう思い、僕は支倉と柴田の方に向き直る。

「支倉、柴田。どんな理由があるんかは知らんけど、さぼりはあかんやん。せめて連絡ぐらいしてもらわんと。やないと、先輩らー心配するで?」

 さとすように、ゆっくりと言う。支倉はただ恨めしそうな視線を寄越よこしているが、黙って聞いてくれた。

 だが、それもつかの間。すぐに牙をむいて叫んだ。

「やとしても、何で怒られなあかんのん? さっきも言ったように、俺らはちょっと早く帰ろうとしとっただけや。今回はたまたま(・・・・)連絡し忘れただけやん? あんなこと言われる義理はないと思うんやけど?」

 葵に喧嘩を売るような視線を投げかけて、支倉は言う。葵は猛獣のような目つきで睨み返していた。

 僕は思わず、返事に窮する。ここで二人を監視するような真似をして、注意をしようとしていた、などと言えば、火に油を注ぐ結果を招くだけだろう。何かうまい言い訳があるわけでもない。

 急に黙ってしまった僕を見て、支倉はまるで勝ち誇ったかのような笑みを浮かべる。これが、勝者の笑みというものなのだろうか。こちらから見れば、負け惜しみを言い張るみにくい張り物に過ぎないわけだが。

 いやらしい表情を浮かべたまま、支倉は帰途に就こうとする。僕は、思い切って本当の事を言うことにした。そうしなければ、葵が頑張ってくれた甲斐が無くなってしまう気がした。その背中に声をかけ、二人を静止させる。軽く息を吸い込んで、声を絞り出した。

「……今日、この葵が二人のことを止めた理由はな――」

 口に出しかけた僕の前を、一つの掌が覆う。手のしわとかもくっきりと見ることができた。

 驚いて振り向くと、葵が静かに僕を制していた。ただ、視線は変わらず二人を射抜いたまま。険しい顔つきで、葵は口にする。それはひどく重く、低い声だった。

「……友哉、もういい。これ以上言ったところで、や。考え直さへんやろ、こいつら」

 葵の声には、有無を言わせぬ色があった。まるで、地底にまで響きそうな声。歴史で習った、江戸時代、貴族が当時、えた・ひにんと呼ばれていた人をさげすむかのように。そんな雰囲気を彼女は纏っていた。

 話の間中、一言も発しなかった良太が何かを言おうとするが、それが音になることはない。

「……わかった」

 僕の諦めの言葉を聞くと同時に、柴田はそそくさと、支倉も少し気まずそうな顔をして去っていった。

 下駄箱には僕らだけが残される。激しい雨音だけが僕らの鼓膜を打つ。

 先ほどまで声を絞り出していた葵も、静かにこの場を収めようとしていた僕も、何も言えなかった良太はもちろん、誰も声を出さない。気づけば周りから人も消えており、この世界にただ三人、取り残されてしまったかのような錯覚を覚えた。

「練習、行こか」

 良太が重々しい声で呟いた。

 こんな気分で練習をしても何も力にならないような気がしたが、ほかに選択肢もなかったので、従うことにした。良太が歩きだし、僕、葵の順番で続く。

 その時、ちょうど貴浩が奥からやってきた。到着が遅い僕たちを心配して見に来てくれたのだろうか。

 貴浩は僕らのところまで駆け寄り、どうしたんだ、と声をかけてくれた。ちょっと先生に呼ばれちゃって……と良太が嘘を言う。納得してしまったらしい貴浩は、次に支倉と柴田について訊ねた。二人はやはり彼らに連絡をしていなかったらしい。

 一様に沈んでしまった僕たちを見て、貴浩は訝しむ。やっとのことで僕が吐き出した言葉は、嘘ばかりのものだった。


 練習は、僕らのせいで沈痛なムードの中、行われた。許可なしに帰った二人に対して石崎先輩が怒りをあらわにし、一触即発の状態だった。監督が以前のようになだめようとしたのだが、今回ばかりは効かなかった。

 葵も、当然の如く集中できていないようだった。まだ二日目なので、技術的にも未熟なところはあるだろうが、注意力散漫になったり、時々遠い目をしたりと、先ほどの影響をかなり受けているようだった。貴浩と、石崎先輩も、そのことについて言及しようとはしなかった。

 そしてそのまま練習は終わった。体を動かせば少しは気がまぎれるかとも思ったのだが、そんなことはなかった。心の中では希望はほぼ消え去り、マイナスの感情が心をむしばんでいる。

 道具を片づけて、教室に戻る途中、葵が横に並んできた。そして二人で歩く。静かに、その名前を呼びかける。

 謝罪の声が漏れる前に、僕は言葉を発した。葵を、『追い詰めたくない』から言わないのではなく、『安心させたい』から言う。

「……何とかなるよ」

 無意識のうちに口を突いた言葉。

 自分で言っておいてだが、そんな確証はどこにもない。きっと、葵もそんなことわかりきっている。

 でも、僕の数少ない語彙ごいの中では、これに勝る言葉など見つからなかった。

「……だよね」

 誰もいない校舎に響く、葵の応え。少し前までの口論が嘘のように、閑古鳥かんこどりが鳴いている下駄箱。僕らは目を背けて、階段を上がる。

 そっと、葵の小さな頭を叩いた。ぽん、ぽん、と。幼子おさなごをあやすかのように、優しく、優しく。

 葵は抵抗することなく、受け入れてくれた。だから僕はその手を動かし続ける。

 葵は、嗚咽すらも漏らさずに涙を流していた。無意識のうちに流れてしまったのだろうか。葵自身も驚いている。

「我慢するな……」

 今度は背中を擦る。堪えきれなくなったのか、徐々にその滴は落ちてゆく。

 みんな帰ってしまった教室で、葵は子どもの様に泣いた。途中で入ってきた良太も、初めは驚いていたが、すぐに状況を察してくれた。

 外は、変わらず雨が降っていた。

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