閑話 忘却のバレンタイン
二月十四日、セント・バレンタイン・デー。
この時点では誰も、数日後に慎とマイラが別れるとは夢にも思っていなかった。それほど慎とマイラの関係は良好だった(喧嘩はかなり多かったのだが)。しかし、この時すでに悲劇は起こった後であり、惨劇が始まろうとしていた。
もっとも、慎がそれを知ることになるのは、数ヵ月後のことなのだが。この時の二人はまだ幸せだった。幸せだった最後の思い出。
「……今日は、バレンタイン、かぁ……」
早朝に目を覚ました慎は、開口一発目にそう漏らした。
本日のバレンタイン・デーで、慎が確実にもらえるチョコレートの数は二つある。恋人であるマイラからのものと、幼馴染である初音からのもの。去年、マイラと初音との間でプライドの衝突があり、慎は大量のチョコを食べされられた。今年のバレンタインも去年同様のバレンタイン・チョコ対決が起こり得る可能性は高かった。それが慎の憂鬱の理由だった。
慎は元々甘味が苦手だった。特にチョコレートは匂いですら嫌気が差す。それでも、好きな子からもらえるバレンタイン・チョコは嬉しい。嬉しいことに違いないが、実際に食べるとなると話が違ってくる。
また、マイラは重度のカカオアレルギー。よって、少量のチョコを食べるだけでも、命に関わるらしい。だから、バレンタイン・チョコを減らす援軍として使えない。
「……またチョコ地獄なんてのは、勘弁してくれよ……」
去年の悪夢が思い出される。
慎とマイラが付き合い出し、初めてのバレンタイン・デー。甘味が苦手な慎も、純粋にマイラからのチョコレートを楽しみにしていた。そして、マイラも真心込めて手作りチョコを作ってくれた。
しかし、不器用なマイラの手作りチョコを嘲笑うかのような豪華絢爛なウェディングケーキ並のチョコレートを、初音が作ってきたのだ。しかも、当てつけのように(初音の性格等を考慮すると、当てつけの可能性が非常に高い)、マイラの目の前でそれを渡した。あまつさえ彼女であるマイラよりも先に。
マイラは負けず嫌いで、熱くなりやすい性質だ。その挑発的な初音のチョコレートに怒りを覚え、初音に負けない超弩級のチョコレートを作ってやる、と宣言した。初音もマイラの挑戦に受け、手作りチョコレート対決をすることとなった。
前述のとおり、慎はチョコが苦手だ。にもかかわらず、山のようなチョコレートを一人で食べる羽目となった。もちろん、バレンタイン・チョコなので残すなどという選択肢は選べず、慎は血反吐を吐く思いでそのチョコレートの山と戦った。
あれは今まで生きてきた中で一番の苦行だった、と慎は思っている。
「……さて、と……。まだ早いけど、起きるか……」
慎は辛い過去の思い出を記憶の奥底に封印し、起き上がった。時間はまだ早朝に近く、ようやく朝日が昇り始めた頃だった。さすがに早く起き過ぎたので二度寝をしたかったのだが、今日は目が冴えてもう眠れそうになかった。
慎は欠伸をしながら布団を畳み、流しに向かった。流しの蛇口を捻り、冷水が勢いよく放出される。六畳一間のボロアパートで顔を洗えるのは流し場だけなので、冬の洗顔はかなり辛い。
バシャバシャと適当に洗顔をしていると、古くて立て付けの悪い扉がノックされる音がした。呼び鈴は壊れているので、知人が訪れる時はノックをする。
こんな早朝に来るなんて非常識な奴だと思いながらも、慎は洗顔を止めて扉に向かった。さすがに水浸しの顔で出る訳にもいかず、タオルで軽く顔を拭いてから慎は扉を開けた。
「チャッス! 目ぇ覚めた、慎? って、うわぁ~、ワックスつけてない慎って何か変だね?」
早朝の来客は、マイラだった。彼女は味気ない部屋を見ると、やたら機嫌がよくなった。
ちなみに普段の慎は、前髪は金のメッシュで、全体の髪をワックスで逆立てている。今は寝起きで髪がベタッと垂れたままだ。
「マイラ……。わざわざ来てくれるのはありがたいが、いくらなんでも早過ぎないか」
「去年は初音に先越されちゃったから、今年こそは彼女としての意地で、慎に一番にチョコを渡したかったの!」
