閑話 龍と悪魔
それは惨劇が起こる数分前の出来事。
青き閃光が深き闇を切り裂く。月光よりもなお清く美しい閃光は、爆ぜるように夜空を駆けていく。寝静まった町の上空数百メートルで青き閃光は幾度も瞬き、相対する漆黒の闇と激しい火花を散らしていた。
夜闇よりもなお暗き漆黒の闇は閃光が瞬くほどに深き色へと堕ちていく。青き閃光がどれほどの輝きを見せようとも闇は決して消えはしない。世界は闇によって構築されている。いかなる閃光も永遠の闇に喰われる定めにある。
青き閃光、逢瀬美夜。亜麻色の長髪は月光を反射し、神秘的な輝きを放っていた。身丈の倍以上はある青き翼を背負い、手には二尺九寸の銘刀白夜が握られていた。勇ましき武装とは裏腹に、少女はあまりに可憐な顔立ちをしていた。
漆黒の闇、憂いの切り裂き魔。悲涙を流した仮面で表情を隠し、全身を黒きロングコートで覆っていた。性別不明な長身痩躯。得物には巨大な理髪ハサミを用い、黒き旋風を纏って天を駆けていた。
(……話には聞いていましたが、これは噂以上の実力ですね)
青き翼を翻し、美夜は銘刀白夜を握り直した。
相手の実力を過小評価していた訳ではなかったが、美夜は正直ここまで憂いの切り裂き魔が手こずる敵だとは思っていなかった。美夜得意の空中戦でも憂いの切り裂き魔は一歩も引かない実力を有していた。
目の前にいる敵の認識を改め、美夜は能力のギアを数段上げた。今のままの出力では確実に負ける。憂いの切り裂き魔の実力は少なくても、ブラックファングを持ったマイラより数段上だった。
(……化ケ物ト聞イテイタガ、確カニコレハ化ケ物ダナ……)
漆黒の風を最大展開し、憂いの切り裂き魔は防御に徹するしかなかった。
美夜が全力を出していない、というよりも出せないということを憂いの切り裂き魔は知っていた。彼女は数ヶ月前、神に比肩するほどの霊力を全て失っていた。現在、美夜の霊力は本来の総量の十分の一未満しかないはずだった。
しかし、それでも目の前にいる少女の霊力は、憂いの切り裂き魔の数倍以上だった。加えて、美夜はまだその十分の一未満の霊力すらも全開にしていなかった。
次元が違い過ぎる。彼女を化け物と言わず、何を化け物と呼べばいいのだろうか。
「……貴様ハイツカラ芝崎ノ犬ニナッタ、逢瀬美夜?」
「犬になった覚えはありませんよ。私は私の都合で貴方を足止めしているんです」
美夜は青き翼を羽ばたかせ、静止状態から一瞬にして音速に達した。
彼女の姿は一瞬にして憂いの切り裂き魔の視界から消えた。しかし、美夜のスピードが音速域まで達することは今までの戦闘で充分に思い知っている。憂いの切り裂き魔は慌てることなく得物を振るった。
火花を散らしながら衝突する二人の刃。
憂いの切り裂き魔は卓越した戦闘能力と宙を舞うために纏った風の結界によって美夜の超スピードを感知、予測していた。特に憂いの切り裂き魔が纏う風の結界は、空を舞うためだけのものではなかった。むしろ、敵が風の結界内に侵入する際の気流の乱れで、敵の接近を逸早く察知するための防御結界だった。
「貴様ハ大神まいらノ友人ダロウ? 彼女ガ一人デ芝崎家ノ猛攻ニ耐エラレルハズガナイ。助ケニ行カナクテイイノカ?」
「……こうなった以上、私が止めたところでまた同じことが起こるだけです。ここはあえてマイちゃんには捕まってもらいます。その後で、私の権限でマイちゃんの身柄を奪い返します。マイちゃんはエディンバラの唯一の生き残りで、芝崎家の関与を証言できる唯一の人物ですからね」
美夜は芝崎家が所属している白の派閥の上位組織、清流会の所属である。
清流会、世界の理を守護する者。現在、その組織を正しく知る者は少ない。清流会が為すべきことは全て終わり、世界は正しい理によって支配されている。現在は、白の派閥を含めた多くの下位組織によって管理を行っている。
白の派閥の勢力は確かに世界に影響を与えるほど大きなものであるが、それでも清流会に逆らうことは決してできない。清流会には美夜を含め、神々に比肩するような魔人達が揃っている。逆らえば、死は確定する。だからこそ、派閥は清流会には逆らわなかった。唯一、魔人殺しの任を担っていた黒の派閥以外は。
