第三章 編入生と切り裂き魔(後編)
静まり返った道場の中心には、袴姿の初音が座していた。
何の変哲もない道場であるにも拘らず、彼女が座するだけ空気が一瞬にして変わっていた。息を吐くことさえ許されぬような厳格な空気に包まれ、道場内は張り詰めた緊張感に満ちた。
俺は初音から目を離せなかった。
極限の緊張感の中、初音だけは落ち着き払っていた。彼女だけがこの厳格な場所に居ることを許されているようで、絶対的な存在感を醸し出していた。今、俺の目の前に居る彼女には普段のお調子者な様子は一切なく、言うなれば一人の剣客にしか見えなかった。
一閃。
まさに目にも留まらぬ早業だった。初音が抜刀したことに気付いたのは、彼女が刀を返し、納刀しようとしたその時だった。抜刀したことにすら気付かせぬ、鮮やか過ぎる剣技。
チン、と小さく鳴った納刀の音で、その場の緊張感が一気に解放された。
「凄いです凄いです、初音ちゃん! こんなに綺麗な抜刀、なかなか見られるものじゃないですよ!」
「ふふん。そうでしょそうでしょ」
逢瀬は無邪気な子供のようにはしゃいでいた。
……確か、逢瀬の方が先輩だったよな? 悪いが、とてもそう見えないぞ、逢瀬……。
「人間、一つくらい取り得があるもんだなぁ。初音にさえあるんだから……」
「慎さん、刀の錆になってみますか?」
笑顔で剣先を俺の喉元に突きつけてくる初音。またも抜刀の瞬間を見逃していた。
「冗談です。許してください、初音様」
「全く、失礼ですよ! っていうか、どこから沸いて出てきたんですか?」
「お前な、彼氏を虫みたいに言うなよ」
「ぶっちゃけ、鍛錬の時は邪魔です」
「こ、この小娘が……」
ぶっちゃけ過ぎだ……。人がせっかく部活動に励んでいる彼女を見に来てやったってのに、この扱いは何だってんだ?
「まぁまぁ、初音ちゃんは慎君が居ると気になっちゃって、鍛錬にならないんですよ」
「お、逢瀬先輩!?」
初音は顔を真っ赤にして、天然少女の口を塞いだ。しかし、今更彼女の口を塞いだところで零れた言葉はしっかりと俺の耳に届いた。
初音も可愛いところがあるじゃないか……。
俺は何だか嬉しくなって、初音の頭をわしゃわしゃと乱暴に撫でた。マイラと付き合っていた時はあまり彼女を撫でたりはしなかったが、初音に対してはこうして撫でることが多かった。
「あう……」
「初音ちゃん、幸せそうです。羨ましいです」
顔を赤らめて幸せそうにする初音。その隣で、満面の笑みで俺達を見守る逢瀬。
「そんなに羨ましいなら、お前も撫でてやろうか、逢瀬?」
「そういうことは彼女さんだけにしないと。ほら、初音ちゃんが拗ねてますよ」
逢瀬に指摘され、視線を初音に戻すと、刀身が俺の首筋に置かれていた。俺は慌てて後退り、嫉妬の刃から逃れた。
それにしても、何の躊躇いもなく彼氏の首に刀を押し当てるとは、恐ろしい女だ。
「お、お前な! さっきから俺を殺す気なのか!」
「この刀は刃引きしてますので、安心して斬られてください」
「馬鹿言うな! だ、誰が好きこのんで斬られたりするか! って、おわッ!?」
一片の躊躇もなく斬りかかってくる初音。いくら刃引きされているとはいえ、彼氏相手に真剣で斬りかかるのは問題あると思うぞ。
彼女選び、間違ったかな……。
うおっ、危ねぇ!? 今、本気で喉狙われたぞッ!? ま、まさか、今の俺の心を読んだとか……。いや、まさか、なぁ……。
俺はしばらく不機嫌な初音に追い回され、彼女の鬱憤晴らしに付き合わされることとなった。際どい一撃は何度もあったが、初音の刀は一度も当たらなかった。一応、手加減はされていたようだが、それでも彼氏相手に真剣振りかざすのは本当に止めて欲しい。
「……楽しかったか、慎?」
「はぁ、はぁ……。仁、見てたなら助けろよ」
「……悪いが、道場の掃除やら備品の点検やらで忙しかった」
どうやら仁は、初音に使い走りにされているようだった。こいつも別の意味で、先輩には見えないな。
「別に今そんなことしなくたっていいだろう?」
「……いや、この道場は久し振りに開けられたからな。掃除が必要だ」
「久し振り?」
