番外五 ジャッコウの里のありふれた日常
わたくしは、里長にお仕えする家系の使用人。
人様に覚えてもらうような名を持たず、ただただ、里長となられた方の安寧を願い、職分を真っ当するだけの者。
母親からも祖母からも、仕えた方の最後は悲惨だと教えられ、いつか訪れる悲しみを抱く宿命を持っていたはずの女。
しかし、ある人が里にやってきてくださったお陰で、そんな悲しみの未来は起こらなくなった。
その喜びを胸に私は、お寝坊さんで、甘えん坊で、それでも立派に里長をしてくださっている、キルティ様を起こすために部屋に入る。
「里長さま、里長さま。朝でございますよ」
「うぅぅ~~……もうちょっと、寝かせてぇ……」
呻き、寝言を言うキルティさまの姿が、たまらなく微笑ましい。
ほんの数年前は、とある毒のせいで彼女は人形のように動けなかった。
それどころか、口からは涎、目からは涙、そして股からは色々な物を垂れ流していた。
それなのに、いまではそんな面影はいまはない。
そのことが、仕える身としては、大変に嬉しい。
けれど、キルティさまは里長である。
自分の気持ちにかまけて甘やかしては、彼女のためにならない。
わたくしは心を鬼にし、ベッドのかけ布団を引っぺ剥がす。
暖かい綿の覆いが取り払われ、朝の肌寒い空気により、キルティさまは丸まってしまう。
さらには、長い尻尾をお腹側に持っていき、顔を膝と膝の間に入れる。
いつもながら思うが、猫の獣人だからか、とても猫っぽい仕草だ。とても可愛らしい。
けれど、最近よく食べよく運動した結果で発達した乳房が、抱える膝に押しつぶされる様を見て、ちょっとだけ冷静になる。
自分の胸に視線を下ろし、ぺたぺたと触ってみると、なぜか腹立たしくなってきた。
この怒りを原動力に、キルティさまの脇の下に手を入れて、無理やりに引っ張り起こす。
「朝ですよ、里長さま。ほら、しゃっきりと起きてくださいませ」
「ううぅぅ……。相変わらず君は、実力行使が好きだね。ああ、二度寝したい……」
一切の力を抜いてグデッとするキルティさまに、わたくしは必殺の起こし文句を放つ。
「あのお方に相応しい淑女になるのではなかったのですか? こんな里長さまの様子を見たら、あの方がどう思われるか」
演技で残念がって言うと、キルティさまの体に力が入ってきた。
「ううぅぅ……。トランジェさまを出すなんて、卑怯だよ。分かった、起きるよ。起きますーよー」
キルティさまは不機嫌そうにベッドから起き上がると、寝間着をすぱっと脱ぎ捨てた。
均整の取れた肢体が、部屋に差し込む光に浮かび上がる。
それと同時に、キルティさまの体から、嗅ぐ者の胸の内をかき乱す、臭いなき匂いがやってきた。
この匂いに耐性のあるジャッコウの民であり、効きにくい同性であるのにもかかわらず、思わずぼーっとしてしまいそうになる。
けれどわたくしは、慣れと職務意識で自分を取り戻し、キルティさまに服を着つけていく。
香水との交易で、服の質は無意味なほど高いものがそろっている。
質素ながらも高価であり、なおかつ動きやすい衣服と下着のみを選び、彼女を着飾っていく。
その際に手に触れる、肌の滑らかなこと、乳房と尻肉の柔らかいこと、腰の括れのなまめかしいこと。
思わず同性の嫉妬が、職分を越えて首をもたげそうになる。
いけないと押さえつけても、今度は目の前の肢体を自由に扱える存在を思い出し、羨望から歯噛みをしたくなる。
そんな心の動きを一切顔と動きに出さないままに、キルティさまを着替えさせ終えた。
彼女はその場で一つ回ると、屈託のない笑顔を向けてくださいます。
「うん、いつもながら見事な手際だね。どうやって着させてもらったか、よく分からないあたりがすごいよね」
「そうは言いますが、里長さまはご自分でその服をお脱ぎできますでしょう?」
「それが妙なんだよね。この手の服は脱ぐことは簡単なんだけど、着ようとすると、どこに頭や腕を通せばいいのかわからなくなるんだよね」
小首を傾げて不思議がるキルティさまの姿に、興奮から顔が高揚してしまいそうになってしまいます。
仕える主を愛らしく感じるなど、職分を越えた想いです。
いまはこの姿を目に焼き付け、勤務明けに思い返しつつ同僚に自慢し、ニヤニヤしするとしましょう。
仕事終わりの楽しみができたことに心を軽くしながら、わたくしはキルティさまを食堂に案内する。
わたくしは身の回りの世話をする、いわば秘書的な使用人です。
キルティさまに配膳し、料理の説明をする使用人は別にいます。
そしてこの場の主役は彼女たちですので、わたくしは出しゃばらないように、入り口の脇に佇んで待つことにします。
もちろん、キルティさまの愛らしい仕草で、目の保養をすることは忘れません。
「うわー、今日も美味しそうだね。要望通りに、お肉もつけてくれて、ありがとうね」
「いえ~。料理に携わる者たちは、食事をしてくださる方の喜ぶ顔こそが至宝です。ご要望にお応えするのは、当然のことですよ~」
あまりキルティさまと接する時間が少ない配膳の使用人が、会話をする機会を得た喜びから、顔を綻ばせている。
それをずるいと思ったのか、料理担当の使用人が料理の説明を始めた。