「シカシ、清流会トイエド裏切リ者ヲ生カスホド甘クモナイダロウ?」
「えぇ。だから、マイちゃんの身柄を保護した後に国外に逃がすつもりですよ。芝崎家やクルキアレの手の届かない遠い場所へ……。マイちゃんも、決して戦いを望んでいるはずではないはずですから……」
大人しくマイラがそれに従ってくれるかは正直怪しかったが、このような事態になった以上、美夜にそれ以外の手立てはなかった。もし、彼女の想い人に同じことをしたとしても決して頷いてくれなかっただろう。だから、美夜は正直マイラを説得できる自信はなかった。
「……虫唾ガ走ル」
歯軋りの音が聞こえた。
と同時に漆黒の風が美夜に襲い掛かった。大バサミが少女の細首を刎ねる寸前、銘刀白夜を間に差し込んで無理矢理に凶刃を止めた。
美夜には憂いの切り裂き魔のような卓越した戦闘能力はなかった。だから、美夜は早く距離を置いて遠距離戦に持ち込みたかった。しかし、相手が簡単にそれを許すほど甘い相手でもなかった。
ハサミの力は凄まじく、非力な美夜ではそれを弾き返すことはできなかった。加えて、もう片方のハサミが執拗に美夜を狙った。あまり美夜にとって有利な状況ではなかったが、それでも彼女はまだ劣勢ではなかった。美夜は青き翼を翻し、その全ての攻撃を完璧に捌いていた。不利な状況にもつれ込んでも決して劣らぬ美夜の能力は凄まじかった。
「偽善ナノダヨ、貴様ノ考エハ! 大神まいらハ、イヤ、我々ハ皆、復讐ヲ望ンデイル! 奪ワレタ最愛ノものヲ、味ワッタ絶望ヲ、我々ハ決シテ忘レルコトハナイ! コノ空虚ナ心ヲ満タスタメニハ、復讐ヲ果タス以外ニアリハシナイノダ!」
「いいえ、違います! 復讐の果てにあるものこそ空虚です! 貴方達は復讐を望んでいるんじゃありません! その空虚な心を満たしたいだけなんです! でも、復讐なんかじゃ貴方達の心は決して満たされることはありません!」
「知ッタヨウナ口ヲ!」
黒き旋風が刃となって美夜を呑み込んだ。
憂いの切り裂き魔は、天空を駆けるほどの風を支配する魔術師。今までは滑空と防御のみに風を使っていたが、それを初めて攻撃に転じさせた。美夜の得物を封じ、手を伸ばせば届くほどに接近した状態で放たれた魔術。これを回避するのは美夜でも不可能だろう。
「……解!!」
「……ッ!?」
予測していた。しかし、それでも憂いの切り裂き魔は信じられなかった。
この至近距離から放った攻撃魔術を瞬時に解呪された。呪縛系や結界系のような固定状態の魔術ではなく、能動的に敵に向かう攻撃魔術をいとも容易く。
あらゆる魔術は術者によって構築されたものであり、全てに解呪する方法が存在する。しかし、だからといって魔力が暴風のように乱れる攻撃魔術を一瞬にして解呪できるはずがなかった。たとえるなら、投げられたボールを空中で解体するような芸当だった。そして、それを可能とする絶対的な対魔術能力こそが美夜の真骨頂だった。
しかし、魔術だけで勝負が決する訳ではない。美夜が憂いの切り裂き魔の魔術を解呪したとして、それで戦いが終わりはしなかった。
「破ッ!!」
敵の一瞬の隙を突き、美夜は刀を振るってハサミを弾き返した。
得物を弾かれ、憂いの切り裂き魔の思考は魔術を解呪された驚愕から戦闘状態へ再移行した。美夜の常軌を逸した能力については事前に知っていたので、驚愕は最小に済ませることができた。両手の得物で再び美夜の首を狙った。
一閃。
凶刃が美夜の首を掠め、青き翼を打ち抜いた。美夜の姿勢が一瞬崩れるが、それでも彼女はその間に刀を返し、憂いの切り裂き魔目掛けて斬り返した。その一太刀と同時に、憂いの切り裂き魔の二撃目が美夜を襲おうとしていた。
両者の白刃が振るわれたのは同時だった。どちらが退かなければ、相打ちとなって勝者なきまま決着がつくだけだろう。
「破ァァァッ!!」
「……ッ!!」
退いたのは、憂いの切り裂き魔だった。
憂いの切り裂き魔は超人的な反射神経で身を仰け反らせたが、それでも一瞬間に合わなかった。悲涙の仮面に一筋の亀裂が走り、小さな音を立てて割れた。二つに割れた仮面はくるくると回りながら、はるか地上へと落ちていった。
