影と魂
野球部の面子が集まっている、グラウンドの一角へと小走りで向かう。皆、既に集合しており、退屈そうに僕を待っていた。先輩に呼ばれたとはいえ、遅れたのは事実なので、謝罪してその輪の中に入り込む。
「ったく、お前どこ行っとったんや? めっちゃ待ったぞ」
貴浩が心底面倒くさそうな表情で訊ねてくる。
僕は迷い、チラッと先輩を見る。僕と目が合った先輩は、何も訴えない瞳で僕を睨み返した。詳細は読み取れなかったが、公の場で口にするのも憚られることなので、適当にはぐらかすことにした。
「はいはい、お前ら静かに! 重要な話があるからちゃんと聞いとけ。……監督」
僕らを大声で静止させた後、静かに監督を呼ぶ。ゆっくりと開田監督が僕たちの前に立ち、口を開く。
「えー、まず初めに新入部員のみなさん、そして二年目に入った先輩のみなさん、今年度の初練習はどうでしたか? もしかしたらまだまだ本調子やないところもあると思いますが、ゆっくりと修正して、元の状態に戻していきましょう」
監督の話に、柴田が少し顔を伏せたのが見えた。まだ、あのミスを引きずっているのだろう。
「新入部員の皆さんは、この高校に入学して数日。まだまだ学校の勝手に慣れなかったり、先輩たちとコミュニケーションが取りづらかったりするでしょう。と、いうことで、今週末の土日に、野球部のオリエンテーションを兼ねた合宿を行いたいと思います!」
夕空の中、監督は高らかに宣言した。普段の状態とは違う、若干テンションが高くなっている気がする。光のせいかわからないが、その頬はわずかに赤みを帯びていた。
唐突すぎてうまく理解できなかったが、後に聞いた話を含めてまとめると、こういうことだ。
これは、毎年野球部が恒例で行っている合宿。福知山市の北部に位置する、大江町の「大江山グリーンロッジ」というところに一泊二日で行く。その中で、先輩や仲間との親睦を深める。野球練習もしっかりとして、成長して帰ってくる……というのが目的らしい。
貴浩や石崎先輩曰く、「羽根を伸ばせて、楽しいことは楽しいが、野球練習はほとんどしない」らしいが。
それでも、柴田や支倉、それに石崎先輩のことをよく知る機会でもあるし、元々仲が良かったメンバーとも楽しめるのなら悪くはないと思う。夜には怪談をしたり、少し騒いだり……など、遊び盛りな僕たちには、とても嬉しいイベントが盛りだくさんらしい。
「じゃ、そういうことやから、親御さんに話してこのプリントを明日中に提出してください」
監督はそう言って一枚のプリントを渡す。概要が簡単に記されており、その下には提出するための部分が印刷されていた。
「じゃあ、今日はこれで練習は終了! お疲れさん!」
監督の言葉がかかり、二人がさっさと校舎の方へと戻ろうとしている。そんな彼らの背中に、石崎先輩の声が降りかかった。
「おーい、お前ら! ちょっと待て!」
叫ばれると同時に停止する柴田と支倉。特に柴田は、肩を跳ねあがらせていた。先ほどのノックの時にも思ったのだが、柴田は肝が小さいのかもしれない。
「練習が終わったら、ちゃんとグラウンドに礼せなアカンやろ。使わせていただいてありがとうございました、てな。ほら、ちゃっちゃと並べ」
先輩に導かれ、少し唇を尖らせている二人を含めて、横一列に並ぶ。片づけを始めようとしていて少し遅れた葵も、列の端に立つ。
夕陽に照らされた、七つの影が砂の上に映し出される。時折体がふらふら揺れたり、手が動くこともあるが、みんな同じ黒い影だ。こんなにも性格が違って、一体感も中途半端で、歯車がかみ合わない七人でも、視線を落とせばそこには全く違わないものが並んでいる。隣との距離が狭いせいで、肩がぶつかりそうだ。いや、当たっている感覚はないものの、既に交わっている。
「気を付け、礼! ありがとうございました!」
「ありがとうございました!!」
