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第一章 君が思い出に変わるまで(後編)


「……ッ!?」


俺が自宅アパートに帰り着いたのは夜も大分遅くなった頃だった。

しかし、そんな時間に初音は一人、俺の帰りを待っていた。星もほとんど見えないような漆黒の夜空を見上げながら、まだ春の訪れも遠い冬の寒空の下、彼女はたった一人で待っていた。まるで世界にたった一人取り残されたように、彼女は孤独な空気をまとっていた。その姿は月光を浴びた妖精のように美しく、思わずいつもの調子で声を掛けるのを躊躇われた。

しかし、俺が声を掛ける前に、初音が俺の存在に気付いた。俺の姿を見つけると、初音は花も綻ぶ花のように満面の笑みで駆け寄ってきた。


「先輩、遅いですよ! 心配しました!」


「お、お前こそ何してんだよ、こんな時間に!?」


「先輩を待っていたんです! 本当はちょっと顔を出しに来ただけなのに、いつまで経っても帰ってこないし……、不安で……」


先ほどまでの笑顔が嘘のように一気に泣き顔になっていく初音。

初音は本当に不安だったのだろう。俺がまた昔のように堕ちていく姿を見るのが。


「……悪い。俺はいつもお前を泣かしてばっかだな……」


またいつかのように彼女の顔をくしゃくしゃと撫でた。

そうすると、今度は泣き顔が嘘のように笑顔に戻った。それは本当に嬉しそうな、いや、幸せそうだった。


「先輩が戻ってきてくれて、本当に良かった……」


初音の笑顔はこそばゆい。俺のように捻じ曲がっていない純粋な笑顔だから。


「ったく、このくそ寒い中、何時間待ってんだよ」


「ご、ごめんなさい……」


「お前が謝るようなことじゃないだろ!」


むしろ謝らなければならないのは俺だ。しかし、俺は素直にそのことを言えなかった。恥ずかしかったから。


「ほら、何か温かい物ぐらい用意してやるから、ウチ入れ」


「あっ、じゃあ、どうせなら夕飯ご馳走してください! もちろん、先輩の手料理で!」


「阿保! 俺にそんな芸当ができる訳ないだろ(まぁ、そろそろ自炊できない不味いんだが……)! いいから黙って入れ!」


やかましい小娘の後頭部に一発入れて、俺は家の鍵を空けた。その時無意識に使った鍵は、マイラから突き返されたあの鍵だった。

彼女との思い出。俺は鍵のキーホルダーを取り外し、それを靴入れの上に置いた。この思い出の残滓は、もう俺には必要のないものだ。前に進むには、足枷にしかならない。


「紅茶とコーヒー、どっちがいい?」


「日本人は緑茶に限ります。欧米文化にかぶれてはいけません」


「やかましい! インスタントの緑茶なんかウチにねぇ!」


誰かが後ろでごちゃごちゃ言ったようだったが、俺は丁重に無視した。しかし、そんなぶっきらぼうにしながらも、茶葉の場所はどこだったろうか、と必死に思い出そうとしていた。

結局、俺は初音に甘かった。ずっと昔から初音は俺にとって特別な存在だったから。


「茶葉は、……あった。急須はどこだっけ……? ってか、あったか?」


それにしても、彼女と別れた翌日に別の女を自宅に連れ込んでもいいものなのか。

わざわざ励ましに来てくれた初音に緑茶を淹れながら、俺はそんなことを考えていた。マイラに振られた俺を心配してくれた初音は多分悪くない。ただ、俺が悪くないかは微妙な気がする。


普段は邪険にしているが、俺は妹みたいな存在の初音に甘い。そういう部分が気に障ったから、マイラは俺を振ったのかもしれない。俺の記憶が確かなら、マイラと初音は積極的に顔を合わそうとしなかったし、会ってもほとんど口を利いた覚えはなかった気がする。あまり気にしたことはなかったが、あの二人はもしかしたらかなり険悪な仲だったのかもしれない。思い返してみると、やはり悪いのは俺という気がしてならない。しかし、それも全て後の祭りだった。


