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閑話 彼がネクタイを結ばない理由


意外かもしれないが、慎は毎朝五キロのランニングを行っている。

この日課は元々、不良の頃に吸っていた煙草の毒を吐き出させるために始めたものだった。最初は渋々マイラに引っ張られて、慎は走っていた。しかし、マイラに追い付けないことが悔しくて、日に日に力を入れるようになった。そして、いつしかマイラの付き添いもなくとも、毎日一人で走るようになっていた。


今日は、慎とマイラが私立犬神学園に初登校する日だった。つまり、あの悲しい別れの約一年前。


いつもよりも早めにランニングを切り上げた慎は、熱いシャワーを浴び、髪を整え、真新しい制服に袖を通した。

犬神学園の制服は、深緑色を基調としたブレザーだ。慎自身、この制服が自分に似合っているとは思っていなかったが、早くマイラの制服姿を見たいと思っていた。彼女なら、この深緑色の制服が似合うと確信していた。


「ん……? ネクタイってどう結ぶんだ……?」


慎は今まで自分でネクタイを結ぶような機会はなかった。中学時代は学ランであったし、共働きでいつも忙しかった両親からネクタイの結び方について教わる機会もなかった。

慎は何とか自分一人で結べないかと悪戦苦闘したが、結局は敗戦した。今まで一度もネクタイを結んだことのない慎に、自己流結びは難しかったようだ。


「……ま、いっか。こんなもんなくても」


元不良の身分なのでネクタイの一つや二つ結ばなくても構わないだろう、という考えに至った慎は、早々にネクタイ結びを諦めた。

ちょうどその時、アパートの呼び鈴が鳴った(この時はまだ呼び鈴は壊れていなかった)。


「開いてるぞ」

「チャッス、慎!」


来訪者はマイラだった。先日、一緒に登校しよう、と約束していたので、慎を迎えに来たのだろう。


マイラは開けた扉の隙間から顔だけを出していた。顔だけしか見えないので、彼女の可愛い制服姿は見えなかった。

マイラの制服姿が見られない慎は歯痒かっただろうが、初めて着る制服を慎に見せるのが恥ずかしいマイラの乙女心も推し量るべきだろう。



「えへへ……。慎の制服姿、格好いいよ……」



顔を赤らめ、はにかんだ笑みを浮かべるマイラ。

普段の明るくお転婆な調子からは想像できないほど、しおらしく可愛らしい。



「お前だけずるいぞ。俺にも、お前の制服姿、見せろよ」


「うっ……。でも、恥ずかしいよ……」


「何恥ずかしがってんだよ。これから毎日見ることになるんだぞ」



早くマイラの制服姿が見たい慎は、そわそわして落ち着きがない。


「わ、笑わない?」

「笑わねぇよ。いいから見せろ」


「わ、わかったわよ! 見せればいいんでしょ、見せれば!」


マイラは覚悟を決め、勢いよく扉を開けた。

深緑色を基調としたブレザーの制服をまとったマイラは、真新しい制服以上に初々しく、抱き締めたくなるほど可愛らしかった。初めこそ大きな胸を仰け反らせ、虚勢を張っていた。しかし、何の反応も内心の様子を見て、だんだんと不安になり、身を縮こまらせた。


一方、慎はマイラの初々しい可愛さに目を奪われ、完全に惚けていた。声を出すのも忘れるくらい彼女の制服姿に見惚れていた。



「ど、どう、かな……? へ、変……? 似合って、ない……?」


「あ……、いや……」



マイラに見惚れていた慎は気の利いたセリフも言えないくらい思考回路が混線していた。

しかし、その慎の反応がマイラを不安にさせてしまった。


「あ、あははは……。やっぱ、私なんかじゃ、似合わないか……。そ、そうだよね。やっぱり、こういうのは日本人の方が似合うもんね……。私みたいなイギリス人には似合わなくて当然か……」


「……や、いや、そんなことない! 凄い似合ってる!」


ようやく思考回路が回復した慎は、慌ててマイラの制服姿を褒めた。しかし、時すでに遅かった。


「いいよ、そんなフォロー入れてくれなくても……。ごめんね、変な気を使わせて……」


マイラの瞳には薄っすらと涙が滲んでいた。

マイラは決して心の強い娘ではない。慎との関係にいつも不安を抱えている。唐突に彼との関係が終わってしまうことにいつも怯えていた。


彼女は純血のウェアウルフであり、本来は人間と結ばれてはいけない存在。慎に肉体関係を求められても応えられない。慎も男である以上、マイラと肉体関係を結びたいだろう。彼がマイラを愛しているのなら当然の願望であり、またそうした気持ちがなくなることはすなわちマイラへの気持ちが冷めたということになる。慎の欲求を拒むことは、いずれ破局に繋がる。


