春の匂い
1
高架上を走る電車が減速を始める。先ほどまでの田園風景が嘘のように、窓の外には市街地が広がっている。視界の端に映っているのは福知山城。かの有名な、明智光秀も城主になったという、この街のシンボルだ。今日も凛とした佇まいで、人々を見守っている。
未だ少し靄がかかる中に、うっすらと見える薄桃色。その色が季節の到来を感じさせ、また新たな始まりだということを伝えてくれる。
『間もなく、終点。福知山、福知山です。お忘れ物の無いように、ご注意ください……』
車内に、田舎特有のワンマンカーの放送が流れる。
左から右へ逃げていく景色と対照的に、僕の目的地は着実に近づいていた。
「……どうしたん、緊張しとん?」
隣から、からかうような女の子の声がかけられる。
「い、いや……。そういうわけやないけど……」
僕はしどろもどろになりながら答える。返答に窮してしまったのは、彼女の言ったことがまさに図星だったからだ。さすが幼馴染、表情とかよく見てるんやな、と心の中で納得する。
「何や、お前緊張しとんか! そんな気ぃ張るなや! どうせいつものメンバーやん!
別の声がかかる。四人掛けのシートの、僕の前からだ。大きく、少し野太い声が、静寂を保つ車内に響きわたる。
「ちょっと、兄ちゃん、静かに……。電車ん中なんやから……」
その隣に座る大人しそうな男の子がその愚行を注意する。
そうこうしている内に、電車は駅に到着した。僕たちは各々の荷物を持ち、ドアの前に立つ。横に設置されている、「ドア開閉ボタン」の「開」のところを押して、ドアを開ける。
すると、春の涼やかな風が僕たちを撫でた。
その清々しさに充たされながら、僕たちはエスカレーターで下り、改札を出た。
京都府福知山市。
京都府の北部に位置する、人口八万人ほどの小さな田舎町だ。
周囲を山々に囲まれているため、夏は暑く冬は寒い、やや過ごしづらい気候ではあるが、その分四季の美しさは素晴らしく、その風景を写真に収めようとする人々も少なくはない。
そして、僕たちが進学する高校もこの町にある。福知山市立常楽高校。これがその高校の名称だ。
決して進学校というわけではないが、駅から徒歩十分という利便性と、穏やかな校風が人気で、それを理由に進学する生徒もいると聞く。生徒は、三学年合わせて百人強と少ないが、田舎なので仕方ないだろう。
「でも、お前ら、よー同じとこに進学できたよなぁ」
先頭を歩く、先ほど電車内で大声を上げた男――山本貴浩――が感慨深げに口を開く。常楽高校の二年生、つまり僕らの一つ上の先輩ということになる。野球部に所属しており、そのユーモア溢れる性格も相まって、僕らのリーダーぽいところもある。
その後ろを静かに歩く、先ほど注意をしていた少年――山本良太――は、先ほどの会話からも予想できるように、貴浩の弟だ。基本的にまじめで無口だが、いざという時には思い切った行動をするし、しっかりと自分の主張を言い切る、そんな頼もしい存在である。このニ人は、年の割に仲が悪いわけでもなく、喧嘩しているところをあまり見たことがない。性格は真逆やのになぁ……、と僕は常々思っている。
そして僕の隣を、機嫌よさげに歩いている少女は、木ノ下葵。常に元気で、ややボーイッシュな性格をしており、さっきのように、よく僕をからかう。その溌剌さに戸惑うことも時々あるが、悩んだ時などは彼女に助けられることも多く、僕にとって大切な友人の一人である。
「おーい、友哉-? ……聞いとる?」
「えっ? ……あ、何?」
突如かけられた声に驚いて、声が裏返ってしまった。声の方を向くと、葵が訝しげに覗き込んでいる。
「いや、何かポケーッとしとったから声かけたんやけど……。話、聞いてへんかったん?」
僕は首をかしげる。何のことやろ? と記憶をさかのぼっていたところでふと思いつく。
「お前ら、同じところに進学できてよかったなー、って話してたんだよ。聞いとらんかったんか、お前」
貴浩がジロリとにらんでくる。その眼光に少し気圧されるも、僕は首を振って否定する。
「まぁ、幼馴染の縁っていうのがあったんやないかな? これまでずっと、この四人は一緒やからね」
僕は笑って答える。
すると、みんなは一様に黙り込んだ。風が木葉を揺らす音や、駅前の交差点を走る車のエンジン音がやけに大きく聞こえる。