「ほれ、粗茶だ」


「ありがとうございます。先輩でもお茶淹れるぐらいできたんですね? あ~、でも、玉露の方がポイント高かったですよ」


「やかましい!」


余計なことばかり言う口を引っ張り上げてやった。


「それ飲み終わったら、さっさと帰れよ」

「じゃあ、十時間ぐらいかけて飲みます」


相変わらずいい度胸をしてやがる。しかも、それを実行するだけの行動力があるから油断できない。


「勝手にしろ」

「むっ、ノリが悪いですね? やっぱり、マイラさんに振られてダメージ受けてます?」


「……ぐッ!?」


い、痛いところを突きやがって…。


「お前、俺を励ましに来たのか、トドメを刺しに来たのか、どっちだよ?」


「もちろん励ましに来たんですよ。まぁ、ちょっと刺激的に、ですけど?」

「ちっ……。朝は結構しおらしかったくせに……」


「だって、こっちまで元気なかったら励ましにならないじゃないですか? だから、これぐらいでちょうどいいんです」


随分と勝手な言い分だが、ある意味正論で腹が立つ。普段なら意地でも反論していたかもしれないが、今は何も言い返せなかった。


「……先輩、やっぱり堪えてるんですね?」

「思った以上にな……。ったく、情けないぜ……」


ここで否定しないのも、普段の俺らしくなかった。格好悪い姿を見せたがらない俺が、こんなに弱い姿を見せるなんてマイラにもなかったことだ。


「先輩……」

「マジだと思ってたのは俺だけだったのかね……」


「そんなことないです!」


俺の口から零れた弱音を、初音は思い切り否定した。


「あの人が本気で先輩のことを好きじゃなかったら、私は絶対に認めませんでした! 先輩も、あの人も、本気だってわかったから、私は……」


初音はそこで言葉を切り、顔を真っ赤にして俺から目を逸らした。

彼女の想いに気付いていない訳ではない。ガキの頃からずっと一緒だったんだ。気付かぬはずがない。しかし、俺にとって初音は『妹』以上にはならなかった。


「わ、私は……、えっと、あ~、先輩! お腹空いてませんか? 私がご飯作りますよ! どうせ先輩、自炊なんてしてなさそうですし、手料理に飢えているんじゃないですか?」


「あぁ、頼むわ」


初音は真っ赤な顔を隠しながら、台所に逃げていった。

そういえば、俺もマイラも得意料理は消し炭だった。しかも、時々血の味がしたので、一人暮らしを始めてからまともな手料理を食った覚えはなかった。



(……って、またマイラのこと考えてるよ。くそ……)



忘れようとしても、やはり脳裏からマイラの姿を消せない。彼女との思い出はあまりに多過ぎる。どこで何をしても、彼女の影がちらついている。


「……って、冷蔵庫に何もない! っていうか、そもそも冷蔵庫の電源が入ってない!」


あ~、そういや、そうだな。料理自体しないのに、わざわざ材料を置いておく奴などいる訳ないし……。まぁ、材料がないなら、初音の手料理は諦めるか。

俺は寝転がって、テレビをつけた。この時間帯で面白いものといえば、バラエティー番組くらいしかないので、それを見た。普段はあまり見ていない番組だが、見ると結構笑える。


「あっははは!」

「パスタ発見……って先輩、もう私の手料理に興味失ってる……」


「あっはははははは! 有り得ねぇ!」

「…………」











「何だかよ、お前が料理をしている間の記憶がないんだが、どうしてだろうな?」


俺が目を覚ますと、すでにミートスパゲティーが完成していた。

そもそも寝た記憶がないのに、目を覚ますという行為は矛盾している。やたら後頭部が痛い理由もよくわからん。そして、フライパン近くに置かれている缶詰が変な形に凹んでいるのはどういうことだろうか。


