人工精霊 タルパ
2013年03月09日(土)晴れ
布団にしばらく包まって震えていたら、ボクはその布団が臭いことに気がついた。
思い返せば、去年の春のことだった。母が最後に布団を洗ってくれたのは。
どうして今まで気がつかなかったのだろう。寝るときに感じていたあの重圧は、毎晩の悪夢は、すべて布団のせいだったのだ!
シーツ、掛け布団、毛布――、数え上げれば切りがないボクの布団たちは、一年間、ずっと洗濯の日を待ちわびていたに違いない。ボクは危うく、内定よりも大切な何かを忘れるところだった。
とはいえ、洗濯は初めての体験だ。今までは、母がやってくれていたからだ。母は最近、ノイローゼ気味で、ボクの布団のことを考える余裕がないようだった。何か悩み事でもあるのだろうか。
ボクは、洗濯機のなかにシーツと、毛布と、枕カバーと、その他もろもろを入れ、粉末洗剤をひとつかみ入れ、洗濯機の『倍速モード』というスイッチを押した。なんとなく格好良かったからで、深い意味はない。
布団をたらふく詰め込んだ洗濯機は、ドシンドシンと凄まじい振動をして、頑張って洗濯をしてくれた。驚くべきことに、洗濯は15分で完了し(さすが倍速モードだ)ボクは布団たちをベランダの物干し竿に掛け、清々しい気分になった。なんだか海外ボランティアのような素晴らしいことをした気分になった。
生まれて初めての"洗濯"を体験し、感動したボクは、将来は洗濯屋さんになろうと心に決めた。
さて、今日の成果は以上の通りだが、そろそろ本題に入らなくてはいけない。江安恒一についてだ。彼について、話せば少し長くなる。
あなたは、『人工精霊タルパ』をご存知であろうか。人工精霊タルパとは、ごく一部の聖人のみが知るチベット密教の奥儀である。そんなものをどうしてボクが知っているのかといえば、『タルパを本気で作ろうと思っている』というタイトルのウェブサイト(Wiki)があって、そこにタルパの説明やタルパの作り方が書いてあるからだ。チベットの極秘奥儀でさえ、グーグル先生の敵ではない。
タルパとは簡単に言えば、エア友だちの強化版である。イマジナリーフレンド、架空の友だち、脳内友だち、他にもいろいろ呼び方はあるだろう。つまり、妄想の一種である。
江安恒一は言ってみれば、ボクの作り出したタルパだ。
なあんだ、と思われるかもしれないが、まずはボクの話を聞いて欲しい。タルパは、そんな気軽に扱える類の話題ではない。一歩間違えれば、術者を死に貶めるほどの、危険な"オカルト"なのだ。
ボクは中学生の頃、友だちがいなかった。「いなかった」と言えばまるで過去のことのようだが、なんと今でもいない。その頃も、休み時間になるといつも図書館で本を読んでいる暗い子だった。
ある日、「あきらめては駄目だ! やればできる!」がメッセージのむさ苦しい自己啓発書籍に出会った。当時のボクは、多いに感化されて、「そうだ、友だちがいなければ、作ればいいんだ!」と気がついた。
家に帰るとさっそく、Yahoo検索エンジンで「友だちの作り方」を調べた。そのときに知ったのが、人工精霊タルパだった。
タルパ(仮想友人)を作るために、ボクはタルパ専用のノートを作り、そこに希望する友人の名前や性格、口調、容姿などを詳細に書いていった。小説でいう登場人物設定のためのノートとほぼ同じだ。当時は思春期だったから、タルパは同年代の女の子に設定した。スタイルはなぜか猫耳メイド姿だ。
タルパ第一号、"ハルナ"の誕生である。
正確には、ハルナをタルパとして完成させるのに、半年以上の時間を要した。秘密奥儀とだけあって、いろいろと準備が大変なのだ。
以下に、タルパの作り方を記しておいたので、くれぐれも試さないで欲しい。
タルパ作りに興味のない方は、読み飛ばしていただいてもOKだ。
【タルパの作り方】
1.キャラ設定
ノートを用意し、タルパの名前、年齢、性格等の情報を綿密に設定する。頭のなかにタルパの髪の毛一本一本までが鮮明に思い浮かぶくらいに、細部に至るまで想像し創作する。
2.会話練習
キャラ設定に成功したら、タルパとの会話をシュミレーションしてみよう。最初は簡単な挨拶でよい。「おはよう」と挨拶したら、タルパの声で「おはよう」と返ってくる、そんなイメージから始める。
「ハルナ、おはよう。今日はいい天気だね」「そうですわね。ご主人様」「今日はどこへ行きたい?」「遊園地に行きたいですわ」
こんな感じの会話をひとりで延々と続ける。やがて自然にタルパと会話できるようになる。もちろん、実際に口に出して話したら変人だと思われるので、脳内会話で構わない。最終的にはイメージをするまでもなく、タルパが勝手に話しかけてくれるだろう。これを『会話のオート化』という。
3.視覚化
会話のオート化だけでは、ただのエア友達と大差ない。タルパでは、脳内に作り出したエア友達を現実世界に投影する。つまり、幻覚と幻聴を作り出すのだ。視覚化には相当のトレーニングを要する。
オレンジカードと呼ばれるカードで補色残像を見る練習をしたり、催眠音声を聞いてトランス状態に入り目を開けたままの瞑想を行ったり、自律訓練法という呼吸法で集中力を高めたり、そういった修行の末、ようやく幻覚を自在にコントロールできるようになる。
ここまでできると、タルパはもうあなたの目の前に立ち、生き生きとした笑顔で話し始めるであろう。本気で努力すれば半年で会得できるので、頑張って欲しい。
もっとも、この努力を現実の友達作りに注いでいたならば、ボクの人生は変わっていたのかもしれない。
(了)
結論から述べると、ハルナは失敗だった。女性に対する知識が欠けていたせいか、ハルナはどこかわざとらしく、作り物めいていて、ロボットみたいで、嫌になってしまったのだ。
ハルナは、ボクの意見に絶対に反対しなかった。
「あー、宿題面倒だなあ。明日でいいかな」
「そうですよ、ご主人様。勉強よりも、もっと楽しいことをいたしましょう」
「クラスのみんなと仲良くできるように頑張らないとな。でも、つらいなあ」
「何を言っているんですか。ご主人様には私がいますよ。それで十分、ご主人様は幸せになられます」
こんな感じでハルナは、ボクを甘やかし、堕落させていった。
中学三年生になり高校受験が迫ったとき、さすがにこのままではいけないと思い、ボクは泣く泣くハルナを封印した。
ハルナは二、三の恨み言を呻いて、タルパノートのなかに消えていった。ハルナのキャラ設定を書き記していたノートは、燃えるゴミに捨てた。
これがボクの最初の、タルパ体験である。江安恒一の話に繋がるのは、もう少し先になるだろう。今日は江安くんが現れなかったので、もしかすると昨日のはボクの勘違いだったかもしれない。
彼の影に怯えながらも、ここで一旦筆を置くことにしよう。
(続く)