心の天気
3
翌朝は、僕の気分に反して曇っていた。空は鼠色の分厚い雲が覆っており、晴れそうな兆しはない。昨日、折角いい気分で眠れたのになぁ、と重いため息を吐く。
制服に着替え、階下に降りると、いつもの朝の風景が広がっていた。朝が早い父親は、すぐにでも出発できるといった格好で新聞に目を通している。母親は僕の分の朝食を作りながら、お弁当におかずを詰め込んでいた。
「あ、おはよう友哉。もうちょっと待ってや」
母親の声に僕はうんと頷く。父親も同様に挨拶をしてきた。
何気なく、点いていたテレビに目を向ける。誰もが知っている、朝の人気番組だった。巷で人気のイケメンアナウンサーが、原稿をすらすらと読み上げている。それをぼけっと、何を考えるでもなく眺めていた。
やがて、天気予報のコーナーになった。これも変わらず、美人キャスターが都内某所で、今日の全国各地の天気を伝えている。予報によると、今日はお昼過ぎあたりから雨が降り出すらしい。画面の背景に映っている空も、灰色だった。もしかしたら今日は外では練習できひんかもな……と眠気の抜けきらない頭で考える。そうなると室内練習だろうか。
「今日は雨なんかー……。嫌やねー、やっと最近晴れだしたと思たばっかやのに。……はい、お弁当」
父親用のお弁当の包みを持ってきた母親が、苦々しく呟く。弁当を受け取った父は、足早に家を出て行った。その背中に小さく、いってらっしゃい、と声をかける。
「ほんで、朝ごはんな」
そして僕の前にも朝食が並べられる。ご飯に味噌汁、あとはお弁当のおかずの残りだろうか、焼き肉のたれで和えられた牛の焼き肉だった。それに早速手を付け、食べ始める。
「今日の帰りはどれぐらいになるん?」
洗い物の音に負けぬよう、いつもよりも少し大きめの声で問いかけられる。僕も朝の低いテンションを無理やり上げさせて答えた。
「昨日と同じぐらい。もしなんかあったら連絡する」
母親は無言で頷き、皿洗いに戻った。番組は、知らぬ間に別のコーナーへと移っていた。水の流れる音とテレビの音だけが室内に響く。
僕はさっさとご飯をかきこみ、支度を整えて家を出た。
葵の家の前で待つ。電車の時間までは、駅までの道のりを考えてもまだまだ余裕がある。イヤホンを差し込んで音楽を聴きながら、手近な電柱に寄りかかっていた。
十五分ほどで葵が姿を現した。「いってきまーす」と声を上げてこちらに駆け寄ってくる。ドアが閉まる瞬間、葵のお母さんが垣間見えた。そういえば、しばらく話してないな、と唐突に思う。
「ごめん、待った?」
手櫛で髪の毛を整えながら葵が問う。僕はイヤホンを外しつつ笑みを浮かべて首を振った。待ったと言っても大した時間ではない。昨日の葵の言葉ではないが、僕は何も困っていないのだから、それでいい。
「葵、まだ寝癖直ってへんで」
笑いながらまだはねてしまっている部分へと手を伸ばす。
「え、どこ?」
自分の頭を弄ってその個所を探す。でも僕は、そんな葵を無視して、その個所に手を当てる。
「…………っ」
葵は一瞬驚いたように、体をこわばらせたが、すぐに力を抜き、目を伏せた。それは羞恥からなのか、それとも僕にはわからない何かの所為なのかは、わからなかった。でも僕はお構いなしに、優しく撫でる。二、三回もするうちに、跳ねていた横髪は平坦になった。
「ほい、もうええんちゃうかな。ごめんな、急に髪触って」
まだ目を上げようとしない葵に対して、少し申し訳ない気持ちになりながら謝る。葵は、小さく首を横に振ってくれた。
「……ありがと」
ようやく頭を元に戻して、小さな声で呟いた。少し顔全体が朱色を帯びている気がする。普段、僕をはじめとする男子とよくつるんでいる割には、やっぱりスキンシップには弱いんかな、と心の中でくすりと笑う。
「んじゃ、行こうか」