「クソつまらないバラエティーに飽きて寝ちゃったんじゃないですか?」


超笑顔。

清々しいほどに白々しい笑顔だった。


「よくそんなセリフが吐けやがるな、この小娘。人の後頭部に缶詰当てて気絶させたくせに……」


「うぁ、酷いです。わざわざ夕ご飯まで作ってあげてる健気で可愛らしい後輩に向かって、何てこと言うんですか? 誤解です。大体、私みたいなか弱い女の子がどんなに頑張っても人を気絶させるぐらいのスピードで物を投げられるはずがないじゃないですか?」


野球部のレギュラー全員を三球三振させた奴が何を言っているのだろうか。ちなみに、その突拍子もない勝負が起こった経緯は、野球部連中が初音を『妖怪アンテナ』となじったのが原因だ。その後、勝負に負けた野球部は一ヶ月初音の下僕と化した。


「けっ、スパゲティー茹でて缶詰開けただけじゃねぇか」

「むっ、それだけのことすらできない人に言われたくないです」


「ぐっ……」


確かに俺はイカ墨を使わずにイカ墨スパゲティーを作った経験がある。マイラはスパゲティー煎餅という独創料理を完成させた。ちなみに、どっちも一口だけ食べて、廃棄処分した。

どうも今日はいろいろと分が悪過ぎる。俺の立場があまりにも弱過ぎだ。


「まぁ、そこまで言うならいいですよ。今度は、一生君の作る味噌汁が食べたいなぁ、と言いたくなるような凄いの作ってあげますから!」


「何だよ、また来る気か?」


内心では嬉しかったが、表面上でウンザリした調子で返した。どうにも俺は素直ではない。

しかし、俺のデリカシーに欠ける発言で、笑顔だった初音の表情が一瞬にして曇ってしまった。


「……私が来ちゃ、迷惑ですか?」


……ったく、反則なんだよ、その顔は……。


初音に瞳を潤ませられると、俺は何も言えなくなってしまう。昔からよく喧嘩をしたが、いつも彼女の泣き顔に負けてしまうのだ。


「来たければいつでも来いよ。どうせ俺は彼女もいない寂しい奴なんだからな」


マイラ曰く、俺達はもう赤の他人、だそうだからな。誰に遠慮する必要もない。


「……いいんですか?」

「あぁ、好きにしろ。これやるから」


彼女に向かってぶっきらぼうに投げたのは、今日マイラに突き返されたこの家の合鍵だった。鍵に付けられていた不恰好なキーホルダーはすでに取り外されているので、何の飾り気もない。


しかし、それを受け取った初音は、まるで宝物を貰ったかのような喜び様だった。そんなに喜ばれると、何の飾り気もない鍵(あまつさえ元カノから返された物)なんかをあげたことに罪悪感が沸く。そこまで喜ばれるような物ではないのに。


「あ、ありがとうございます……」


……だから、反則なんだよ、それ……。


悲し涙も、嬉し涙も、俺にはどちらも苦手なものだった。

俺はくすぐったい心情を隠すように、ガツガツと音を立てながらミートスパゲティーを頬張った。


「あ、あの、本当に先輩の家に来てもいいんですよね? いつでも、好きな時に……?」


初音は大事そうに合鍵を握り締めながら、尋ねてきた。喜びと不安が入り混じったようなこそばゆい表情で、俺は真正面から彼女の顔を見ることができなかった。


「あぁ……」


俺はスパゲティーをがっつきながら、素っ気なく答えた。


「明日も来ていいですか?」

「あぁ……」

「明後日もいいですか?」

「あぁ……」

「明々後日もいいですか?」

「しつこいぞ、馬鹿!」


「先輩こそ、あぁ……、ばっかで素っ気ないです!」


うるさい、恥ずかしいんだよ……。


顔を見合わせると真っ赤になるしかない気がしたので、俺は黙ってスパゲティーを食い続けた。どうやら初音も同じらしく、黙々とスパゲティーを食べていた。どちらも何も言わない気まずい沈黙だが、どこか懐かしい雰囲気だった。


