僕の声
そして、最後の給水時間。僕は石崎先輩に呼ばれ、部室に連れて行かれていた。
「で、どうや? ここの野球部の練習やってみて」
窓の外には、相変わらずジャグに群がっている部員の姿がある。石崎先輩はそれをただ静かに見つめながら問うた。
「どう……ですか」
初めて石崎先輩と話した時のデジャヴを感じて、僕の声はとても小さくなる。機嫌を損ねぬよう、慎重に言葉を選んでしまう。
「……まぁ、何というか、ちょっとふわふわしている気はしますが、いいところだと思いますよ。僕も久しぶりに野球ができましたし……」
口ではそういうものの、視線は定まらず、部室内の至る所を巡っている。
「楠木、そういう社交辞令みたいなもんはいらん。正直に言え。お前、貴浩と同じ中学から来たんやろ? やったら、何か感じるもんがあるんとちゃうんか?」
外から大きな笑い声が聞こえてくる。ふざけて、水でも掛け合っているのだろうか。直後に、貴浩の叱責の声が聞こえた。
「……正直に言いますと、やっぱりだらけていると思います。掛け声もそろわないし、ノックの時も注意力散漫な人もいますし……。僕の中学校の野球部と比較すると、こっちの方がゆるいぐらいです」
僕の言葉を、石崎先輩は目を瞑って聞いていた。胸の前で強く組まれた腕は、筋肉で大きく盛り上がっていた。
一息吐いてから、先輩は話し出す。
「……まぁ、今日は初練習っつうことで若干甘くしたところもあるけどな。普通やったら、声揃わんかったら怒鳴り散らしとるで。チームの一体感出すためにやっとることができひんのやったら、できるようになるまで徹底する。それぐらいの覚悟は、部長やから……いや、部長やなくても、球児ならそれぐらいは必要やろ」
次は、僕が黙って聞く番だ。
少しずつ陽が傾きかける時間。影がちょっとだけ長くなっている。部室にいる僕らには関係のないことだが。
「中学生でも、小学生でもちゃんとやっとる。グラウンドを走る時に、ほかの野球部とかチームに挨拶したりとかな……」
僕は小学校の野球クラブを思い出す。グラウンドには必ずと言っていいほどほかのチームがいた。その前を通るたびに、全員で声を揃えて挨拶をしていた。とても、懐かしく思える。
「それを高校生がやらへんのやから、俺はみんなを叱る……。いや、叱りたい。けどな」
意味深に発せられた言葉。
僕はゆっくりと頭を上げる。もう休憩時間が終わっていそうな気がする。だが、石崎先輩がここから動く気配はない。地べたには変わらず、光で出来た小窓の形が居座っている。
「……先輩は、みんなをまとめようと、一所懸命にやってはると思います。少なくとも、僕にはそう見えました。柴田がノックで落球したときもしっかりと怒鳴ってましたし……」
声を聞いているうちに、僕も話さずにはいられなかった。話を続けようとしていた先輩の言葉を遮ってしまう。
本気で、野球部をまともな方向に持っていこうとしている先輩が抱えている、大きな悩み。入部したての僕が、それを払拭することができるとは思えない。たった一つの存在だけが、この先輩を苦しめている。そして、この野球部を衰退させている。
僕は、意を決して、一言を放つ。
「監督が、邪魔するんですね」
「………………あぁ」
暫しの沈黙の後、先輩はぼやくように答えた。僕の中では確信していたことだったが、いざ事実だとわかると、やはり悲しい。部の頂点に立つべき人物が、そんな存在だと。
「前の休憩時間、先輩が監督と話していたのも……」
「……まぁ、お前が想像しているような内容や」
おかしな話だと思う。野球とは本来、団結するために、一線を越えないほどの厳しさを求められる競技だ。甲子園という、球児にとっての聖地を目指すのならばなおさらだ。監督という地位に腰を据える人物ならば、それぐらいは理解しているはず。なのになぜ、そんなことを。