少々時間を食ってしまった。走らなければならない程ではないが、急ぎ足になってしまいそうだ。
「ちょっと待って」
駅に向かって歩き出そうとした僕の歩みを、葵が制す。振り返った僕の真横、いや、少し前までとてとてと歩いてきて、僕を見る。
「友哉、ネクタイ曲がっとる」
僕の胸元を指さして言った。僕も誘われるようにそこに視線を向ける。
「ホンマや、じゃあ――」
直そうと手を向かわせたと同時に、何かが僕の視界に乱入する。
見ると、葵がちょちょい、と手際よく作業をしていた。しわを正して、キュッと結び直す。すると、だらしなく曲がっていたネクタイは、まるで一流企業の社長がつけているようなそれになっていた。
葵の手先の器用さに、思わず感嘆の息が漏れる。
「おぉ……。葵、すごいな」
僕が目を合わせると、今度は少し笑顔を見せてくれた。それでもまだぎこちない。顔も赤い。他人にされるのは苦手だが、自発的にする分にはある程度の余裕は生まれるのかもしれない。今回は、相手が男子だったというのもあると思うが。
「ちょっと時間、やばいな……。葵、ちょっと走れる?」
葵に問い、頷かれる。
そして走り出した。天気のせいか、冷たさを含んだ風が顔に当たる。頭をゆっくりと冷やしてくれているように感じた。
その方が、今の僕たちにはいいかもしれない。
十字路を勢いをつけたまま曲がり、後は長い一本道を残すだけとなった。時計を見ると、全力疾走した分、遅れを取り戻せたようだ。いつも、このあたりを歩いている時間とほぼ同じだった。
「はぁ、はぁ……。ちょっと歩くか」
走っていた足をゆっくりと止め、落ち着かせるために息を吐く。こういう時も、急に止まると、足に不必要な負担をかけてしまう。常に注意しなければいけないのは、少し面倒だ。
「話変わるけど、今日雨降るかな……?」
葵が空を見上げて声を出す。上がっていた息は早くも落ち着いたようだ。
「さぁ、な。天気予報ではお昼あたりから、って言ってたけど」
先ほどのテレビの情報をなぞって答える。
「お昼からかー……。今日の練習、どないなるやろねー?」
今日は、本来なら明日からの合宿前の、学校での最後の練習になるはずだった。と言ってもまだ二日目。専門的なことをする時期ではない気もする。だから、おそらく体力づくりとかだろう。
「練習って言えばさ、あの二人、どう思う?」
ふと脳裏をかすめたことを僕は葵に問いかける。あの二人、できっと通じるはずだ。
「二人、って言うと支倉君と柴田君?」
「そ」
葵の確認には短く答える。
「うぅーん……。一言で言うなら、だらけてる、かな。支倉君は結果だけ見るとそんなに悪ないと思うけど、細かい動きとかは正直甘いし。柴田君は……まぁ、あのエラーがあるからね。あの後もちょいちょいミスってたし。まだまだ締まってへんな。……私が言うのも何やけど」
最後に小さく付け加えて、ははは、と苦笑いする。
「逆に友哉はどう思うん?」
僕は葵とほぼ同意見だ。あの二人の行動からは、いつもけだるげなオーラが染み出ている。それが学校生活の中だけでとどまってくれれば文句はないのだが、練習の時まで引きずってこられると厄介だ。練習中の雰囲気に支障を来して、周りの迷惑になってしまう。それがチーム全体に拡散して、より一層やる気のない団体になってしまうことは、ありえない可能性ではない。
「ちゃんと、注意してみる?」
僕の意見を聞いた葵は、空を眺めたまま提案した。大きな雲が、風の流れに乗ってゆっくりと動いている。それに便乗しているかのように、僕らの足も遅くなる。
「注意、って言ってもなぁ……」
あの二人が、そう簡単に聞き入れてくれそうな感じもない。僕の性格では、逆に歯向かわれて撃沈してしまうのが目に見えている。
「当たって砕けろ、やで。友哉!」