……マイラと付き合い始めた時の雰囲気を思い出すな……。


またマイラを思い出す。しかし、最初ほど胸は痛まない。何故だろうか。初音と一緒だからだろうか。


「……え、えっと、本当に毎日来てもいいんですか?」


「お前、本当にしつこいぞ……。今更遠慮するな」


「だ、だって、不安なんです! 先輩が優しくしてくれたのなんて全然なかったから」


うっ……、心に突き刺さる一言だな……。


「……俺、そんなに冷たかったか?」


思い返してみれば、思い当たる節がいくつもあった。と言うか、初音に優しくした覚えがほとんどない。


「そ、そうじゃないです! 先輩はいつだって優しかったけど、それが凄く捻じ曲がってるっていうか、素直じゃなくてわかり辛いっていうか、正直もっと他の言い方してほしいなぁっていうか……」


「あ~、つまり、俺は屈折してるってことか……」


「そうです、素直じゃないんです! 本当は優しいのに、全然そんな素振りとか見せてくれない根性曲がりです!」


「んなこと断言するな! っいうか、ドサクサ紛れに暴言吐きやがったな、この小娘!」


俺は食卓を乗り出し、初音の頭を掴んで思い切り振ってやった。脳味噌シェイクは地味だが、意外にダメージの大きい技だ。


「ご~、ご~め~ん~な~さ~い~……」


謝っているようなので、一応シェイク攻撃は止めた。


「先輩、酷いです! 冗談じゃないですか!」

「い~や! 今のは絶対本音だ! そう簡単に許しやるかよ、腹黒娘!」


「じゃあ、どうしたら許してくれます?」


「……そうだな。罰の意味も込めて、一週間俺に美味い飯を提供するってのはどうだ?」


「せ、先輩……」


俺、今かなり恥ずかしいこと言ったな……。


恥ずかしくなった俺は逃げるように食器を片し、台所に逃げた。しかし、狭くて汚いアパートだ。この上なく嬉しそうな初音の視線から逃れられない。穴が開きそうなほど見られているような気のせいではないだろう。


「ありがと、先輩」


初音は俺を追うように食器を片しに来た。いや、実際に追ってきたのだろう。


「馬鹿、罰だって言ってんだろ。しっかり美味いもの作れよ」

「は~い♪」


俺の腕にじゃれ付きながら返事をする初音。その様子はまるでマタタビを貰った猫のようだ。


あぁ……、ヤバい、いろいろと……。マイラに振られて、大分参っているな、俺……。初音に対して、抱き締めてぇ、なんて思うなんて……。


いや、もう思っているだけじゃない。すでに実行した後じゃないか……。



「……初音」



俺の腕の中で、彼女は信じられない表情を浮かべていた。

こうして当たり前のように隣にいてくれる初音。それがどんなにありがたい存在か、俺はよく知っている。そして、どれほど大切な存在なのかも、よくわかっている。



「せ、先輩……。急にどうしたんですか……?」


「……ずっと側にいてくれないか、初音……?」



その言葉は、自然と俺の口から零れていた。

初音は一瞬、何を言われたのか理解できなかったようだ。しばらく呆然と俺を見上げていたが、フリーズしていた思考回路が働きを取り戻すと、沸騰しそうなほど真っ赤な顔になった。

しかし、突然に初音の熱は冷めた。先ほどまでは火が出そうなほど真っ赤だった彼女が、今では背筋が凍るような冷たさに変わっていた。


「……それは、あの人の代わり、ってことですか?」


「……ッ!?」


グサッと来た。

ある意味、マイラの言葉以上にきつい。そして、即座に否定できない、ということは初音の指摘を暗に肯定しているということだ。俺はあまりにも軽率なことを言ってしまった。


「……まぁ、先輩が傷付いている時に来た私も悪いんですけど、やっぱりあの人の代わりってのは嫌です。私のプライドが絶対に許しません。まぁ、こうして抱き締めてもらえるのは嬉しいですけどね」


「すまない、初音……」


「先輩の心には、まだあの人がいるんですね?」


どうやら初音には何でもお見通しらしい。

確かに俺はまだ、マイラへの想いを断ち切れていない。そもそも振られてすぐ、すっぱりと忘れられる想いなど偽物以外の何物でもない。俺はあれほど強く人を愛したのは初めてだった。そんな想いを簡単に忘れられるはずがない。