「この道場は元々居合い部の物だったんですけど、居合い部はここ数年、部員に恵まれなかったんです。それで、大分長いこと使われていなかったんです」
仁の代わりに、逢瀬が俺の疑問に答えてくれた。
逢瀬の手には、木刀二本をテープで繋げたやたら長い得物があった。しかも、その改造木刀には、三ヶ所ほど重りがつけられており、相当な重さだろう。小柄な彼女には分不相応なほど長く、重い得物だろう。
「逢瀬先輩、素振りは終わりました?」
「はい! バッチリ二百回やりました!」
あの木刀で素振り二百回とは、相当な力が必要だ。まさか小柄で非力そうな逢瀬に、そこまでできるとは驚きだった。
逢瀬の認識を少し改めた方がいいのかもな……。
「……芝崎。備品の刀だが、手入れが必要なものが多い」
「やっぱり、そうですか。……う~ん、それじゃあ、今日は備品の手入れをした方がいいですね。とりあえず、備品の手入れは私がやりますから、仁先輩は逢瀬先輩の相手をしていてください」
一番年下のはずの初音がテキパキと指示を出し、部をまとめていく。確かに経験者の意見は重要だろうが、仁や逢瀬はもう少ししっかりするべきだと思う。
「あっ、慎さん、どうせ暇なら、私の手伝いを……」
「……じゃあな。俺はどこかで昼寝してくるわ。部活が終わったら、メールしてくれ」
「あぁ~ん、慎さ~ん!!」
俺は面倒事を押し付けられる前に、道場を後にした。
全く、あの小娘は人が甘い顔を見せるとすぐ調子に乗りやがって……。
『……誰が助けてなんて言った?』
――てめぇ、人がせっかく助けてやったってのに、何つう言い草だッ!?
『私一人だけおめおめと生きてはいられないのよ……』
――はァ? 何言ってんだ、てめぇ?
『もう、邪魔しないで……。あの子の……、みんなの後を追わせて……』
――って、人が体張って助けてやったのに、また飛び降りようとすんな!
『邪魔をしないでって言ってるでしょ!』
――やかましい! 自殺なんて馬鹿な真似は止せ!
『って、何であんたまでフェンス乗り越えてくるのよッ!?』
――お前を止めるためにだよ!!
『……止めてよ。私は、もう生きる気力なんてないの……』
――うるせぇ! だからって軽々しく死のうとするな!
『……何も知らないくせに、勝手なことを……』
――あんたのことを知ってないと、あんたを止める資格はないのか?
『……そ、それは……』
――俺はあんたのことなんて何も知らない。まだ会ったばかりだからな。
『……そうね。私も、あんたのこと、何も知らない……』
――……俺も、前に死にたいって思うことがあった……。
『……そう、なんだ……』
――だけどさ、やっぱり怖くて死ぬこともできなかった……。
『情けないわね……』
――ムカつくが、否定できないな。だけど、多分、お前の言っているような怖さじゃねぇよ……。
『……どういうこと?』
――俺が死んだところで、あいつ等はきっと何とも思わない。わずらわしいガキが消えて清々するぐらいだろうな。結局、俺が死んでも、俺が生きていた証なんて何も残らない。一大決心で死んでみても、結局何も変わらないんだ……。
『……生きた、証。…………それって何よ……?』
――わからねぇよ。俺には、ないものだからな……。
『……そうね。私にも、それはない……。もう何も……』
――誰にしろ、死んだって何の意味はねぇ。だから、死ぬなんて止めろ……。
『でも……、独りは辛いよ……』
――だったら、俺がお前の側に居てやるよ……。
『えっ……? な、何言ってるのよ?』
――どうせ、俺も独りだ……。お前が寂しいなら一緒にいてやる……。
『……あんたって変な奴ね』
――うるせぇよ! ったく……。
『今の言葉、責任持てる? 嘘だったら、あんたを殺して私も死ぬわよ』
――ぶ、物騒な奴だな……。冗談に聞こえねぇぞ……。
『冗談じゃないもん……』
――わーったよ。ちゃんと責任持って、お前と一緒にいてやる。
『……うん、ありがと……』
――じゃあ、戻って、飯でも食おうぜ。
『うん! 行こ……、あっ……』
――ちょ、ちょっと、待ってって……、うわあああああああああッ!?
