愛を交わす
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冬でも喉が渇く。というよりも、返って冬場の方が空気が乾燥していて、喉の渇きを覚えるのだ。ベッドサイドのテーブルに水の入ったペットボトルを一本置いていた。夜眠る前などに一口飲むのである。加湿器は一応付けているのだけれど、実質そんなに効果があるわけじゃない。
その夜も夫の孝志と同じベッドの上で寄り添っていると、彼が、
「実里、今夜もエッチしようよ」
と言ってきた。
「……ええ」
幾分躊躇いがちに答えたのだけれど、やる気はある。夫も普段どんなに仕事で疲れていても、必ず夕食時には帰宅し、一緒に食事を取るのだ。このところ、カレーやシチューなど体が温まるものを作って待っていた。孝志は残業があっても午後九時前には帰宅する。体内時計に狂いがないのだった。正確に決まった時間に出勤し、ちゃんと仕事をこなしてから家に帰ってくる。その繰り返しだった。
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いつも思うのだ。住んでいるマンションでも隣近所の主婦たちが話すのを。噂話が好きなのだろう。別に相手にはしないのだけれど、よく話すわねと思ってしまう。
「山方さんのお宅は、お付き合い悪いわね」などと平気な顔で言われたことがある。だけど、別に気に掛けてなかった。昔ながらの有閑マダムの井戸端会議的なものに参加したくはないのだ。いくら何を言われようとも。逆に言い返したこともあった。「何を仰りたいのですか?別に関係ないでしょ」と。
一年に一度、マンションの大家さんを交えて自治会があるのだけれど、参加しないところもあった。あたしもそういった人間の一人である。自治会などあっても、ないに等しい。ちゃんとセキュリティー対策がなされていて、別にそういった会合など、単に形式的なものだからだ。
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孝志とは二十代で恋愛結婚して、もう十年ほどになる。子供はまだ出来なかったのだけれど、別にいいと思っていた。夫婦二人で過ごすのも悪くないと感じている。子供がいたらいたで、子育てなどで何かと忙しくなるからだ。そう思っていた。
夜はいつも午前零時ぐらいまで起きていて、夫は愚痴などを漏らす。出世が早くて課長代理職なのだけれど、職場ではいろいろあるらしい。特に人間関係のトラブルなど、相当あるものと思われた。常に課長の代理人として、付き添っているからだ。
その日も先に入浴を済ませてから、ベッドの上で性交した後、お互い話をし始めた。孝志が、
「俺も疲れてるんだよな。仕事きついし」
と言って、軽く髪を掻き揚げる。
「どんな感じで仕事してるの?」
「ずっとパソコンに向かってるよ。キーの叩き過ぎで腱鞘炎になっちゃってるし」
「確か、あなた、企画課の課長代理よね?」
「ああ。課長からはいろいろ言われるし、部下たちからは突き上げられるしで、きついよ」
「大丈夫?」
「最近、胃が痛くてね。ストレス溜まってるんだ」
「あたしが聞くことで癒される?」
「うん。君が聞いてくれれば、それに越したことはないよ」
「そう?ならいいけど」
頷き、ベッドの上に横たわったまま、軽く息をつく。そしてゆっくりし続けた。気を抜いて、だ。
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「君、普段家事やってて疲れない?」
布団の中にいると、そう訊かれたので、
「まあ、多少はね。お昼の二時から二時間ドラマ、欠かさず見るし」
と言った。幾分冷えたので、エアコンのリモコンを手に取り、暖房の温度を二度ほど上げて、また布団に潜り込む。夫も頷き、
「何かあったら、遠慮なしに言ってくれよ。お互い夜はこんな会話が楽しいし」
と言って、そのまま眠りに就いた。あたしも眠る。幾分倦怠があったので、すぐに寝入ってしまった。お互い一日は疲れるのだ。性交した後で興奮は覚めなかったのだけれど、夜間は睡眠時間に充てている。毛布に包まり眠った。アラームを午前七時にセットしていたので、それで起きるつもりだ。
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翌朝、目が覚めると、先に孝志が起きていて、キッチンでコーヒーを淹れていた。遅れて起き出し、
「ああ、ごめん。あたしの方が遅れちゃって」
と言って、すぐに食事の準備をし始める。夫が、
「大丈夫?眠くないの?」
と訊いてきたので、
「ちょっと眠たいけど、コーヒー一杯飲めば目が覚めるわよ」
と言った。
「俺なんか、別に朝抜きでもいいんだよ。一食ぐらい食べなくても死ぬわけじゃないし」
「ちゃんと朝食べないと、頭働かないわよ。作ってあげるから待ってて」
「ああ、分かった」
夫はそう言ってコーヒーのカップを持ったまま、リビングへと歩き出す。そしてスマホを取り出し、電源を入れてネットに繋いだ。ニュースなどを見始める。あたしの方は食事の準備をし出した。準備と言っても、単にトーストを焼き、スクランブルエッグと野菜サラダを用意してテーブルに並べるだけだ。そして揃って食べ始める。
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「食卓囲めるのって幸せね」
「ああ。……でも俺、今日も通常通り仕事あるし」
「あまり無理しないでね。どうしても、孝志って根詰めそうなところあるから」
「大丈夫だよ。俺だって一日中フロアに詰めてても、気を抜く時間あるし」
「カフェとか?」
「うん。社のすぐ向かいに個人でやってる喫茶店があって、そこ、たった五百円払っておけばコーヒー飲み放題だし。いつも午後三時になったらそこに行って、タブレット端末で電子書籍読んでるよ」
「そう?あなたもあなたなりに、リラックスする時間あるのね?」
「ああ。働き盛りのサラリーマンだと、普通は弱音吐くけど、俺は君にしか愚痴言わないからね」
「まあ、それならそれでいいけど……」
言葉尻に含みを残しながら言った。夫はトーストを齧った後、サラダとスクランブルエッグをコーヒーで流し込んでカバンを手に取る。そして立ち上がり、歩き出した。今日も課長代理として、上からと下からのサンドイッチ状態のまま、会社に出勤するのだ。抵抗があるだろう。だけど夫がいない間にあたしも家事をする。掃除、洗濯、炊事……、やることは山ほどあるのだ。
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玄関口で夫を見送った後、掃除し始める。掃除機を掛けて、室内を綺麗にするのだ。慣れていた。いつもやっていることである。洗濯物も乾燥機で乾かし、収納ボックスに収納しておく。何かと忙しいのだけれど、あたしも思う。孝志が笑顔でいられるからこそ、自分も幸せなのだと。確かに夫が稼いでくるお金はそう多くない。でもそれでもいいのだった。夫婦間に十分愛情があるので。
その日もお昼を取った後、午後二時からサスペンスを見始める。いつも見ているのだから、すっかり定番だ。別にそれでもいいのだった。楽しめるという一点に尽きるのだし……。それに終われば、夕食の支度をしないといけないのだから……。
(了)