一枚の花びらが、僕の前を落ちていった。
突然、貴浩が大声で笑った。葵も、つられるように良太も。
高校生になっても、こうして四人、同じ制服に身を包んで、同じ道を歩けていることは、僕の心を暖かい色にさせた。
気づけば、さっきまで感じていた緊張はどこかに飛んで行ってしまい、春の優しい陽射しが僕たちを包み込んでいた。
校舎が見えてきた。もうすぐ、僕の高校生生活、僕の青春が始まる。
「楠木友哉」
名前が呼ばれ、僕は返事をしてその場で立ち上がる。
声が、静かな体育館に反響して、余韻を残さずに消えていった。
壇上には華麗な生け花が鎮座し、金色にコーティングされた屏風が存在感を示している。「入学式」と大きく書かれ、吊り下げられているパネルと、国旗、どこかの国の紋様のような校旗は微動だにせずに、僕たちを見つめている。
周りに座る僕の同級生たちも、直立不動で正面を見据えている。その顔は、どれも真剣そのものだった。
やがて、三十三人全員の呼名が終わり、学校長が式辞を述べ、入学式は閉式となった。
教室に入り、自分の席に座る。どうやら席順は名簿順らしい。良太や葵とは結構離れており、僕の周りは知らない顔だらけだった。
クラスの誰もかもが、少しは緊張しているのか、教室内に会話は一切なかった。僕は、少しでも周りのクラスメイトと仲良くなっておきたいな、と思ったが、とても話しかけられるような雰囲気ではなかった。良太や葵も居心地悪そうにしている。
すると、そんな空気を切り裂くようにガラッと扉を開け、担任の教師が入ってきた。中島智志先生。式の最後に軽く紹介されたが、こうして近くで見ると、「お父さん」のような印象を受ける、のんびりしたオーラを感じる先生だった。クラス三十三人の視線を一身に受ける中島先生は、教卓に手をつき、咳払いをひとつしてから、口を開いた。
「えー、皆さん、改めましてご入学おめでとうございます。先ほど、紹介してもらったように、僕は中島智志、と言います。これから一年間、一緒に学び、生活を共にして、楽しい高校生活を過ごしてもらいたいと思っていますので、よろしくお願いします」
中島先生はそう丁寧に言って、頭を下げた。僕も思わず、軽く会釈する。
「そして、これから三年間、問題が起こらなければ皆さんはこの三十三人で進級することになります。その間、諍いが起こったり、衝突してしまうこともあるでしょう。でも、どんな時でも後悔だけはしないように、また……」
中島先生は、「問題が起こらなければ」を少し強調して言った。
その後は、軽い連絡事項や自己紹介などが行われた。
放課後、僕はある場所へ向かう為にグラウンドを歩いていた。一歩踏みしめるたびに、シューズ越しに伝わってくる砂の感触が心地よい。
今日は午前中で学校は終わりなので、周囲に人影はなく、遠くで鳴くうぐいすの唄声だけが聞こえた。そんな静寂の中、遠くから運動部のものと思しき、勇ましい掛け声が聞こえてくる。
懐かしい歌声だ。その声を脳内で反芻して、僕は勝手に想像した。雲一つない青空。ぎらぎらと照りつける灼熱の太陽。泥で彩られたボール。響き渡る金属音。勝った時には思いっきり称賛しあい、負けた時には反省点を洗い出し、雪辱を誓う。いくつもの情景が、鮮明に浮かぶ。そんな、眩しい未来を思い描いて、僕は一人、ふふっと笑った。
目的の場所は、グラウンドの隅にあった。トタン屋根の小さな、バラックのような小屋が数個、並んでいる。僕はその中の一つの小屋の前に立ち、軽く空気を吸い込む。心地よい涼しさが、僕の中で渦を巻く。そして静かにノックする。コンクリートでできた、扉の冷たさが肌に伝わった。中から声がして、僕はゆっくりとドアを開ける。
「え、えと、入部希望の、一年一組、楠木友哉です!!」
中にいたのは貴浩だけだった。僕は思わず目を丸くする。
「あ、あれ……? 貴浩……だけ?」
室内は薄暗く、小窓から入り込む僅かな光だけが物体を認識させてくれる。そこには、着替えを入れるための棚や、バットを立てるためのバットスタンド、ボールが入っている箱、グローブなどが置いてある。部室は間違っていないはずだ。そして貴浩は、その中央にぽつっと立っていた。
呆然としている僕をよそに、貴浩はしれっとした表情で、答えた。
「この部活、二人だけやで??」
『野球部』と書かれた寂れた板が、小さく吹いた風にコトリと揺れた。