懐かしい夢を見た。
あれは、彼女と初めて出会った時の思い出だった。
今となってみれば笑い話だが、あの時俺はマイラの飛び降り自殺を止めるために飛び出し、説得できたというのに、最後にドジ踏んで一緒に高台から落ちてしまった。あの高台は相当な高さで落ちれば死は免れないと思った。しかし、気付いた時は俺もマイラも軽傷で済んだ。
あの日を境に、マイラは何かが吹っ切れたらしい。もう死のうとは思わなくなった代わりに、俺に付きまとうようになった。そして、いつしか俺達は想い合うようになり、付き合い出したのだ。
だが、それも全ては思い出。過ぎ去った日々の残照。
「……泣いているんですか、慎さん?」
「初音……」
瞼を開けると、そこには初音が居た。
彼女は悲しげな瞳で俺を見つめ、声なき想いを俺に訴えかけていた。
――私を見て……。もうあの人のことは思い出さないで……。
どれだけ偽ろうとも、初音にはわかってしまうのだろう。俺のマイラへの想い、いや、未練が……。だからこそ、彼女はいつも声なき想いを俺に訴えていた。そんな未練など全て断ち切ってくれ、と。
「部活、終わったのか?」
「はい、終わりました。逢瀬先輩も仁先輩も帰っちゃいました」
「そっか……」
俺はいつの間に流れていた涙を拭い、起き上がった。
大丈夫、俺はもう大丈夫だ。もう前に進める。初音と一緒に歩んで行ける。
「……慎さん、あの人の夢、見たんですか……?」
俺は初音の問いを無視して、思い切り体を伸ばした。そのまま枕にしていた鞄を手に取り、彼女に背を向けて立ち上がった。
「だっせぇな、俺……。未だに未練タラタラだよ……。お前を彼女にするって決めたのにな……」
「……慎さんは、そんなにもあの人のこと、愛していたんですか……? まだ、あの人のこと、忘れられませんか? 私が貴方の側にいるのに……」
「…………」
無言で頷く。
今更否定しても意味はないだろう。だが、初音としては、あまり気分のいい反応ではなかっただろうな。
初音は多分、マイラを憎んでいる。
俺とマイラが付き合い出すと言ったその時から、初音はマイラを憎み続けているんだと思う。理由は、今更言葉にするまでもないだろう。俺は初音の気持ちには気付いていた。しかし、それでもマイラを選んだ。だから、マイラは嫉妬され、憎悪の対象となった。
今、初音はどんな表情をしているのだろう。初音に背を向けている俺には、彼女の表情はわからない。だけど、これだけは感じる。マイラに対する憎悪を。
「……大丈夫だ。もう、全ては過去のことだ。もう忘れ……」
「嘘だ……」
背筋が凍るような冷たい声。
今の声は本当に初音の声だったのだろうか。そう疑いたくなるほど、今の声には冷たい怨嗟の念が込められた。
「慎さんはきっとあの人のことを忘れない……。きっと、あの人との思い出は全部美化されて、綺麗なまま残るんだ……」
あながち間違いに聞こえないから、反論もできない。
確かに初音の言うとおり、マイラとの思い出は綺麗なまま俺の心の奥底に仕舞われている。きっと一生忘れられない思い出になるだろう。
だが、それは仕方のないことだろう。
俺にとってマイラはあまりに大きな存在だった。彼女との思い出を全て消し去ったら、後は汚い両親との思い出ばかりが残ってしまう。そんなこと、俺は耐えられない。
いくら初音が、マイラとの思い出を消したがっても、こればかりはどうにもならない。マイラと過ごした時はあまりに眩しく輝き、俺の心に強く刻み込まれているのだから。
「……慎さん」
初音が包み込むように俺の背中を抱き締めた。
彼女の温もりが肌を通して感じられる。しかし、同時に感じる背筋を凍らすような悪寒は一体何だろうか。
「全部断ち切ってあげます……」
「はっ?」
「今日、深夜一二時に第三教会に来てください」
突然見当外れなことを言われ、俺は一瞬呆気に取られた。
しかし、背後から感じるプレッシャーに冗談の気配は一切なかった。ある種の脅迫めいた圧力を感じる。拒否することはできそうもない。
「……そこで、何があるんだ?」
「……あの人が慎さんを振った、本当の理由が、わかります」
「……ッ!?」
マイラが俺を振った、本当の理由? 何だ、本当の理由って? じゃあ、あの時マイラが言った理由は、嘘だったというのか? まさか、あの時自殺しようとしたことと、何か関係があるのだろうか?
