番外六 ジャッコウの匂いに誑かされて
もう、聖大神ジャルフ・イナ・ギゼティスは駄目だ。
一つの国、一つの神でまとまっていたからこそ、聖大神の神官という職業はうま味があったのに。
無能で神の力である魔法を使えなくて神官の身分を買ったやつですら、金も尊敬も思うがままだったのに。
国が割れてしまっては、そうもいかなくなった。
もう、私が特殊な任務を任されるほどの優秀な神官でも、聖大神ジャルフ・イナ・ギゼティスを見捨てるしかない。
新しい国で様々な神が擁立されたことで、人々の信心は失われてしまった。
自分が気に入らなければ今までの神を捨て、新しい神に縋りつく。
昨日賄賂をくれた信者が逆徒となり、町や村の神官を吊るし上げ、その者が新たに信じる神を周りに宣伝すらする。
こんな混沌の中では、聖大神の教徒でいることすら、命の危険がある。
特に、この新しい国に取り残されてしまった神官であれば、なおさらだった。
もう、逃げるしかない。
そう判断して旅に出て、聖大神が国教のままの国へと向かう。
しかし、新国の者は全て邪教の徒だと判断され、国に入ることは叶わなかった。
それどころか、兵士に刺殺されそうにすらなる。
ここで妻と子に見限られた。
私がいつまでも聖大神を信じているから、どこにも居場所がないのだと言われ、去って行かれてしまった。
もう、私に安寧の土地はない。
そう思いかけ、任務で訪れた、あの隠れ里を思い出した。
教団内の政争により、私は濡れ衣を着せられ、あの地に赴く任を解かれてた。
しかしいま思い返してみれば、あそこの住民は、体に余計なものがついている以外に、温厚で見目麗しく素敵な人たちばかりだった。
職分と妻子があるからと、体を許すことはしなかった。
しかし、何度となく夜の相手にと、すり寄られたことがあった。
あの女性の温かさは、妻と肌を合わせてたとしても、いまでもひりつく様に体に残っていた。
もう、どこにも居場所がないのなら、あそこを目指そう。
そう思い、隠れ里――ジャッコウの里と呼ばれていた、秘密の媚薬生産地に向かうことにした。
行き方は分かっている。
街道を進むか、川を遡上するかだ。
二つのどちらにも砦があり、役目を退けられた私は、通行止めさせられてしまう可能性がある。
なら、夜中に通過可能な、川を遡上する方を選んだ。
今乗っている馬車を売れば、小舟の一艘と船頭を借りる資金は得られるはずだ。
旅を続け、川の縁にある村に就く。
早速、馬車を売り、不必要な家財道具も売って、資金を作る。
川の漁師に話をつけに回っていると、聖大神神官の同志と出会った。
彼もまた、以前にジャッコウの里に赴く任務を帯びていたことがあり、混乱した世から逃れるために向かっているのだそうだ。
意気投合する私たちに、元兵士という人たちもやってきた。
その内の一人に、私は見覚えがあった。
彼は、私が任務で里に赴いた際に、護衛として同行してくれた者だった。
懐かしい出会いに、この日の晩は酒を酌み交わした。
昔は硬い口調で挨拶を交わすばかりだった。
だが、いまは同じ境遇に陥っている同士。
自然と口調が柔らかく、そして軽くなっていく。
「神官さん。あんたが、こんなに気さくな奴だなんて、思ってもみなかったよ」
失敬な評価に眉を寄せる。
以前は神官と護衛という、ある種の主従の関係だったので、それに合った態度をしていただけだ。
職務を離れれば、いい夫、いい父親であったと――逃げられていて、それは言えないな。
大所帯になってしまったので、全員で遡上できる船を一から探していく。
すると、不思議な話を聞けた。
「ごくたまにだが、何も村がないはずの川上から、船がやってくることがあるんだ。木箱一つだけこの村に運び入れて、子連れの人を乗せて帰っていくんだ」
その船でなら、遡上できるのではないかという。
この話を聞いて、私はピンときた。
我々より先に、あの里に入り、特殊な香水を密かに売り払っている人がいるのではないかと。
そして船に乗るという人達は、その人物の親族ではないかと。
出遅れたと感じた我々は、おんぼろ船でもいいからと、有り金を全て叩いて買い付けた。
そして全員で協力して、帆と櫂で船を川上らせていく。
ここで、未だに私が聖大神の神官であったことが役に立った。
慣れない櫂漕ぎで疲れ果てた仲間を、魔法で体力を回復させられたのだ。
そのお陰もあり、順調にあの里への道のりを進めることができた。
段々と川幅が狭まってきて、高く広い山脈にある切り立った崖に囲まれた場所へ、船は入っていく。
何度か船底を、川面から出ている岩にぶつけてしまうが、どうにかこうにか進める。
砦の近くまで来たところで、岩の一つに縄をかけ、川面に漂いながら夜が来るのを待つことにした。
「なんでまた、こんな面倒な真似をするんで?」
なぜかと言われれば、私たちより前にきているはずの人物の用心のためだ。
村で仕入れた噂によると、砦の兵士たちは引き上げているらしい。
だが、誰かが砦を使って、川上を封鎖している可能性がある。
より安全確実に里に行くのなら、夜を待った方が利口だと判断したわけだった。
休憩している間に、夜が来た。
船を遡上させる。
静かに動かし、闇夜に紛れて進む。