キャプテンである石崎先輩の声に続いて、僕ら六人が復唱する。たったこれだけの人数の声だが、広いグラウンドにそれは木霊する。グラウンドの端を歩いていた、ほかの部活の生徒がこちらを振り向いた。
そして礼をする。僕らの動きに調和して影も動く。体が折れ曲がると同時に、一瞬だけ見える。僕らの『分身』は、図ったかのように重なり合い、一つの大きな『魂』と化していた。
その後、簡単な片づけを終え、僕たちは家路についた。いくらゆるい練習だったとしても、体を動かすと、やっぱり疲労する。久しぶりだった影響もあって、電車のシートに身を沈めると、意識までも持って行かれそうになる。
「ふぅ……」
石生駅までは三十分ほどしかないので、寝過ごしてしまう可能性もある。眠気を外に吐き出すように、ため息を吐いた。
「友哉、疲れたん?」
大きな瞳で葵が僕を見つめる。そこに疲弊の色は見えない。まだまだ動けますよ、ということを証明するかのような煌めいた表情をしている。
「まぁな。春休みでちょっと間が空いてもたから……。にしても……あー、寝てしまいそうや」
頭では分かっていても、体は言うことを聞かない。目を瞑れば、すぐにでも夢の世界に行ってしまいそうだ。
「無理せんと寝れば? 駅に着いたら起こしたるし」
良太の優しい言葉に僕は素直にうなずく。そして、列車が走る振動に揺られながら、僕は眠りに堕ちた。
*
「おっ、早」
目を閉じてすぐ、静かな寝息をたてはじめた友哉に、私は正直驚く。線路を走る音や、車内アナウンスのせいで、色々な音が絶えない車内だが、彼の目の前に座る私には小さいながらもはっきりと聞き取ることができた。
「こいつ、よっぽど疲れとったんやな」
友哉の横に座る良太が、苦笑しながら呟く。カクンカクンと不規則に波打つ首が、窓ガラスに当たってしまいそうで見ていて怖い。私も苦笑して、友哉の体制を簡単に直してあげた。
列車は、丹波竹田駅の前にあるトンネルに入る。車内が一気に暗くなり、友哉の寝息は轟音に掻き消される。
私も、シートに深く体を埋め、今後の野球部でのことを考えることにした。
まだまだマネージャーとしては駆け出したばかりのひよっこではあるが、今日の練習を傍から見守っていたことで少し思ったことがある。やはり、監督の雰囲気が違う。中学時代、友哉や良太、貴浩と共に野球部でセカンドを務めていたが、捕球の仕方はもちろん、ダブルプレーや牽制の際のショートとの連携などに関しては三年間、口酸っぱく言われ続けた。なので、二遊間のコンビネーションの良し悪しはある程度分かっているつもりだ。
だから、私は今の状況に危惧する。
セカンドの支倉君と、ショートの動きの速度の差がかなり大きいように感じられた。友哉や石崎先輩が俊敏に動くのに対し、支倉君はかなりスローペース。もちろん、一二塁間を縫って、外野へ抜けそうな打球には少し動きが速くなるものの、それでも遅く感じる。送球は落ち着いており、大きなブレもないのだが、時折、内野安打になりかねないような動きも見せる。それが緊迫した状況の時に出されると、と考えると不安を拭いきることができなかった。
まだ、ダブルプレーなどの練習は行っていない。ある程度お互いを分かり合わないとうまくいかないところもあるので、もうしばらく経ってから練習するつもりなのだろう。そういう意味でも、今度の合宿は、いい機会になりえるかもしれない。
「合宿かぁ……」
久しぶりだなぁ、と思う。友達や仲間と宿泊するのは、中三の時の修学旅行以来だ。ちょうど一年前ぐらい。
「葵も参加するやろ?」
私の声が聞こえたのか、良太が反応する。貴浩も興味津々といった顔つきで私を見つめていた。
「うん、もちろん。でも、急やんなー。明後日にお泊りですー、ていきなり言われても……。準備とかせなあかんのに」
練習はハードやないくせに、こういうところはハードや、と内心、少し苦笑する。