俺は振り返って、初音を睨み付けた。今の言葉の意味を知りたくて、問い詰めるつもりだった。
しかし、俺は初音の瞳を見て、言葉を失った。
憎悪に澱む冷たい瞳だった。ゾッとするような底知れぬ暗闇が、そこにはあった。背筋を凍らす憎悪の闇に、俺は圧倒された。
「全て断ち切ってあげます。あの人の思い出も全部、私が消し去ってあげます。だから、今日の一二時、忘れないでくださいね……」
「あ、あぁ……」
俺には大人しく頷くことしかできなかった。
初音は俺の返答に満足すると、そのまま踵を返して去っていった。彼女の背中には、付いて来るな、という無言の空気が滲み出ていた。いつもなら、一緒に帰りましょうよ~、とせがんで来るはずなのに、今日の初音は振り返ろうともせず、姿を消した。
俺は得体の知れない恐怖に身を強張らせ、しばらくその場から動くことができなかった。
初音との約束の時刻が近付き、俺は家を出て日野塚第三教会に向かった。
マイラが俺を振った、本当の理由。それがわかると言われ、のこのこ釣られてしまったが、やはり行かない方がいい気がする。しかし、あの時の初音の冷徹な瞳が脳裏を過ぎり、逃げることはできなかった。
それにしても、胸騒ぎが治まらない。
嫌な予感がして堪らないのだ。あの初音の瞳を見てから、俺の中の何かがずっと警鐘を鳴らしている。このまま家に帰って寝てしまった方が、誰にとってもいいことに思えてしまう。しかし、マイラの名を出されて、俺が逃げられるはずもなかった。
俺はまだ、こんなにもマイラに未練が残っている。
初音と付き合い出してからも、マイラを忘れられた日など一日もなかった。暗い幼少時代を過ごした俺にとって、全ての思い出はマイラと出会った時から始まったようなものだ。どんな時でも、どんな場所でも、どんなことをしていても、常にマイラの思い出が脳裏を掠める。どうしても忘れることができなかった。
「……マイラ、どうして別れるなんて……」
四月も終わりに差し掛かったこの時期でも、まだ夜は凍て付くような寒さの日もある。
今夜は、あの日を思い出させるような寒さだった。
俺は寒さに身を震わせ、一度足を止めた。いや、自発的に止めたというより、足が勝手に止まってしまったといった方が正しいかもしれない。
もしかしたら、本能的に何者かの気配を感じ、足を止めたのかもしれない。
「……誰だ? そこにいやがるのは……?」
足を止めた瞬間、目の前の電柱の影がほんの少し動いたように思えた。
もしかしたら、ただの見間違いかもしれない。俺の警戒し過ぎかもしれないが、最近は物騒な殺人鬼がうろついているのだ。これくらい警戒していた方が安全だろう。
「まさか、気付かれるとは思わなかったです……」
電柱の影から現れたのは、あまりに意外な人物だった。
何故、彼女がこんな時間に、こんな場所に居るのだろうか。あまりに不自然だった。
「……お、逢瀬?」
「こんばんは、です……」
彼女の手には、刀……?
まさか、こいつが芝崎家を狙う切り裂き魔……?
…………いや、まさかな……?
「そんな物持ってると、変な誤解されるぞ」
「……慎君は、誤解しないんですか?」
「まぁ、仁だったら、誤解したかもな。あいつ、悪人面だし」
「慎君、酷いこと言ってます。仁君はいい人ですよ」
仁、良かったな。お前の好感度は悪くないらしいぞ。
いつまでもこんな話をしている訳にもいかないので、俺はずばり本題を問い質した。
「それより、こんな所で何してんだ?」
「……慎君を止めに来ました」
俺を止めに……?