少しして、砦が見えてきた。
ぼんやりと光っているところを見ると、やっぱり誰かが使用しているようだ。
私は仲間たちに、注意するよう言う。
仮に船が大弓で壊された場合、川岸まで自力で泳ぎ、個々で里を目指そうと誓い合う。
息を殺し、静かに静かに、砦の横を通っていく。
通り過ぎたと安堵しかけたところで、急に目の前が明るくなった。
ハッとして砦を見れば、こちらに投光する灯りが見えた。
そしてその隣には、こちらに照準を合わせようと、動く大弓の影がある。
それを目にした誰かが、大声を上げる。
「川に飛び込め! 船は沈む!」
言葉に従い、全員が船を捨てて川に飛び込む。
次の瞬間、水越しに船が大きな矢で破砕される音が聞こえてきた。
ぞっとしながら、私は川底を這い進むように泳いでいく。
仲間たちは、船が破壊されたことに恐慌をきたしたのか、川面を叩く様に泳いで川岸を目指している。
その彼らに投光器が向けられ、矢が飛んでくる。
川の下まで潜ってくる矢が恐ろしく、射抜かれて川中に沈む仲間の死体に胸が痛くなる。
だが私は生きるため、心を凍らせて、投光器の光から逃れながら、川の中を進んでいく。
出来るだけ呼吸は我慢し、息継ぎで顔を出すのはほんの一瞬だけにとどめる。
夜の暗さで見通せない川の中を、川の流れと石の感触だけで、川上へ向かって這い進んでいく。
どれだけの時間そうしたか分からないが、近くに投光器の光がないことに気づく。
私が恐る恐る顔を川面から出すと、砦は落ち着きを取り戻していて、光を川に向けてはいなかった。
ここでようやく安堵し、川岸を目指す。
上陸して、体力が著しく失っていることに気づく。
川の冷たさと、呼吸を制限していたせいだ。
そう気づいた私は、木の根にある洞穴を見つけ、そこに入り込む。
脱いで絞った服で穴を塞いで、魔法の光が外に漏れないようにしながら、体力を回復させる魔法を使う。
体力が戻ったことに安心して、力を抜きそうになるが、そうもいかない。
服をもう一度硬く絞ってから、拾った枝に通し、ほぼ裸で川岸に沿って里を目指す。
歩きながら周囲を見回すが、仲間の姿は見えない。
恐らく、砦からの弓で全員が死んだのだ――いや、私が生きているのだから、誰か生きているはずだ。
そんな儚い希望を抱きながら、ときどき休んで体力回復の魔法をかけつつ、夜気の寒さに体を震わせながら歩いていく。
やがて朝日が見えてきた。
暖かな光を受けて、思わず目から涙が出そうになる。
枝に通していた生乾きの服を着て、さらに川縁を歩いていく。
すると、川に船が幾つも浮いている光景が見えた。
乗っている人たちの頭に、獣のような耳があるのを見て、ようやく隠れ里にたどり着いたと実感した。
そして彼らは気の良い人たちばかりだ。
助けてもらえる。
そう考えて、おーい、と呼び掛ける。
私の言葉に漁師たちは小首を傾げ、一艘の船がこちらに寄ってきた。
「こんなところで、どうしたんで?」
素直に言うべきか少し迷ったが、事情を話した。
その船の漁師が、理解を示してくれる。
「そうだったんですか、難儀でしたね。よし、漁が終わったら、町まで運んであげましょう。それまで、そこで少しお待ちください」
彼の仕事を邪魔する気はないので、私は石の上に座り、太陽を浴びながら時がたつのを待つことにした。
船に乗れる時間になっても、結局他の仲間はやってこなかった。
隠れ里の町につくと、意外なことにもてなされた。
「ささ、どうぞ食べて飲んでください」
差し出される酒、川の獲物、畑の収穫物を、ありがたく頂かせてもらった。
昨日の夜から歩き通した体に、ぐっと栄養が染みわたる感覚がする。
こうして歓待されて、こちらもなにか返してあげたい気持ちになる。
しかし、荷物は船と共に沈んでしまったし、得意の聖大神の回復魔法はこの人たちには効かない。
聖大神の加護が通じない、邪神の残滓に呪われた人たちだからだ。
この事実に、私は心から聖大神を裏切ろうと考えてしまった。
こんなに心優し人たちに加護を与えず、教団本部の銭ゲバな奴らには与える神など、信じるに値しないのではないか。
そう思ってしまったわけだ。
しかしそれは一瞬だけ。
ここまで幾度の困難を助けてくれた魔法を授けてくださった神を、あしざまに言う権利が、私にはないからだ。
そんな小難しいことを考えていると、すっと煙管を差し出された。
「なにやら思い悩んでいるようですね。ささ、どうぞ一服。気持ちが楽になりますよ」
かたじけないと頂き、胸いっぱいに煙を吸い込む。
今までも、付き合いで煙草を吸ったことはある。
その中でもこれは、いままでで一番の上物だった。
頭の奥が痺れ、幸せな感覚が全身を包み込み、太陽の光の奥に神の御尊顔が見えた気になる。
すっかりこの煙草が気に入り、行儀が悪いと思いながらも、二服三服と数を吸ってしまう。
そうしていると、若い娘が気恥ずかしそうに私に近寄り、そっと体を預けてくる。
頭に犬っぽい耳、尻に尻尾があること以外は、私には縁遠かった美女な人だ。
その誘いを振り払うことは、度で疲れきり、妻子が去った私には、土台無理な話だった。
手を引かれ、近くの家に入るとき、私は心の底から、やっぱりこの里に来てよかったと感じたのだった。