だが、そんな想いを抱えたまま初音を抱き締めるなんて、何を考えているんだ、俺は……。本当に最悪なことをしている。


「先輩。そんな落ち込まないでください」

「……初音?」


俺は初音から離れようとしたのだが、彼女自身の手によってそれを止められた。


「さっきも言いましたが、こうされること自体は嬉しいんです。悪いと思うんだったら、もうちょっとこうしててください」


……何ていうか、初音は強いな。俺とは大違いだ……。


「たくましい奴。女にしておくのが勿体ねぇよ」

「むっ、さっきからいろいろと失礼ですね。女の子じゃなかったら、こうして抱き締めてもらえないじゃないですか?」


「いい根性してるよ、お前……」


「先輩みたいなヘタレを好きになると、嫌でも強くなるんです」


反論を言ってやろうとしたその瞬間、俺は思い切り彼女の方に引っ張られた。完全に不意を突かれ、俺は何が起こったかわからなかった。

しかし、気付いた時には、俺と初音の唇は一つに重なっていた。

微かに触れ合うだけの優しいフレンチキス。刹那的な触れ合いに、俺も初音も目が当てられないほどに真っ赤になってしまった。



「え、遠慮しなくてもいいんですよね?」



強気なこと言っているくせに震えている。行動力はあっても、どこか怖気づいているのは初音らしかった。


「……い、今のは前借です」

「ま、前借?」


「先輩の心に、まだあの人がいるのは仕方ないことです。でも、いつか先輩の心からあの人を追い出して見せます。私しか見れないくらいに、私を好きにさせちゃいます。だから、次に先輩とキスする時は、先輩の心に私しかいないときです。でも、それまでどれくらい掛かるかわからないので、ちょっとズルしました」


それで前借か……。

悪戯が成功した子供のような笑顔をしている初音を怒ってやりたかったが、その笑顔があまりにも可愛くて結局何も言えなかった。ただ、やられっ放しは悔しかったので、デコピンを食らわせて彼女を突き放した。


「ったく、勝手にしろ」


「はい、勝手に先輩の隣にいます♪」


その後、しばらく初音と他愛もない話をしながら時間を過ごした。初音といる間は、本当にマイラのことを忘れられた。しかし、時間は有限だ。いつまでもそんな楽しい時間を過ごせるはずもなかった。