励ましてくれているとは思えない葵の言葉に、僕はまたため息を吐く。ナーバスな気分が体を支配して、胸のあたりが痛くなる。今日は厄日かもしれない。
また、少し強い風が吹いた。天気予報に反して、いますぐにでも降り出しそうだ。
「まぁ、話してみるだけ話してみよか。もしかしたら、ちょっとは変わるかもしれんし」
ほぼ諦めに近い形で僕はうなずいた。葵がぽん、と肩をたたいてくれる。
どんよりとした四月の空は、僕の心を映す鏡のようだった。
朝休みは、お互い、合宿の用紙を提出したり、二人がいなかったりと、話しかける機会がなかった。いわゆる「しおり」は、用紙を提出すると同時にもらえた。同じクラスなので、一度チャンスを逃したからといって悲観することもないのだが、面倒事は早いうちに片づけておきたい。
「はぁ……」
そんなことを考えているうちに、昼休みになってしまっていた。進まぬ箸を頑張って動かし、弁当を食べ終わる。
「今日は友哉、何かテンション低いなー」
良太がため息ばかり吐いている僕を見て、そんな感想を漏らす。まったくもってその通りなので、何も反論しない。
「まーな。ちょっと朝からいろいろあって……。胃が痛くなりそうや」
腹のあたりを擦って、大袈裟におどけてみせる。良太はそれには何も口出しせずに、ただ心配そうな視線を送り続けた。良太の横に座っている葵は、一言も発しない。俯いて、黙々とお弁当のウインナーをつまんでいる。端っこが少し焦げていた。
もしかしたら、提案をしたことを悔いているのだろうか。
「ちょっと自販機まで行ってくるわ」
良太に余計な不安をかけさせたくないのと、葵の気分も楽にさせるために、僕は明るい声を出して言った。財布をつかんで席を立つと、葵も同時に立ち上がる。
「あ、ちょっと待って……。私も」
最後の一口をごくん、と飲み込んで言う。僕は無言で頷いた。
「ごめんね、私のせいで、友哉悩んどるんやろ?」
自販機に向かう道のりの途中、口を開けた葵はまず謝った。校舎の中で騒ぐ先輩の声が反響して、騒々しい。葵の声は、いつもより小さいものの、しっかりと聞き取ることができた。
本当ならここは、そんなことない、と言いたいところだが、僕は嘘が苦手だ。葵はすぐに見抜くだろう。そうなると、逆に傷つかせてしまうかもしれない。ここは、正直に言うことにした。
「……うん。ちょっと悩んどる。でも葵の所為なんかじゃ――」
「ううん。私が言い出したことなんやし、これは私の我儘。その我儘に、勝手に友哉を巻き込んでしまっただけや。……ごめん、友哉」
僕より一歩先に出て、振り返って言う。僕は思わず立ち止まる。突然、相対する形になった僕たちを見て、周囲の生徒が奇妙なものを見る視線を送ってくる。
くぐもっている葵の声は儚く、そして脆かった。僕が不用意に言葉を発そうものなら、すぐにでも崩れてしまうだろう。だから僕は、葵に何か優しい言葉をかけてあげることができない。そんな自分に嫌気がさし、苛立ちが募る。
最後の一言を残し、葵は踵を返した。足早に去っていく葵。その後姿から、僕は目を背ける。
僕の半径一メートルを超えた先には、みんなの日常が広がっている。皆それぞれに悩みを持っているだろうが、共通して友達と一緒に笑っている。
「……くそっ」
僕は独りで拳を握りしめる。中学の時の担任から聞かされた、太宰治のある小説のワンフレーズが脳裏をかすめる。
だったら、すべてを片づけてやろう。今の状態で笑うことができないのなら、笑うことができる状況に持っていけばいい。この拳を解くとき、みんなで笑えるようにしよう。
自販機の前で決心する僕を、歩く人たちが訝しげに見つめる。ひそひそと囁くような声も聞こえる。
けれど僕は気にしない。これは、自分に対する試練だと思おう。弱気な自分を変えるための、挑戦。
静かな闘志を胸に秘めて、教室に戻る。
いつの間にか、大粒の雨が降り出していた。