「阿保……(ったく、可愛いことを言うな……)」
思わず抱き締めてキスしたくなるじゃないかと内心愚痴りながらも、慎はマイラを部屋に招き入れた。
「じゃあ、コーヒー淹れるね」
「うぃ」
マイラはやかんに火をかけ、溜まっている洗い物に手を付け始めた。慎は畳んだ布団を隅に移動させ、卓袱台を部屋の中央に引っ張り出した。
「この時間じゃ、さすがの初音も来ないでしょうね~」
「あぁ、ぶっちゃけ、起きてなかったら超迷惑な時間だったからなぁ」
いくら行動力のある初音でも、朝日の上がり切る前に来るほど常識知らずではないだろう。逆に言えば、マイラの行動力と常識知らず振りは初音以上なのだ。
「いいじゃん、起きてたんだから文句言うなぁ! っていうか、チョコ届けにきてあげたんだから、感謝してよ!」
手際よく次々と食器を洗いながら、マイラは不満を言った。
「はいはい、あんがと」
「もっと気持ちを込めて~」
「サンキュ、マイラ。嬉しいぜ」
「ふふ、どういたしまして」
マイラは食器を片し終え、ラッピングされたチョコレートを卓袱台の上に置いた。去年のようなハート型ではなく、クッキーの詰め合わせが入っていそうな箱だった。もしかすると、チョコレート嫌いの慎に合わせ、チョコクッキーを焼いてきたのかもしれない、と慎は予想した。
箱を開けてみると、予想的中。マイラのバレンタイン・チョコは、チョコチップクッキーだった。
しかし、半分以上がチョコチップのない普通のクッキーだったことに、慎は疑問に思った。何故、わざわざ二種類のクッキーを作ったのだろうか。しかも、バレンタイン・チョコの意味合いのない普通のバタークッキーの方が多いので、その疑問も更に大きくなった。
「……なぁ、マイラ?」
慎がその疑問について聞こうとした時、ちょうど湯が沸いた。
マイラは一度場を離れ、インスタントのコーヒーを二つ淹れて、戻ってきた。ちなみに、慎はブラック、マイラは砂糖五杯にミルクたっぷりで飲むのが習慣になっている。
「さ、一緒に食べよっか♪」
「……なるほど、そういうことか……」
つまり、チョコチップクッキーは慎へのバレンタイン用のもので、普通のクッキーはマイラが食べるためのもの、ということ。最初からマイラは慎と一緒にクッキーを食べるつもりだったのだろう。これなら、カカオアレルギーのマイラも一緒に食べられるし、甘味嫌いの慎にとっても食べやすく一石二鳥だ。
「おぉ、美味いな。甘さ控えめで俺の好みだ」
「ありがと。そう言ってもらえると、頑張った甲斐があるよ」
よく見るとマイラの手には火傷の痕がいくつもあった。料理下手なのに、随分と頑張ってくれたようだ。
慎はチョコチップクッキーを、マイラはバタークッキーを食べ、舌鼓を打った。互いに好みの味に調整してあるため、両者共に満足だった。
しばらく二人は他愛もない話もしながら、クッキーを食べていた。本当に何事もない普通の幸せに満ちていた。
この時の慎はまだ知る由もないのだが、この数日後に残酷な別れが訪れることとなる。そして、これから話される会話が、これから彼が巻き込まれる惨劇に関わっていることなど、夢にも思っていなかったはずだ。
「……ねぇ、慎」
「ん? 何だ?」
クッキーを食べ終えると、マイラは少し改まった様子で話を切り出した。
思ったことはすぐ口に出てしまう性格のマイラにしては、このように改まって話をするのは珍しい。慎は少し不思議に思ったものの、特に気にする様子はなかった。
「もし、もしもの話なんだけど……」
「あ、あぁ? 何だよ?」
二度も、もし、という仮定の言葉を繰り返すマイラに、若干の違和感を覚えた。しかし、この時の違和感は、一時間も経たずに慎の記憶から消えてしまう。
後にその問いがどれほど重い意味になるかも知らず。彼女が今、どれだけの覚悟を背負っているかも気付かず。
「……もし、私が人殺しになったら、慎はどうする……?」
無論、この時に何を答えたか、慎の記憶に残るはずもなかった。
閑話休題、二章「マイラ」へ……




