マリー、メリー、ズニー、そしてリリー
2013年03月21日(木)晴れ
目が覚めたとき、私はからだがベッドに沈むのを奇妙な感覚として捉えた。重い。生きるって重いんだなあ、と思った。仰向けのまま、自分のてのひらをぼんやりと見る。紛れもなく私だった。現実世界に戻ってきたことを実感する。
お布団があたたかかったので、目覚まし時計が鳴るまで眠っていようと目を閉じて、ふたたび夢のセカイへまどろみかけていたところを「起きるんだ!」といきなり声をかけられて、驚きのあまり心臓が止まるかと思った。
「目覚まし時計は鳴らないよ。五条が電池を抜いたからね」
飛び起きて、声のした方向に目を凝らす。するとベージュの壁から、長身の男の姿が浮かび上がってきた。男はねずみ色のロングコートを着ていて、私と目を合わすと「やあ」といたずらっぽく微笑みかけた。
「はじめまして、僕は江安恒一。話に聞いていると思うが、僕は五条ダンの友人でありタルパだ。君をサポートするよう彼から依頼された。まあ、お互い仲良くやっていこう。よろしく頼むよ」
私は返事をしようとして、喉から言葉が出てこないのに気がつき、だから俯いたまま黙っていた。人工精霊タルパは知識としては知っていた。でも自分の作り出した妄想といえど、こんな幽霊みたいな幻覚を見るのは気味が悪かったし、やはり私は精神科医に診てもらってお薬を飲まなければと思った。
「やれやれ、まだ寝ぼけているようだね。仕方ない……目を覚まさせてやるか」
江安はそう言って、ノートパソコンの電源を入れた。いや、『ボタンを私に押させた』と表現するのが正しかった。タルパは物理的に物体に触れることができないのだから。
江安は証券口座を確認してみるよう、指示をした。言われるままに、お気に入りタブからSBI証券にアクセスし、パスワードを入力しマイページの画面を開いた。
よくわからない、青い数字がたくさん並んでいる。『評価損・決済損益・支払諸経費等合計』の欄には、『-1,104,127』と表記されており、これが最も桁の大きい数字だった。この数値は何を示しているのだろう。
「ああ、ざっくり説明すれば、株式投資で110万円ほど損失を出したってことさ。ははは、あいつのことだ、空売りで一攫千金でも狙ったのだろう。馬鹿な奴め、さてはキプロスショックを過大評価していたな」
江安は愉快そうに笑った。
私は意識が遠のくのを感じた。一刻も早く病院に行って、お医者さんから睡眠薬をたくさん貰ってこようと思った。現実は怖い、ずっと夢のセカイにこもっていればよかった。
「損失を確定しておいた方がいいな。返済買いの注文を出しておこう。ああ、成行でいいから」
よくわからないまま、江安に教えられたとおりに、返済買いの注文を入れた。
「これで9時にはすべて清算できるよ。いや、君は何も心配することはない。あいつは12月の相場で120万円儲けていたんだ。手数料、税込みでちょうどプラマイゼロさ。まあ、ギャンブルはこんなものだよ。勝っているときに身を引けない者は、最後に大損をして退場することになる。デイトレーダーの9割が敗者であると云われる所以はそこにある」
彼の言葉に耳を傾けるほど、私に余裕はなかった。チャイルドラインフリーダイヤルに電話をかけて相談しなきゃ。たしか小学校で配られた名刺が引き出しにあるはず。
学習机の引き出しを開ける。中から分厚い茶封筒を取り出した。
そうだ、思い出した。この茶封筒には、今では潰れてしまった琵琶湖わんわん王国や、エキスポランドのパンフレット、大切な思い出の品が入っているのだ。昔の宝物を眺めて、心を落ち着かせよう。
「あ、それはやめた方が……」 江安が言いかける。でも遅すぎた。
声が出るなら、きゃあと悲鳴をあげたいところだった。
中から出てきたのは、ナメクジをアップで写した大量のポストカードだった。葉っぱに乗ったナメクジ、真っ赤なトマトに筋をつけて這うナメクジ、手の甲で触覚を伸ばすナメクジ、ナメクジ、ナメクジだらけだった。
眩暈がして、その場に座り込んでしまった。机から茶封筒が落ち、部屋一面にナメクジの写真が散らばった。何枚かの写真にある『ナメクジを乗せる手』には見覚えがあった。それは間違いなく私の手だった。
「ああ、捨てないでくれよ。五条が4年かけて蒐集したナメクジの写真集でね、彼にとっての大切な宝物なんだ。ほら、この茶色の筋のがマリーで、こげ茶で小さいのがメリーだよ。あいつが特に気に入ってたのが、このまんまるとふくらんだ体型のズニーで、そのとなりにいるのが……」
「い、いやだ…嫌だ嫌だ。ナメクジの話なんて聞きたくない。もう……、どっかいってよ……」
頭を抱え込む。私が意識の外へ行っていた間、ダンくんは好き放題やってくれていたみたいだ。先日の雨のなか、彼の言っていた台詞がこだまする。
『ふふ、ははははは、誤解してもらっては困るな。ボクはこれでも、楽しかったよ。君の人生を生きるのは、とっても愉快だった』
私は完全に、五条ダンを誤解していた。
「ねえ、私って、周りからどう思われていたの」
「そうだな、五条自身は積極的に人間関係は作らなかったが……、世間一般の認識では、君はナメクジの写真を眺めて笑顔になる女の子だったよ」
「この、写真……、手のうえに、ナメ……ナメク……」
「ああ、リリーじゃないか。君、いや五条が手塩にかけて育てたナメクジだよ。もちろん降り注いだのは塩じゃなくて愛だけどね。五条はナメクジとキスまでしようと考えていたが、さすがにそれはナメクジが気の毒だったので僕がやめさせたよ」
「あ……うう……」
私はショックで、その場に倒れこんだ。
(続く)