止める、ということは、逢瀬は俺の目的地を知っているのだろうか。そして、その目的地で教えられることも全て、知っているのだろうか。
逢瀬は普段からは想像もできないほど、強い意志のこもった瞳で俺を見つめていた。
おそらく逢瀬は全て知っているのだろう。これはただの勘だが、間違っていないと思う。そうでなければ、逢瀬が俺を止める理由はないだろう。
「……お前も知っているのか? マイラのこと……」
「それは……、はい、知ってます。だからこそ、止めに来たんです」
予感的中。やはり、逢瀬は全てを知っている。
だったら、何故止めるのだろうか。日野塚第三教会で知られる真実に、止めるような理由があるのだろうか。
「知れば、慎君はきっと後悔します……。だから、私は慎君を止めます!」
逢瀬は両手を広げ、道を塞ぐように立ちはだかった。
小柄な彼女を押し退け、先に進むことは可能だろう。しかし、決意に満ちた彼女の瞳を無視できるほど、俺は無粋でもなかった。
「……後悔なら、たくさんしたさ。だけど、俺はマイラが別れを切り出した本当の理由が知りたい」
「知れば、どんなに辛くても、どんなに悲しくても、もう逃げられませんよ……」
逢瀬は俺を案じて、こんな警告を発してくれている。
きっと彼女の警告を無視すれば、それ相応の痛い目に合うのだろう。マイラが隠した真実というものは、俺が思っている以上に厄介なものなのかもしれない。
だが、そこにマイラが関わっているのなら、俺は躊躇わず先に進む。
「マイラのことで、逃げたくないんだ」
俺は強い意志を持って、逢瀬を真っ直ぐに見据えた。
彼女も俺の瞳からは逃げなかった。真正面から俺の意志とぶつかり、それでも道を譲ろうとしなかった。
「……後悔をしてからじゃ、遅いんですよ。きっと、知った後の後悔の方が慎君にとっては辛いです、悲しいです。誰も幸せになったりできないんです」
「それでも、構わねぇよ……。俺はやっぱり、マイラが好きだから……。知ってたいんだ、あいつのこと……、全部……。そこにどんな後悔があっても、俺はマイラの全てを受け入れたい……」
この想いは心の奥底に封印したと思っていた。
マイラと共に行く道を諦め、俺一人で前に進もうと思っていた。
だけど、やっぱり無理だった。
マイラへの想いを止めようとしても、無限に溢れ出てしまう。
俺はマイラなしでは生きていけない。
「…………そこまで言われたら、退くしかないじゃないですか……」
逢瀬は悲しそうに目を伏せると、両手を下げ、道を空けた。
心配してくれる逢瀬には悪いが、俺は全てを知りたい。どんな後悔があろうとも、マイラのことなら、全て受け入れる覚悟がある。
「……悪いな、逢瀬」
「私より初音ちゃんに謝ってください。初音ちゃんだって、慎君のこと、本当に好きだったんですから。慎君の中途半端な気持ちで、どれだけ苦しんだと思っているんですか?」
痛い言葉だ。返す言葉もない。
俺は初音を愛していない。もちろん友人としては好きだが、一人の女性として愛し切れていなかった。知り合って間もない逢瀬が気付くくらいなのだから、初音はとっくに気付いていたのだろう。
そして、俺の中途半端な想いのせいで、初音を傷付け続けていた。
彼女の想いに応えよう、などと思っている時点で駄目だったのだ。愛情とは己の意志とは無関係に溢れ出るものであって、意図して湧かすものではないのだ。結局、俺は初音に対する愛情を生むことができなかった。
初音と別れよう。
きっとこのまま付き合い続けても、俺は初音に応えられない。いつか応えられる日が来るとしても、その頃には初音がたくさん傷付いた後だろう。このままズルズルと付き合い続けていれば、俺も初音も潰れてしまう。
……最低な男だな、俺は……。
殴られるくらいは覚悟しよう。刺されたとしても恨まない。
俺は何があっても、マイラが好きだから。マイラともう一度、やり直したい。
「……もし……」
「んっ……?」
「もし……、マイちゃんを説得できる人がいるなら、きっと慎君だけだと思います」
説得、とはどういう意味だろうか。しかも、それができるのは俺だけ、とは意味を更に謎にしている。俺だけが説得できる、という状況にマイラはあるというのだろうか。そんな状況がまるで思い浮かばない。
「どういう意味だ?」
「言葉どおりの意味です。初音ちゃんは慎君に全てを教えて、マイちゃんを遠ざけようとしています。いえ、そんな生易しいものではないです。慎君の中にあるマイちゃんの綺麗な思い出も全部、完膚なきまで壊してしまうつもりです。慎君の心を奪い取るために。
もし、慎君が全てを知って、マイちゃんから目を背けるような人だったら、力ずくでもここを通すつもりはありませんでした。それはきっと誰にとっても最悪な事態しか生まないでしょうから。
でも、慎君がマイちゃんを受け入れてあげれば、マイちゃんの心だけは救えると思うんです」
救えるのは、マイラの心、だけ……?
