百二十三話 逃走とは、多難な行為に他なりません
小デブ馬鹿と取り巻きたちをこの陣地から逃がすために、俺一人でちょこちょこと小細工をしてまわった。
彼らを逃がす準備が終わったのは、すっかり夜になった頃だった。
俺は一人だけで、小デブ馬鹿たちが入っているテントに向かう。
道すがら、何人もの見張りと巡回とすれ違う。
マニワエドが総大将代理になったことで、陣地内の規律が正されて、兵士たちの動きが変わった。
だからこそ、小細工をするのに、こんなに時間がかかったわけだけどね。
小デブ馬鹿たちのテントの前にも、常時三人の兵士が見張りとして立っている。
俺は兵士たちに会釈して、テントの中に入った。
「こんばんは。お加減はいかがでしょうか?」
挨拶の言葉を放ちながら、小デブ馬鹿たちを観察する。
彼らは俺を見ると、こそこそと内緒話を始めた。
「こいつだよな」とか「間違いないはず」なんて言葉が、漏れ聞こえてくる。
どうやら、彼らが運動のためにテントを出されている間にで、こっそりとテント内の片隅に置いた、俺が脱出計画を記した手紙を読んでくれたようだ。
もちろん、手紙の差出人として、俺の名前なんて書いていない。
ただ、森の中で貴方に助けられた兵士、って書いておいた。
さてさて、そんな怪しげな手紙の内容を、彼らは信じる気になっただろうか。
その結果は、彼らが次に発する言葉でわかるようになっている。
「……体は健康だ。ただ、用を足しに行きたい。兵士にそのことを伝えてほしい」
それぐらい、自分で言えよって内容だ。
けどこれが、俺が手紙で支持したこと。
手紙を信じて陣地から脱出したいなら、テントに一人だけでくる黒いローブをきた神官に、そう言えと書いておいたのだ。
なので、俺はもちろん了承する。
「分かりました。では、兵士の方にそうお伝えしましょう」
俺はテントの見張りに伝言すると、面倒くさそうな顔で、トイレまで案内する役目を引き受けてくれた。
ただ、小デブ馬鹿と取り巻きたち全員が、一緒に行こうとすることに、面食らったようだ。
「ちょ、ちょっと、待っててくれ。その者たちがテントを離れるときは、かならず離れる人数以上の兵士が、同行しなければならないことになっているんだ」
見張りの兵士が一人、応援を呼びに走っていった。
俺と小デブ馬鹿の一行は、彼が帰ってくるまで、待たされることになる。
そのとき、小デブ馬鹿が俺に小声をかけてきた。
「おい。貴様も、行くのか?」
どうとでも取れることばだけど、その意味合いは『俺も一緒に脱出するのか?』だろうな。
もっと言えば、脱出計画に俺も噛んでいるのかって、疑っているんだろう。
用意ができた合図に、何も知らない人のいい神官を騙して使いに出すって、手紙に書いてあったはずなんだけどなぁ。
「いえ。私は貴方たちの様子を見に行ってくれと頼まれただけで、厠になんて同行しませんよ」
とぼけると、小デブ馬鹿はもう一つ質問をしてきた。
「誰に頼まれたのだ。特徴は?」
「はぁ。普通の兵士さんでしたけど?」
兵士の顔なんて、特に覚えていないと返すと、小デブ馬鹿はだまり込んでしまった。
恐らく、これ以上変な質問をすると、何も知らない神官(俺)が怪しみかねないと、その無い頭でも分かったんだろう。
その思惑に乗ってやる気で、俺は不可思議そうに小首を傾げ、その疑問を棚上げしたような表情で、兵士が戻ってくるのを待った。
それから一・二分後、走っていった兵士が、五人の兵士を応援に連れて戻ってきた。
「お待たせした。そちらの神官さまも、同行なさいますので?」
「いえ。彼らは軟禁されていても元気なようなので、私は用なしでしょう。ここで退散しますね」
俺がテントから離れようとすると、見張りの一人がついてくる。
どういうことかと首を傾げると、苦笑いが返ってきた。
「マニワエドさんの指令でして。どんな人であっても、彼らと接触した人には、監視がつくことになってます」
「ははぁ。律儀で丁寧なことですね」
「オレたちも、ちょっと気にし過ぎだと思っているんですよ。まあ、神官さまは一言二言しか話してませんし、彼らに手を触れてもいませんからね。すぐ監視は解けるでしょうね」
「あはははっ。そう願いたいものです」
笑顔で返しながら、マニワエドがかなり警戒していることに、ちょっとだけ驚いていた。
俺の行動を怪しんでというわけではないだろうけど、小デブ馬鹿一行に味方する人を警戒している感じはある。
陣地内の様子をほぼすべて聞いているはずの、エヴァレットとスカリシアからの報告には、こんな話はなかったのに。
たぶんだけどマニワエドは、小デブ馬鹿一行をどう見張るかの内容を、俺たちにも内緒にするべく、色々と手を講じていたんだろうな。
となると、俺が講じた小細工のいくつかを、潰されているかもしれない。
うむむっ。段々と心配になってきた。
小デブ馬鹿一行の様子を見に行こうかと考え始めたとき、それほど遠くない場所から怒声が響いてきた。
