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閑話 唯一の信仰


その男の隣にいれば世界を手に入れる瞬間を見られると、本気で信じていた。


ただ、隣にいられるだけでよかった。その男が世界を手にした瞬間、その男の隣にいられれば。誰よりも高い頂に立つその男の姿を見られるだけで充分だった。


幼き頃からその男は神童と呼ばれ、齢が十を数える頃には母国語であるフランス語を含めて一二ヶ国語を自在に扱えるようなっていた。フランスの権威ある枢機卿に愛され、後の教皇候補とすら言われるほどだった。


沼影敦盛にとって、その男は絶対的な存在であった。当時の沼影はまだ熱心なカトリック信者だったが、それでもその男の存在は神以上に崇高な存在だった。その男の隣にいることが神に祈りを捧げることよりも重要なことだと信じていた。


余談ではあるが、当時沼影が滞在していたフランスは国民の七割がカトリック信者であり、幼い頃からフランスで育った沼影がクリスチャンとなったのは自然なことだった。



「アツモリ、君の決心は変わらないのかい? 何故、クルキアレに入ろうなんて……」


「君を守るためだ。君はあまりに優し過ぎるから、敵でさえ許してしまうほどに優しいから、僕が君を守らなきゃ駄目なんだ。そして、あそこなら合法的に『力』を得られる」



沼影はあえて明言を避けたが、彼の言う『力』とは教会で禁忌とされる魔術のことだった。


ヴァチカンには異端者から奪ってきた数々の魔術書が保管されている。その禁書の閲覧を許されるのは、枢機卿以上の権限、もしくは許可を得た者に限られている。しかし、例外的にクルキアレ部隊に籍を置く者には、異端殺しのために禁書を閲覧することが許されていた。


教会に属しながら魔術を知るためには、クルキアレに入隊することが一番の近道であった。しかし、クルキアレ部隊に属するということは、教会に属しながら異端者と蔑まれることでもある。熱心な信徒にとって、異端者と呼ばれることは最大の侮辱である。


「アツモリ、君の信仰は清く正しいものだ。それが疑われるべきものではないことは私が誰よりも知っている。今ならまだ間に合う。考え直すんだ」


「罪から来る報酬が死であったとしても、僕は君を守るために強くならなければならない」


「やはり、君の意志は変わらないのか……」


その男はあまりに優し過ぎた。だからこそ、沼影の決意を理解することができなかった。


あまりに優し過ぎるその男は、自分を狙う悪意の存在を知らない。たとえ、知っていても全て許してしまう。悪意ある者にとって、その優しさは甘さとしかならない。敵を愛しても、敵のために祈っても、奪われてしまう命はあるのだ。


「ならば、せめてこの言葉を君に贈ろう。『恐れてはいけません。私は貴方と共にいます。たじろいではいけません。私が貴方の神だから……』」


イザヤ書、四一章十節。

まさにその言葉は、沼影にとって真理だった。


その男こそ沼影の神。彼にとっての信仰は全て、その男のために捧げられていた。


当時、沼影は十一歳。ヴァチカン異端審問会所属クルキアレ殲滅部隊訓練兵として二年間、古代魔術について貪るように猛勉強した。魔術習得には生来の資質に左右され、資質がなければ一生習得不可能なものだ。幸い、沼影には魔術師となる資質があり、目覚ましい努力の甲斐もあって短い期間で基本的な術式を扱えるようになった。


見るだけで魂まで穢れると言われる魔術書に臆することがなかったのは、全て神と信奉するその男のためであった。禁忌に触れ続けられたのも、沼影のその男に対する信仰があったからだ。











血が滲むような訓練が二年目に達した頃、沼影の耳にその知らせが届いた。


かつて沼影が滞在していたフランスの田舎町で大規模な呪波反応が観測された。


呪波反応とは、あらゆる魔術を行使する際に発生する呪力エネルギーのことを指す。ただし、個人の魔力を用いた魔術によって、他者が感知できるほどの呪波反応は極めて稀だ。たとえるなら、人がどれほど大きく呼吸をしたとしてもそれに気付くのには相当近くにいないといけないことと同じだ。個人の放つ呪波反応は微々たるものに過ぎない。よって、人間一人の魔術によって発生される呪波反応を、数十キロ先から観測することは実質的に不可能である。しかしながら、それが観測されたということは、よほどの規模の魔術が行使されたということに相違ない。


直ちにクルキアレ殲滅部隊から二個中隊が現場に派遣されることとなり、土地感のある沼影も同行することとなった。


二個中隊と聞くと少なく聞こえるかもしれないが、クルキアレ殲滅部隊に選抜された悪魔祓いの実力は一人一人が一騎当千の実力を誇る。通常の任務ならば、班以下の人数で事足りる(場合によっては、非戦闘員を連れていくことも多い)。よほどの大事件にでもならない限り、分隊以上が動くことはまずない。それらを考慮すれば、二個中隊派遣ということがどれほど異常な事態か理解できるだろう。