そして、今まで隠され続けていた憂いの切り裂き魔の素顔が月下に晒された。
「……やっぱり貴方でしたか、岸辺藍さん」
「どうして……、なんて聞くのは愚問ね。あらゆる気の流れを読み解ける『龍眼』の使い手に、こんな仮面なんて無意味だものね」
憂いの切り裂き魔、岸辺藍は薄く微笑んだ。
正体を晒されたことに対し、藍はさして憤りを感じてはいなかった。むしろ、この超高度での戦いを選んだのは正体がばれることを予期してのものだった。相手が逢瀬美夜である以上、藍は死すらも覚悟していた。
「私の能力は『龍眼』なんてものじゃありませんよ。私自身が『龍』そのものなんです。この世にあまねく霊力を支配する神獣。そして、神に比肩する存在を内包した人間の器、それこそ私の正体です」
少女は龍。
天を支配し、天を駆け巡り、天を我とする存在。
神に比肩する霊力をその身に秘め、森羅万象を支配する世界の守護者。
「とりあえず、質問です。今の貴方のことは、岸辺藍さん、と呼んでもいいんでしょうか? それとも……」
「……いや、岸辺藍で構わない」
彼女は一瞬逡巡したが、それでも自らを岸辺藍と称した。
美夜から彼女を見ると、一つの少女の器に三つの魂が宿っていた。生徒会長として振る舞っていた女性的な魂、現在憂いの切り裂き魔として表層に出ている男性的な魂、底知れぬ魔力を秘めた悪魔的な魂。現状、男性的な魂がもっとも強く表層に現れ、岸辺藍という少女の器を支配しているようだった。
「確かに私……、いや、僕は岸辺藍とは全く別の人格ではある。しかし、かつての人間であった頃の僕の名に今更意味はない。また、岸辺藍という器の名も、『悪魔』としての名についても同様だ。僕達はただ、王の帰還を待つ従者。王が、王として復活するその時まで僕達の存在に意味はない。だから、あえて名乗るとするなら器である岸辺藍が妥当だろう」
少女は悪魔。
悪魔はただ、王の帰還を待つのみ。
災禍の風を支配する魔王が再誕するその瞬間まで、従者はその存在に意味を持たない。
「藍さん、取引をしましょう。ここで大人しくマイちゃんを諦めてくれれば、ブラックファングはお返します」
「…………大神マイラはこちらとしても貴重な存在だ。そうやすやす諦める気はない」
と言いつつも、藍はすでに取引に応じるつもりで思考を切り替えていた。
確かに今彼女自身が言ったとおり、大神マイラの存在は貴重だった。しかし、大神マイラは捨て駒の一つに過ぎなかった。ブラックファングさえ取り戻せれば、替えが利く。
利害を考えれば、ここは取引に応じるのが最良だった。しかし、引き出せる物は限界まで引き出しておきたかった。
「藍さん、私はできれば穏便かつ迅速に事を終わらせたいと思っています。取引をするとは言いましたが、その取引に応じる時間はさして長くはありませんよ?」
美夜は不敵な笑みを浮かべながら、藍にプレッシャーを与えた。彼女は一切譲歩をするつもりはなく、それ以上を求めるならこの取引は破綻と言っている。
藍は逡巡した。分が悪いのは、明らかに藍側だった。これ以上戦っても藍が勝てる見込みはなく、このままマイラの身柄が捕らわれれば何も得られない。
美夜の様子を見る限り、マイラが芝崎家に捕らわれた時点で藍達が手出しできない状況になる可能性は高かった。もちろん藍達がマイラを取り戻せるチャンスは完全に断たれる訳ではないだろうが、それでも今マイラを取り戻さなければ藍達が不利になることは間違いなかった。
「……なるほど、初めからこちらに交渉権はないようだな。それに、貴様にしてみればこの交渉そのものが時間稼ぎ。タイムオーバーで取引そのものが破綻してくれれば、それに越したことはないか……。ぽけーっとしているようで相当の切れ者だな。いや、曲者と言った方がいいか」
「そうですね。ここで取引をすることによってマイちゃんの平穏は恒久的に約束される、というメリットはありますが、それは絶対に必要なものではありません。貴方達が手を出せない場所にマイちゃんを匿えば、それで充分なんですから」
「わかった、取引に応じよう。今後、大神マイラに干渉しないことを約束する」