「離れろ! こいつの命が、どうなってもいいのか!!」
「神の力で癒すとて、即死しては生き返らせることはできないぞ!」
声から、小デブ馬鹿一行が、俺の立てた作戦通りに行動を始めたと分かった。
バタバタと陣地内が慌ただしくなる中、俺に近づいてくる人影が現れる。
エヴァレットとピンスレットだ。
「トランジェさま。ご無事ですか?」
「ご主人さま。お怪我などしてませんか?」
慌てた様子で近づく二人に、俺は微笑みを向ける。
「いえ、大丈夫ですよ。エヴァレット、他のみんなの安否は分かりますか?」
「少々お待ちを――スカリシアが全員の無事と確認しました」
「それにしても、ご主人さま。これ、何の騒ぎですか?」
「どうやら、元・総大将が暴れているようですね」
二人と受け答えしていると、小デブ馬鹿と対応する兵士たちの大声がやってきた。
「道を開けろ! 素直に通せば、この兵士を殺すことはないと約束しよう! だが、邪魔をすれば、喉を掻っ切って殺す!」
「くっ、身体検査は常にしていたのに、どうして武器を持っているんだ。ええい、近づくな、道を開けてやれ!」
兵士が慌てているようすからすると――俺が物陰に隠した武器を、ちゃんと見つけられたようだな。
その調子で、逃走経路上に隠し置いた物資も確保して、無事にこの陣地から逃げてほしいものだ。
もっとも、彼らに与える物資というのは、水筒に入れたブドウ酒、塩気が強く板のように硬い干し肉、麦の粉が入った小さな袋となっている。
酒と塩気は喉を渇かせる働きがあり、麦粉は水で練った上で焼かないと意味がない。
つまり、渇きと飢えを増長させるものしか、入れてないわけだ。
そして死ぬ予定の相手に上げるのはもったいないので、急いで集めたという体で不自然に思われない程度に、量を減らしてある。
そんな使えない物資を抱えて、小デブ馬鹿たちは夜闇に紛れて、陣地から逃げるわけだ。
「さらばだ、諸君! 我々に対する無礼の数々を糾弾する、裁きの間で再び会おうではないか!」
「おっと、近づくな! そして一歩も陣地の外に出るな! 我々が安全に逃げるまで、この兵士には盾になってもらう」
小デブ馬鹿一行は指示通りに、マニワエドが陣頭指揮を執る前に手早く移動して、何人かの兵士を盾にしながら、草むらの中に入った。
ああやって、夜の草むらの中に入ってしまえば、懐中電灯なんてないこの世界で、人を見つけるのは難しくなる。
そして、ある時点で人質を放す。
すると、人質が逃げる動きでかく乱されて、草むらの動きや音から、小デブ馬鹿一行がどこにいるのかの予想がつけにくくなる。
それは仮に、マニワエドがエヴァレットやスカリシアに助力を頼もうと、音による発見を遅らせる効果が期待できる。
うんうん。我ながら、よくできた逃走手段だ。
もっとも、陣地の外に出ることだけを主眼にして、聖都ジャイティスまで落ち延びるようには作っていないんだけどね。
さてさて、逃走する小デブ馬鹿一行を見失った頃に、ようやくやってきたマニワエドが状況の把握に努め始めたようだ。
「あいつらが陣地の外まで逃げただって!? しかも、陣地内の物資を持ち逃げしただと! 誰かが手引きした様子はなかったのか!?」
「いえ。テントに近づく人は、ほとんどいませんでした。食事を入れる人、トイレに付き添う人、様子を確認する人、それぞれ大して喋っていないので、その誰かが手引きしたとは……」
「なら、兵の反乱を想定した逃走経路を確保していたのか? あの総大将がか?!」
マニワエドは信じられないという口ぶりで叫んだが、すぐに気を取り直した様子だった。
「くっ。逃がしてしまった事実は変えようがない。徒歩で逃げたんだな? そして物資も何袋か持って行っただけだな?」
「はっ! その通りです!」
「なら、近隣の村に触れを出すぞ! 人相を伝えて、見かけたら連絡をくれるようにと! それと、聖都に向かう部隊は、明日出発とする。逃走者たちより先に、聖都まで到着し、元・総大将が陣地から勝手に逃走したと報告するんだ!」
マニワエドは逃走者に対し、的確な手を打っていく。
お触れが伝わり切れば、小デブ馬鹿一行は村の中に入れなくなり、あの物資だけで聖都まで向かわないといけなくなる。
でも、かといって彼らを見かけた村人が、前線陣地まで知らせにくるってことは、あまり期待できない。
なにせ、遠征軍は村の食料を奪っていった、好まざる相手だ。
そして、この世界には電話やメールみたいな、手軽な連絡手段はない。
だから、金銭や物品を報告者に与える条件をだすのならまだしも、吊るされた餌がない状態だと、村人たちは通報なんてしにこないだろうな。
そんな風に状況を読んでいると、エヴァレットとピンスレットに突かれた。
目を向けると、俺の仕業だと感づいたような目をしている。
どうしてわかったんだろうと思いながら、二人には黙っていてもらおうと、彼女たちの頭を撫でてご機嫌を取ることにしたのだった。