イタリアの軍学校からかつての故郷へと向かう道すがら、沼影は神と仰ぐ男の安否が心配でならなかった。あの男に限って、魔術師や悪魔風情に後れを取ることはない。しかし、あの優し過ぎる男は敵ですら許してしまう。その甘さを逆手に取られてしまえば、呆気なく殺されてしまうこともあるだろう。


美夜に似ている。もし、マイラ達がその男を知っていたのなら、彼にそんな印象を持っただろう。強く気高くも、その限りなき優しさが弱さに繋がってしまう。


沼影の故郷で起こった呪波反応の根源は、その男の優しさが招いてしまった。


ボルドー近郊にてクルキアレ殲滅部隊が後一歩まで追い詰めた魔術師がいた。クルキアレ殲滅部隊の伍長と互角の戦いを繰り広げ、勝利を収めるほどの実力者だった。しかし、その伍長との戦いはあまりに壮絶で、魔術師は満身創痍となっていた。残る力を振り絞って、命辛々沼影の故郷である田舎町に辿り着いた。しかし、その魔術師はそこで力尽きた。


そして、その魔術師を最初に見つけたのは、沼影が神と仰ぐ彼であった。その男は魔術師から放たれる血と罪のにおいに気付きながらも魔術師を懸命に介抱した。


魔術師は生まれて初めて、異教の神に感謝した。


この死の淵において愚かな獲物を授けてくれた神に対して。


そして、限りなき優しさが招いてしまった災禍が起こってしまった。


ヤドリギは西洋魔術において重要な役割を持つ。ケルトの祭司ドルイドはヤドリギの巻き付いた楢の下で儀式を行い、北欧神話では万人から愛された光の神を殺した剣はヤドリギで作られた。聖なる樹木として崇められ、強力な呪力があると信じられていた。


魔術師はヤドリギを用いた魔術をもっとも得意とし、人間に寄生させることを特に好んでいた。


沼影が到着した時、そこは死と恐怖のみが蔓延する地獄だった。


魔術師にとって想定外だったのは、その男の魔力が魔術師の手に余るほど強大であったこと。ヤドリギの寄生を成功させたものの、その男の魔力を際限なく吸い続けたヤドリギは術者の思惑を超えるほど強大に成長した。結果、村一つを喰らい尽すほどまでに暴走してしまった。


今となっては魔術師がヤドリギを使ってどんな術式を構築したかは不明だった。しかし、暴走したヤドリギに喰われた村を目撃した沼影は、原爆の投下された広島を想起させる壮絶な光景だったと言う。人々は消し炭ではなく、精力を吸い尽されてミイラとなっていた。村は焼け野原ではなく、暴走したヤドリギに覆われていた。それでも、この凄惨な光景はかつての広島に見劣りするようなものではなく、人の業によって生まれた現世の地獄だった。



「これでは案内役を連れてきた意味がないな」



クルキアレ殲滅部隊第六中隊隊長は、凄惨な村の光景を見てもそうぼやくだけだった。


殲滅部隊では中隊長、階級にすれば大尉が実質的な最高責任者だった。佐官以上は名目上置かれる教会上層部のお飾り。尉官こそクルキアレ最強の魔人達だった。



「……『炎の鉄槌』だな」



炎の鉄槌。

クルキアレ殲滅部隊のある作戦行動を指す隠語である。

異端に関わった一切を灰塵に帰せ。穢れた存在全てを徹底的に焼き尽くすという恐ろしく単純な作戦。しかしながら、クルキアレ殲滅部隊でもっとも行われる作戦行動であった。


第六中隊は、クルキアレ殲滅部隊の中でも『炎』に特化した戦闘部隊。芝崎家と繋がりが深く、BLS開発を支援した部隊でもあった。この事件の二年後に、フェーリア家殲滅を行うのも第六中隊だった。


沼影の故郷もクルキアレ殲滅部隊によって焼き払われた。家族と呼べる者も、友人と呼べる者も全て灰塵に帰した。そして、あの男も故郷を焼き尽くす業火の中にいるはずだった。だから、沼影は彼を求めて一人駆け続けた。


そして、沼影は二年越しの再会を最悪の形で迎えた。


かつて共に夢を語り合った教会は、魔術師の悪意によって生まれたヤドリギによって蹂躙されていた。もはやそこは沼影の知る場所ではなく、その男もまた沼影の知る面影を失っていた。