「ま、さっきも真人が言った通り、これが恒例やから。一種の宿命かもしれんな」
「嫌やね、こんな宿命って」
「……まーな」
私の軽い冗談に貴浩が困ったような表情をする。
「でもまぁ、楽しいのは事実や。何せ、あの監督がおるんやからな」
やけに説得力がある。監督は、指導力が低くても、人を楽しませることに於いては、人一倍特化していそうだ。
「私も、結構楽しみやで。みんなと旅行みたいなもんやからなっ」
良太が微笑んだ。と、同時に車内アナウンスが流れる。石生駅の前の、黒井駅に到着した。あと数分で降りなければならない。
「そろそろ、起こしたほうがええかな」
独り口にだし、前のめりになる。そして、そのしなやかな肩に手を置き、軽く揺さぶる。
「ほら、友哉。もう着くで。起きんと……。おーい」
列車が再び動き出し、お互いが揺れる。
「……あっ」
その所為か、また友哉の首がコテンと倒れる。私の手の方に倒れたため、友哉の少し長い髪と思いっきり触れ合う。まだ、汗がわずかに乾ききっていない髪の毛が私の右手を包み込む。
「…………ん」
少し、温かかった。
幼いころ、体調を崩した時に飲んだホットミルクのような感じ。右手から、少しばかりの体温が伝わって、ほくほくと体を暖めてくれるような、そんな気がした。
「サラサラ、やねー……」
思わず、その感覚に酔いしれる。私も一応は女子なので、髪の手入れなどには気を付けているつもりだ。それでも、友哉の髪の毛が羨ましくなることもある。隣の花は赤い、といったものだろうか。今は、汗で少し蒸れてはいるが、決して不愉快には感じなかった。
「おいっ、友哉! おきんと置いてくぞ!」
ずっと動かない私を見かねたのか、貴浩が声をかけてくれる。その大声に、友哉はその瞳をぱっちりと開ける。
私は、あわてて右手を引き抜いた。
「あっ……。僕、完全に寝てたな」
寝ぼけ眼をこすりながら、一つ、大きな欠伸をする。その動きを見ているうちに、なんだか、さっきまでの自分が恥ずかしく思えてきた。
「ん、葵……? どしたん?」
「べっ……! 別にっ、なんでも……ない」
頬の紅潮を感じて顔を背ける。不思議そうに友哉は見つめるが、考えるのを諦めたのか、自分のお茶を一口飲んで立ち上がった。
友哉に倣って、私たちも降りる準備をする。床に放り出していた鞄類をかき集め、自分の肩に担ぐ。行きの時よりも、少し重く感じた。
駅に到着し、うーんと背伸びする。三十分間とはいえ、固いシートに座っていたせいで腰の骨がポキポキと小気味良い音を鳴らす。
「じゃ、帰るか」
貴浩と良太とはここでお別れだ。二人の背中を見送ってから、私たちも自らの家へと向かって歩き出す。
私たちの間には、珍しく会話がない。萎縮してしまっている自分がいるからだろう。普段の話題提供は友哉がしてくれるのだが、私の状態を気にしてか、彼も居心地が悪そうだった。
「……練習、お疲れ様。初練習、どうやった?」
「んー、正直、不安だよ。このままでええのかな、って」
眠気が抜けきっていないのか、その声は、いつもより覇気がない。話が盛り上がることはなく、二人の間にはすぐに沈黙が訪れる。
その状況に耐えきれなくなったのか、友哉が話を振ってくれた。
「それこそ、葵は? マネージャー、初めてやったんやろ?」
「そうやね、でもまだまだ分からへんこともよーけあるから、おいおい覚えていくつもり。……もしなんかわからへんことがあったら、そん時は友哉、教えてや」
精一杯の笑顔を浮かべて、友哉に言う。友哉も、いつもの可愛らしい笑顔で頷いてくれた。
「……ありがと」
それ以降、私たちは自分の家に着くまで話すことはなかった。友哉は眠たそうだったし、私もまだあのことが思考を邪魔をするから。
でも、時折風が吹くとき。ショルダーバッグを抱える右手から、ほんのり友哉の薫りがした。