いつか慎に振られてしまう。それがマイラにとって最大の不安であり、恐怖であった。



「ち、違ぇよ、馬鹿! フォローとか、そんなんじゃねぇ! 俺はただ、お前に見惚れて、何も言えなかっただけで……って、何言ってんだ、俺は!?」



慌てて口を噤むが、恥ずかしい失言はもう戻らない。覆水は決して盆には返らないのが世の常だった。彼の失言はしっかりとマイラの耳に届いてしまった。


「し、慎……。そうなんだ……。見惚れてくれたんだ……」


「ば、馬鹿! そのにやけた顔止めろ! くそ!」


あまりの恥ずかしさで、慎の顔は焼けるように熱くなっていた。

一方、マイラはすっかり機嫌をよくし、満面の笑みを浮かべていた。見ている方が幸せになるような、そんな屈託のない笑顔だった。


「えへへ~、慎~。この制服、似合ってるかな?」

「あ、あぁ、似合ってるよ……」


「ありがと、慎!」


マイラはまるで尻尾をはちきれんばかりに振る犬のように慎に飛び付いた。

慎は彼女の勢いに吹き飛ばされ、たたらを踏みながらも何とか堪えた。以前に何度も押し倒されて気まずいことになった経験があったので、彼はある程度学習したのだ。彼女は一向に学習する気はないようだが。



「外でこんな恥ずかしい真似すんなよ……」


「あははは、わかってるよ! こんなことするのは、慎の前でだけだもん」


「あ、阿保……。恥ずかしいこと言うな……」



慎は顔を真っ赤にしてマイラから顔を背けた。そんな彼の様子がおかしくて、マイラは慎の胸に頭を預けたまま、くすりと微笑んだ。



「慎……」

「何だ?」


「大好きだよ、慎……。私、人間をこんなにも好きになれる時が来るなんて、思ってもみなかった。多分、こんなに人を愛しく思うことなんて、もう私の生涯でないと思う」



この言葉は、マイラにとって偽りない本音だった。

まさかただの人間をここまで好きになるとは、昔のマイラには想像すらできなかっただろう。しかも、同族ではなく、本当にただの人間を好きになってしまった。誇りあるウェアウルフからすれば、人間を愛することは血の冒涜であり、至上の罪。許されないことはわかっていたが、それでも止められないほど彼女の想いは強かった。


しかし、二人の関係はいずれ破局する。たとえ、マイラにあの覚悟がないとしても、彼女にはウェアウルフの誇りは捨てられない。だからこそ、この関係は必ず崩れ去るのだ。


「あぁ、俺もこんなにお前を好きになるなんて思ってみなかった」

「あははは……、ありがと……」


切ない。いつか終焉が訪れると知っているから。ずっとこのままでいたい。

マイラは零れそうになった涙を堪え、満面の笑みを浮かべた。自分の悲しみで慎を苦しませたくなかったから。しかし、自分の存在がいずれ彼を傷付けると知っていたからこそ、胸が張り裂けんばかりに痛んだ。



「あっ、慎……。ネクタイはどうしたの?」

「あ、あぁ……、別にネクタイなんかなくたって……」


「あ~、結べないんだ、ネクタイ?」


「ば、馬鹿! 違ぇよ!」

「隠さなくていいから~。ほら、私が結んであげるよ」



女々しく言い訳を続ける慎を無視して、マイラは彼のネクタイを手に取った。そして、嬉々とした笑顔のマイラは慣れた手付きで慎のネクタイを結んだ。


が、失敗。ネクタイは歪な形になってしまった。



「あ、あれ? 何で? こ、このぉ~、今度こそ! ふぇ~? どうして?」



マイラは再び結び直すが、上手く結べなかった。ムキになったマイラはその後も挑戦し続けるが、結局彼女が慎のネクタイを結べることはなかった。


ネクタイ結びに奮闘するマイラが可愛くて、慎はそれ以後自分でネクタイを結ばないようになった。暇があれば、マイラにネクタイを結ばせるが、彼女がネクタイ結びに成功した試しはなかった。






閑話休題、三章「編入生と切り裂き魔」へ……


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