時刻は、まもなく十一時を迎えようとしていた。初音は、泊まりたい、と駄々をこねたが、さすがにそれを了承する訳にもいかなかった。とってもとっても勿体ないが……。


「それじゃあ、今日は帰りますね、慎さん……」


彼女はいつしか俺を先輩ではなく、慎さん、と呼ぶようになっていた。どうにも慣れぬ呼ばれ方でくすぐったいが、そう呼びたがっている初音の意思を尊重することにした。


「……また、明日も来ていいですか?」

「当たり前だ。美味い飯、期待してる」


「あ、あははは、そうでしたね。任せてください!」


はにかんだ笑いを浮かべ、初音は踵を返した。

彼女が無防備に俺に背を向けた瞬間、悪戯心がくすぐられた。先ほどは不意を突かれて後れを取ったが、このまま勝ち逃げされるのは不本意だった。


「ひゃ、ひゃう!? し、慎さん!?」


急に背後から抱き締められ、初音は大いに動揺した。自分から攻めるなら優位でいられるが、不意打ちをされると冷静ではいられないようだ。


「よくよく考えたら、お前に前借させてやる理由がない」


「えっ、えっと……、確かにそうですけどぉ……」

「だから、返却だ」


そう言って、先ほど奪われたキスを強引に奪い返すように、俺は初音の唇を貪った。先ほどの甘く優しいキスは比べ物ならないほど、深く交わるようなキスだ。


「し、し、し、慎さん!?」

「あ~、あと、これは勝手なことしたお仕置きな」


更にもう一度、初音の唇を奪った。

有無も言わさず二回も唇を奪われた初音は真っ赤な顔のまま、完全に硬直してしまった。俺はそんな彼女の体を反転させ、帰り道の方へと突き飛ばした。


「じゃあな、妖怪アンテナ。襲われないように気をつけろよ。あ、でも、大丈夫か? その妖怪アンテナが危険を察知してくるはずだしな」


まぁ、忠告している本人が襲った後だからな。今更なセリフだ。


「うぅ~……。慎さんの馬鹿!!」


蒸気機関車顔負けの勢いで湯気を噴出し、走り去っていく初音。そんな微笑ましい光景に、俺は新たな希望を見出した気がした。

まだこれは始まり。まだ白雪に包まれ、温かな春を待ち続ける二月の出来事だった。











――二ヵ月後


そして、季節は巡り、春が訪れた。

あの厳しい寒さに身を震わせたのが嘘のような麗らかな春の陽気。永い眠りに就いていた緑が芽生え始め、日野塚の町は春色に染まっていく。その中でも、私立犬神学園高校はもっとも春らしい桜色に満ちていた。木造作りの古めかしい校舎に、薄桃色の桜はよく映えた。

今日は四月十日、私立犬神学園の入学式。今年から初音もこの高校一年生となる。俺は授業をサボって、初音の入学を祝いに行っていた。


「よう、入学おめでとう、妖怪アンテナ」

「妖怪アンテナじゃないです! 慎さんの彼女ですよ?」


「やかましい、まだ彼女にしとらんわ」


パシン、と快音。張り手の突っ込みを食らわせ、口の減らない小娘を黙らせた。


「うぅ~……。いい加減、諦めて認めちゃえばいいのに、相も変わらずヘタレっ子ですねぇ、慎さんは……」

「…………」


すでに俺達は半分付き合っているような状態なので、初音を彼女扱いしても一向に構わないのだが、そうしないのは俺にまだマイラへの未練が残っているからだ。それだけマイラへの想いが強い、といえば多少なりとも聞こえはいいが、とどのつまりは初音と付き合うことに臆病になっているのだ。こんなだからヘタレ扱いされても何も言い返せない。


一方、初音は肝が据わっている。一度は諦めていた恋ですからいくらだって待ちますよ、と彼女は宣言したとおり、俺の気持ちが振り向くまで待ち続けている。恋する乙女は無敵なのよ、と言った誰かの戯言は真実だったらしい。


「ま、慎さんがこうして迎えに来てくれただけで私は嬉しいからいいです。わざわざ授業サボってまで、私と一緒にいてくれるんですから」


「……何だか最近、口で勝てた覚えがねぇな」


「唇奪った回数なら、慎さんの方が……」

「やっかましいわ!」


口では勝てないので、腕力で訴える。女に対して実行するには最低の解決策だが、こうでもしないとこの娘は黙らないのだ。


「うぅ、最近の慎さん、手が早いんじゃ……」


そう言い掛けて、初音の言葉は途切れた。視線を見上げたまま、まるで恐怖に竦むかのように固まっていた。俺はその様子を不思議に思い、初音の視線の先を追った。そして、俺も初音同様に凍り付いた。


「……ま、マイラ……」


大神マイラ。二ヶ月前まで俺が付き合っていた人物が、校舎の屋上から俺達を見下ろしていた。しかも、ぼんやりと町の様子を眺めているようには見えない。明確な意志を持って俺達を見下ろしているようにしか見えなかった。


そして、俺達を見下ろすマイラの背後には、男子生徒の姿があった。あの野郎がマイラの言った、好きな人、なのか。マイラの影が妨げとなって、男の顔はよく見えなかった。ただ、授業をサボって恋人同士の甘い語らいをしているようには見えなかった。


マイラとあの野郎はこんな時間に何をやっているんだ……?