このまま時間切れでは何も得られずに終わってしまう。それだけは避けたかった。この少女の甘さから考えて、一度交わした取引を反故にする可能性は低かった。ならば、ここで取引に応じておくべきだった。
「ありがとうございます、藍さん。では、後日ブラックファングは……、ッ!?」
「……この魔力は!?」
突如、眼下から凄まじい魔力の奔流を感じ取った。
この邪悪で禍々しい魔力は紛れもなくブラックファングから放たれる魔獣の力。しかし、ブラックファングといえでもこれほどの魔力を放つためには、よほど質の高い贄を喰らう必要があった。今、教会にいる中でその条件に一致する者は一人しかいなかった。
芝崎初音、彼女がブラックファングで殺された。眼下から放たれる強大な魔力を説明するには、それ以外考えられなかった。
「……初音ちゃん」
「やってくれたな、大神マイラ……」
大神マイラが芝崎家の包囲網を破った以上、ここに彼女達がいる意味は失われた。
美夜は芝崎家を守るため藍を足止めしていた。藍は芝崎家を殺すために美夜を倒そうとしていた。どちらの目的も大神マイラが絡んでいるが、もっとも重要だったのは芝崎家だった。その芝崎家の者が殺された以上、ここで対峙する理由も、取引をする理由も失われた。
また、芝崎家の者がマイラに殺された以上、マイラを捕らえられる者はいなくなったということだ。つまり、美夜の計画は芝崎家が倒されたことによって破綻し、藍を足止めする理由も失われた。
藍は小さく溜め息を吐き、懐から予備の仮面を取り出した。そして、再び憂いの切り裂き魔としての姿に戻り、眼下へと降りていった。
美夜は憂いの切り裂き魔を止めず、呆然と眼下を見下ろしていた。百分の一の確率の惨劇が起きてしまった教会を、ただ悲しげに見下ろしていた。
「マイちゃん、どうして思い止まってくれなかったんですか……。己が欲望のままに力を振るえば、どんな末路を辿るかわかっていたんじゃないですか……。なのに、どうして自分自身に負けてしまったんですか、マイちゃん……」
少女の瞳から涙が零れた。
零れ落ちた涙は、月光に煌きながら地上へと落ちていった。
天から零れ落ちた美しき雫は、誰にも知られず惨劇の起きた教会を濡らしていた。
「……どうして、何かを守ろうとすると、何かを失わなければいけないんですか? どうして、全ての人を助けることはできないんですか? 誰かを犠牲にして、誰かを守る? そんなことは、もうたくさんですよ! 誰かが助かっても、誰かが死んだら駄目なんです! 誰かを守るために犠牲になった人は立派かもしれません! でも、立派だからっていいこと訳ないです! みんなが助からないと、駄目なんですよ!!」
一人を守れば、二人を傷付ける。
二人を助ければ、四人を助けられない。
百人を救おうとすれば、千人を犠牲にしてしまう。
世界は、この世にあまねく全ての事象は多くの犠牲の上に成り立っている。しかし、それを知りながらも犠牲のない世界を願った者がいた。かつて全ての人々を守るために戦い続けた戦士が願い続けた儚き夢。そして、それは大切な人を守れなかった少女が受け継いだ想い。
誰一人犠牲にせず、全てを守り抜く。少女が背負った想いは言葉にするほど安い覚悟ではなかった。己がどれほどの血肉を代償にしようとも、誰かの命を守るために戦い続ける。
一人を守るために、十人の痛みを庇う。
二人を助けるために、二十人の嘆きを背負う。
百人を救おうとするために、一万人の死を受け止める。
少女が背負う願いとは、魂さえも代価にして突き進む茨の道。それは、金箔の王子像が貧しき者達のために自らを覆う金箔を分け与えていくようなこと。金箔を剥がされた王子も、金箔を貧しき者達に届けた燕も、最後はゴミ溜めに捨てられる。金箔の王子像はすでに果て、燕は未だ王子の願いを叶えるために空を駆けている。
「……あの人の願い、私の想い、それは届かない夢なんですか? ……誰も悲しむことのない、誰も苦しむことのない優しい世界を願ってはいけないんですか……?」
願いは果てなく遠い。
人の見る夢は、何故いつも儚いのだろうか。
少女の瞳は涙に濡れながらも、その翼はまだ折れてはいない。
閑話休題、終章「それぞれの春」へ……