しかしキルティさまは、それをふんふんと聞き流し、健啖な様子を発揮して食べ進めている。
あの神官のお方が来て以降、彼女はよく食べるようになりました。
そのお陰で、あの豊かな胸とお尻ができたことは、大変に喜ばしいことです。
仮にわたくしが同じことをやると、絶対お腹だけに脂肪がつくであろうことは、何の関係もないことなので忘却の彼方に押しやります。
食事を終え、おかわりまでしたキルティさまは、説明を聞かなかったお詫びのように、料理担当の背中に手を当てて労います。
「美味しい食事をありがとうね。これからもよろしくお願いするね」
「はい……はい! お任せください!」
決意を新たにした顔で返事する料理担当を見て、キルティさまは引きつり笑いを浮かべます。
他の人では魅力的に映らないはずの笑顔ですが、なんと愛らしいことか。
思わずうっとりとしていると、キルティさまが食堂を出ようと、こちらに近寄ってきます。
わたくしは使用人らしい表情に整えて、食堂の扉を開けます。
そしてキルティさまが通り過ぎたら、影のように静かに後ろに付き従います。
キルティさまも慣れたもので、こちらに顔を向けずに確認事項を聞いてきます。
「この後、執務の時間だけど。なにか、緊急の案件はある?」
「やはり、川下の砦に駐留する人の選定が、問題になっています」
「今は、トランジェさまが授けた戦う力を持つ人が、防衛に当たっているんだよね?」
「その通りでございます。ですが、元は別の職を持つ者たちです。砦の防衛ばかりはしていられません。それに、配偶者から非難が届いています」
「非難? この里ではあまり聞かない言葉だね」
ジャッコウの里の者たちはのんびり屋な獣人ばかりなので、非難や批判をすることが少ないのですよね。
でもキルティさま、そう嬉しそうにしないでくださいませ。
「彼の者たちが言うには、愛する者との時間が減って、夜が寂しい。早く砦から戻してください。とのことです」
「あちゃー。そうだよね。愛する人と離れ離れは、悲しいよね」
キルティさまは強く理解を示してくださいました。
恐らくその胸の内には、あの笑みがうさんくさい、大恩ある神官が現れていることでしょう。
キルティさまは執務室に入り、席に着くや否や、腕組みして考え始めました。
「要望を聞き入れて、いま砦に居る人を戻すことにするとして。今度は誰を砦に入れるかが問題になるよね」
「勝手に選定しても、同じ非難がやってくることでしょう」
「そうなんだよね。いっそのこと、家族ごと引っ越してもらえたら楽なんだけどね」
「里の民の多くは、畑を持っていたり、町に仕事場を設けているものばかりです。畑や仕事場を投げ出して行くことに、賛成はしないと思われます」
「それは分かっているよ。だから、いい手がないかなって、考えているんじゃないか」
唇を尖らせ、ムスッとした顔になってしまわれました。
しかしながら、そのお顔も素晴らしく愛らしいです。
わたくしが内心を出さないよう黙っていると、キルティさまは突如閃いた顔をなされました。
「そうだ。川が仕事場の漁師に、砦に住んでもらえばいいんだ。砦の中は広いし、魚の加工場も兼用すれば、場所の無駄にならなくて済む!」
いい考えだと自画自賛し、キルティさまは紙にペンを向けます。
しかし紙にインクが垂れる前に、わたくしは待ったをかけさせていただきました。
「里長さま。その思い付きは素晴らしいとは思いますが、紙一つで済ませられるほど、簡単なものではございませんよ」
「うっ……。そ、それもそうだね。でもほら、思い付きを忘れてしまわないように、書いておかないといけないよね」
「それはご自由になさいませ。ですが、漁師と話をつけには行ってもらいますので」
「うへぇ~、やっぱりそうだよね。うーん、執務後の散歩のときに、会って話すとするよ」
気勢がそがれた様子で、キルティさまはノロノロと紙に字を書いていきます。
書き終わりペンを置こうとしたときを狙ったように、紙束を持った報告担当の使用人が現れました。
「失礼いたします。里長さま、本日に決済を頂きたい書類を、お持ちいたしました」
「ご苦労様。いつも通りに、一つずつ見て、疑問な点があったら質問するから、よろしくね」
「はい、よろしくお願いいたします!」
この使用人の目があるうちは、キルティさまは仕事をさぼったりしない。
なにせ彼女は、だらけることは好きでも、人に迷惑をかけたいとは欠片も思っていない性格をしていらっしゃるのだから。
きっと、動けないときに、使用人一同に世話になりっぱなしだった反動に違いない。
その性格も、成長の結果得た物だと思えば、やはり微笑ましく思えてきます。
けれど、この場にわたくしがいても無意味なので、屋敷の掃除や洗濯物を手伝いに向かうとしましょう。
この後の里長さまのご予定は、執務の後に、少し早い昼食を食べ、体型維持のために町に散歩に出かけます。
終われば、午前中に上がった報告を元に、午後の執務、夕食。
その後、部屋であの方を思って一人でご自身を慰め、お風呂で身綺麗にして、香油で身を整えて、就寝となります。
その一連の行動を補助できるよう、わたくしは仕事を大急ぎで片づけるべく、心身に力を入れて職務に挑むことにいたしましょう。