あの二人が何をしているのか気になって仕方がない。しかし、もう俺とマイラは何の関係も赤の他人同士。あそこに踏み込むことはできない。


「……慎さん、やっぱり、まだあの人のこと……」


「……俺とあいつはもう赤の他人だ。誰とどうなろうが、知ったことじゃねぇ」


まだ心は痛む。

だけど、俺は前を進むと決めたんだ。

俺はマイラから目を逸らし、初音と共にその場を去ろうとした。その時、マイラの声が聞こえた。いや、聞こえたような気がした。



『……ごめん、ごめんなさい、慎……』


『マイラ……?』



交錯する俺とマイラの視線が、距離を越えて互いの意思を伝えてくれるように思えた。もちろん声が聞こえる訳ではい。しかし、特別な想いを重ねた俺達だからこそ、言葉では表せない何かで繋がっているのかもしれない。




『許してなんて言える立場じゃないのはわかってる。だけど、お願い。貴方を傷付けたこと、謝らせて……』


『……馬鹿。謝るのは俺の方だ。俺はずっとお前に甘えていた。本当はお前の方が苦しんでいたのに、死にたいって願うほどに苦しんでいたはずなのに、俺はそれに気付いてやれなかった。俺ばかりお前に癒してもらって、俺はお前に何もできなかった……』


『……そんなことないよ、慎。私もちゃんと癒してもらった。でも、ごめん……。貴方を振ったのは、私のワガママ……』


『だとしても、愛想尽かされた俺が悪いさ。実際、お前と別れてすぐに女作ってるロクデナシだからな』


『……慎は、やっぱりその子と一緒に行くの……?』


『あぁ、そうだ。……だから、これでお別れだ、マイラ』


『そう、だね。さよなら、慎……』




そこで俺達の繋がりは断たれた。

もう二度とこうして心を通わすことはないだろう。俺とマイラはそれぞれ別の道を行くと決めたのだから。だから、もう二度と俺達の道が重なることはない。

マイラは踵を返し、校舎の奥へと姿を消した。あの男と一緒に。



「慎さん……」



不安そうな初音の瞳が、真っ直ぐに俺を見つめている。

初音は未だ煮え切らない俺の答えを求めている。いや、求めているのは俺の想いだけ。それ以外のものなど何も望んでいない。

俺は今、ここで答えないといけないのだろう。マイラを選ぶか、初音を選ぶか。はっきりとした形で彼女に見せなければいけない。


「なに不安そうな顔してやがる。お前は俺の彼女なんだ。そんな顔、する必要ない」


「慎さん!?」


初音は満面の笑みを浮かべ、俺の胸に飛び込んできた。

その勢いに押し倒されそうになりながらも、俺はしっかりと彼女を抱き止めた。


「お前、いきなり抱き着いてくるな」


「あっ、お仕置きですか? 歓迎ですよ~?」


嬉々として唇を突き出してくる初音。

最近何かやらかすと必ずこのパターンで返してくる。例の件で味を占められ、随分と扱い難くなってしまった。自業自得といわれればそれまでなのだが。



「やっかましいわァァァッ!!」



再び快音が鳴り響いた。初音の頭はいい音で鳴る。

しかし、いくら引き離そうとしても、初音は俺から離れようとしなかった。見ているこっちが幸せになってしまうような嬉しそうな笑みを浮かべたまま、猫のように俺にじゃれ付いていた。


あぁ~……、入学式を終えた新入生達が面白いものを見るような目で俺達を見ている。この一学年分の生温かい視線は拷問以外の何物でもない。


まぁ、だけど、今日くらいは構わないだろう。今まで初音にはずっと辛い思いをさせてきたのだから、今日くらいは彼女の望むままに言うことを聞こう。それだけが俺の贖罪となる。


春、新たな始まりの季節。薄桃色の花が新たな門出をした二人を祝福するかのように舞っていた。悲しみが思い出に変わり、新たな思い出が紡がれる。俺と初音の新たな関係がどんな物語となるかはまだ誰も知らない。だが、それでもきっと素晴らしいものになると予感していた。今日はこんなにも希望に満ちているのだから、明日もきっと希望に満ちた日になるだろう。そんな最高の未来があると俺は信じて疑わなかった。


しかし、この時の俺はまだ知る由もなかった。すでに俺は、これから起こる血塗られた惨劇に足深く踏み込んでいたということに気付いていなかったのだ。そして、深い絶望に打ちひしがれた俺は、再び選択を迫られることとなる。


希望に満ちていた俺には、まだ知り得ぬ残酷な運命なのだが……。




つづく


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