「やぁ、アツモリ……。久し振りだね……」


「なんで、こんなことに……」



その男はヤドリギに肉体のほとんどを侵食された状態であっても、まだ沼影に笑顔を向ける力があった。ヤドリギは村一つを喰らい尽すほどに成長してもまだ、その男から魔力を吸い出し続けていた。


近寄ろうにも膨大に成長したヤドリギによって道を阻まれていた。ヤドリギはその男ごと天井のステンドグラス近くまで伸び、よじ登らない限り届きそうにもなかった。


「今助ける!」


沼影は道を阻むヤドリギを越え、よじ登り、彼の元へと向かおうとした。


「無理だよ、アツモリ……。僕はもう助からない」


「何を言っているんだ! 絶対、絶対に助ける! 僕はそのために強くなったんだ!」


「僕の体はもう完全にヤドリギと一体化している。無理に切り離せば、僕は死ぬだろう。それに、このヤドリギをこのまま野放しにすることもできない。仮に僕をこのヤドリギから切り離すことができたとしても、僕の魔力がある限りこのヤドリギは再び蘇るだろう。だから、僕ごとこのヤドリギを殺すんだ、アツモリ……」


「なっ!? そ、そんなことできる訳がないだろう」


沼影はその男を守るために、力を得ようとした。その男のためだからこそ、どんな厳しい訓練にも耐えることができたのだ。それなのに、その男を殺すために力を振るうなどできるはずがなかった。



「今、僕を救う方法はそれだけなんだ、アツモリ……。このままでは僕はヤドリギと共の愛すべき人々を殺し続けてしまう。そんなことは耐えられないんだ。だから、君の手で殺してくれ……」



その男がそう願うことは理解できた。

彼はあまりにも優し過ぎるから、大切な人々を殺すくらいならば自らの命を差し出す。しかし、だからこそ沼影はあらゆる悪意から彼を守ろうとしたのだ。そのために自らの魂を穢しながらも強くなろうとした。



「嫌だ、そんなことできる訳がない! 僕は必ず君を助ける!」


涙が止まらなかった。その男を助けることも、願いを叶えることもできなくて。


それを理解しながらも、沼影はそう叫ばずにはいられなかった。ここで屈してしまえば、今まで積み重ねてきた全てが意味を失うから。自己の存在価値すらもなくなってしまうから。だから、沼影はその男を助けると叫び続けた。


しかし、無情にも、幸いにも、その男の願いを叶える存在が教会に来訪してしまった。


「……あの男がヤドリギの核だな?」

「た、隊長……」


クルキアレ殲滅部隊最強の魔人は、悠然とその男を見上げていた。


沼影はその声を聞くまで中隊長が自分のすぐ背後にいることに気付きもしなかった。魔人の存在感は見ただけで屈伏してしまいそうなほど圧倒的だというのに、その接近は恐ろしく静かだった。


炎の鉄槌を下した以上、中隊長が村の人間を生かすはずがなかった。異端に関わった全てを滅する。つまり、彼は助からない。それは決して覆らない決定事項だった。



「えぇ、そのとおりです。どうか僕をこのヤドリギごと殺してください」


「無論、そのつもりだ」



中隊長が片手を掲げ、その男に照準を合わせた。

炎に特化した部隊において、最強の炎を従える魔人。あらゆる罪と穢れを焼き尽くす煉獄の業火を振るい、異端者に死を与える大天使。第六中隊ではそのように称され、崇め恐れられていた。


「……や、やめてください! 今ならまだ助けられるかもしれません! どうか、どうかお慈悲を……」


一度下された決定は絶対であり、覆ることはなかった。異端をこの世界から殺し尽すこと、それこそがクルキアレ殲滅部隊の掟。それを理解しながらも、沼影はそう懇願せずにはいられなかった。神と崇める男を守るため、沼影は魔人の前に跪いた。


しかし、魔人の眼光に慈悲の輝きは一切なかった。



「……アツモリ、もう僕のために自らを犠牲にすることは止めるんだ。あの魔術師を改心させることができず、再び魔道へと落としてしまったのは僕の罪。だけど、神は真実で正しき方。その罪を許し、全ての不義から私達を清めてくださる……」


「だ、だけど……、うわあああッ!?」



未だ懇願を続ける沼影を、中隊長は容赦なく投げ飛ばした。

この場で為すべきこと理解していない者を排除し、罪深きその男を見上げた。



「……神に祈る時間をやろう」


「……感謝いたします」



もし、罪がないと言うのなら、それは自らを欺くことであり、真理は私達の中にない。


もし、私達の罪を告白するのなら、神は真実で正しき方であるから、その罪を許し、全ての不義から私達を清める。


もし、罪を犯したことがないと言うのなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言は私達のうちにない。



「やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」



そして、世界は穢れなき赤に染まっていった。






閑話休題、八章「夜明け」へ……


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