わからない。俺とマイラが別れた理由に、どうしてそれだけ重い事態になり得るのだろうか。それとも、俺が知らないだけで何か恐ろしい事実が隠されているのだろうか。
「……私はこういうことは嫌いです。だから、慎君を行かせないことが唯一の抵抗だと思っていました。慎君が行かなくても、結果は同じだったでしょうから」
「何だか、まるで教会で何かが起こるような口振りだな。……いや、きっと何かあるんだろうな。だから、俺を止めたがっている。そして、それはマイラに関わる何か、か?」
「……そうです。とても悪いことが起こります……。今でも私は、行かない方が慎君のためだと思ってます……」
そう答える逢瀬は、苦虫を噛み潰したような表情だった。
最初から感じていた悪い予感は、どうやら間違いではなかったようだ。悪いことは確実に起こる。そして、それが俺にとってもマイラにとっても後悔だけを生む悲劇である、と逢瀬は言っていた。
逢瀬の忠告が嘘だとは思えない。しかし、それでも俺の心は決まっていた。
「だけど、それでも行くぜ。マイラが関わっているなら、尚更だ」
「……なら、一つだけ約束してください」
「約束?」
逢瀬は小さく息を吐き、俺の瞳を真っ直ぐに見据えた。その瞳には一切の虚偽を許さぬ強い光が灯っていた。
「何があっても、マイちゃんの味方でいてあげてください」
「あぁ、当然だ」
俺は迷わず頷いた。
わざわざ逢瀬に言われるまでもなく、俺は何があろうともマイラの味方だ。
逢瀬は俺の答えに満足すると、花も綻ぶような笑みを浮かべた。しかし、彼女の笑みにはいつも眩しさはなく、どこか悲しげな影が見えた。そして、逢瀬は俺がこれから向かう道とは逆方向の道へと歩き出し、そのまま姿を消した。
擦れ違い様に、一言だけ残して。
「……ごめんなさい。マイちゃんを助けてあげられなくて……」
漆黒の闇にそびえ立つ石造りの日野塚第三教会。
大正時代に建築された日野塚第三教会は、日本で一般的な木造建築ではなく、欧州の石造教会を模倣して造られた。長き時を経た石壁は深緑の蔦に覆われ、庭先には美しい薔薇が咲き誇っていた。少々錆び付いてはいるものの、入り口には赤薔薇のアーチが建てられており、来訪者を歓迎していた。それがかつての日野塚第三教会だった。
しかし、現在の教会前にはテープが張り巡らされ、厳重に入り口を封鎖されていた。先日、ここで芝崎の人間が殺されたからだ。仁の予想では、例の通り魔と同一犯。芝崎家を狙う異常者の犯行。
ここは、人が無残に殺された呪われた場所。
不気味な静けさが辺りを支配していた。春先だと言うのに、虫の鳴き声一つ聞こえなかった。まるで何もかも死に絶えてしまったかのような、そんな物悲しい静寂だった。
逢瀬の話では、ここで何か悪いことが起こる。そして、それにはマイラが関わっている。
ここは危険だ、と本能が警鐘を鳴らしている。しかし、それでも俺は先に進まなければならない。そこにマイラがいるのなら。真実を知れるのなら。
俺は覚悟を決め、厳重に張り巡らされたテープを潜り、教会の敷地内に侵入した。
たかだかテープを潜っただけだというのに、緊張感がいや増した。冷や汗が流れ、鳥肌が立った。妙な視線を感じる気がするが、おそらく気のせいだと思う。
一歩一歩進む毎に、足音が響く。俺の神経が昂ぶって、音が大きく聞こえるだけなのだろうか。ただ、一つ言えることは、一歩一歩確実に災禍の中心に近付いているということだ。
遅々とした歩みで、俺はようやく教会の扉まで辿り着いた。
心臓が早鐘のように激しく脈打っている。得体の知れない恐怖が俺を縛り付けていた。ここを開ければ、もう逃げられない。逃げるチャンスがあるとしたら、今だけしかない。
……ビビるな、俺ッ!! このまま逃げたって、今以上に後悔するだけだッ!!
俺は両腕に力を入れ、重い扉を押し開けた。ギギギ……、と轟音を鳴らしながら教会の扉が開いていく。まるで地獄の門を開いているような最悪な心地だった。
もう後戻りはできない。
俺は闇に支配された教会に足を踏み入れた。踏み込めば、そのまま飲み込まれてしまいそうな漆黒の闇が広がっている。その暗黒の中に、俺は一歩足を踏み出した。
バキッ!!
俺の意識はそこで途絶えた。目の前が暗転する寸前、歪んだ笑みを浮かべる初音を見たような気がした。
つづく