「あの人は、『常に楽しく』を自分の中でモットーにしとる。まさに、この学校に相応しいよな。常楽高校やなんて……。俺がどんなに努力しても何も変わらへん。ため息出てまうわ」
顔の半分をその大きな掌で覆って石崎先輩はそう嘆いた。そんな先輩に、かけるべき言葉が思いつかない。時の流れを待つしか、僕に為せることはなかった。
「……先輩」
ようやく絞り出した、何の意味も持たない一言。僕のぼやきに、先輩は反応することなく外を眺めている。しきりに瞬きをしているのは陽の光が眩しいからなのだろうか。
相も変わらず、燥ぎ声が絶え間なく聞こえてくる。先輩が、瞬きを頻繁にする理由がわかる気がする。
僕は目を閉じた。もともと薄暗かった部室だったので、視界が闇に塗れても差異はない。精神が落ち着くことで、周りの音が一層よく聞こえる。
僕は、このように目を閉じて集中するのが大好きだ。試合中でも、練習中でも、雑念が入り混じった時にはよくこの行為をする。すると、誰かの足音、地面を蹴る音、ボールを弾く金属音などが明瞭に聴こえ、とてもリラックスできる。胸に手を置いて自問すれば、誰も答えてくれないものの、心の声を聞くことができる。ほかの誰でもない、自分自身の声。僕はそれにすべてを委ねる。
今聞こえるのは、はしたなく、不必要な音ばかり。すぐにでも遮断してしまいたく思うほどの雑音。
僕の耳から、それらを一気に消去する。そして、黒の世界に身を任せ、動くがままに僕は動く。
僕は自分の意志に抗うことなく、素直に湧き上がる欲求に従った。
「……悪かったな、急に呼び出してこんな愚痴聞かせてもて」
苦笑して、みんなの元に戻ろうとする石崎先輩。全てを背負っている広大な背中には、深い憂愁の色が浮かんでいた。
深く息を吸い込み、僕は石崎先輩に宣言する。迷いはない。
「先輩……!」
僕の重い声に、先輩は歩を止めて振り向く。
「僕……、僕、この野球部を変えてみせます! 石崎先輩が、望んでいるようにっ!!」
言ってしまう。二度と、後戻りはできない。男に二言はない、とはよく言ったものである。出された言葉は、間違いなく先輩に届いたはずだ。先輩は、固まったまま、動かない。呪いがかかったかのように、二人とも動かない。
「おーい、真人~! どこ行ったー!?」
貴浩の呼び声が、部室内にも聞こえる。その声に、現実に戻されたかのように石崎先輩が反応する。
「……ほら、行くぞ。大事な発表があるから」
発せられたのは、感謝でも、応援でも、侮蔑でもない、事務的な言葉。そして何も残すことなく、部室を後にしようとする。
ドアが開けられ、冷たい風が流れ込む。まるで冬のような冷気を身体が感じる。凍りそうな体に鞭を打って、僕は淋しい一歩を踏み出す。
「あ、そうや、楠木」
朗らかな表情で先輩が振り向いた。これまでに、見たことのない表情だった。
「さっきのバックハンド、良かったで。お前には期待しとる」
言い終わるか終らないかのうちに、先輩は顔を背け、部室から去っていった。僕はしばらく、その場に呆然と立ち尽くす。
扉が音を立てて閉まった。バタンと大きな悲鳴と振動を残す。そして僕は、再び目を瞑り、先輩から聞こえた言葉を反芻する。
僕の宣言には答えてくれなかったが、果たしてこの言葉を、その答えだと思ってよいのだろうか。たまたまうまく収まった、一回きりのプレーでそんな感情を持たれてもいいのだろうか。僕の思考に、返す人はもちろんのこと、いない。だから、僕は素直に口に出す。
「……まだまだ、ですよ。僕なんて」
言い残し、僕は振り返ることなく部室を後にする。出る刹那、背後から声が聞こえたような気がした。
(でも、正遊撃手は俺やからな)
空耳だろうか。だったら良い。
僕の想いに呼応した心の声ならば。僕はこの言葉を真摯に受け止め、抗うつもりだ。