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第六章 奪われた希望(後編)


二年前、慎と出会う十日前。

当時、私は一四歳にて妊娠八ヶ月だった。


一般的にいえば、かなり早い妊娠だと思われるが、私達のような亜人ではそれほど早い時期ではなかった。


亜人の妊娠が早くなる理由としては、亜人は元々絶対数が少ないために、種を存亡させるために多くの子孫が必要となる。そのため、早期に婚姻を結んで、子を生まされる。


また、亜人のコミュニティーはどうしても人間社会から隠蔽しなければならないので、閉鎖的となってしまう。閉鎖的なコミュニティーは一般的な社会よりも早く婚姻するので、出産も早くなる。


最後に特殊な理由として、人間よりも成長の早い種や、長命短命な種など、独自の生態によるものもある。


私は一三歳に本家の長男(ちなみに私は分家の娘)、カーティス様の側室として嫁いだ。ウェアウルフでは珍しく物静かな方で、いつも屋敷で読書をしていた。柔和な笑みを絶やさず、よく頭を撫でてもらった。夫というより、優しいお兄さんのようだった。


臨月の近かった私は、カーティス様と共にエディンバラから少し離れた場所にある古城で過ごしていた。旧市街と新市街が美しく調和した町並みから離れた丘に聳え立つ古城は、エディンバラ城ほどではないにしろ荘厳なものだった。


あの日は、一年に一度の一族の集会であったが、そこで話されたことといえば、出産の近い私のことばかりだった。ヴァンパイア種やウェアウルフ亜種は長命であることと引き換えに出生率が低く、絶対数も少ない。そのため出産は諸手を上げての祝い事だった。


親戚一同に揉みくちゃにされ、ようやく開放された頃には宵の刻を過ぎていた。しかし、緯度の高いエディンバラの冬は日が長く、まだ空は闇に包まれてはいなかった。



「寒くないですか、マイラさん?」


「あっ、カーティス様! 雪ですよ、雪! こんな日に家でじっとしていられる訳ないじゃないですか! 最近は全然外に出られなくて、ストレス溜まってたんです! 今はみんな酔っ払ってますし、監視もいません! 今遊ばずにいつ遊ぶって言うんですか!」


「もう臨月も近いというのに、元気ですねぇ。まぁ、マイラさんらしいですけど」



雪にはしゃぐ私を見て、苦笑をするカーティス様。庭園の中央にいる私に近付くと、カーティス様は上着を脱ぎ、私の肩にかけてくれた。


さり気ない気遣い。慎もあれで優しいところはあるが、優しさという点では遠く及ばない。思えば、慎とカーティス様は真逆な性格だった。



「でも、体を冷やすのは胎児によくありません。さぁ、戻りましょう?」


「うぅ~……、そういう言い方はずるいですよ……。戻るしかないじゃないですか……。カーティス様もみんなも心配し過ぎですよ……」


「一四年振りに一族に子宝が恵まれたのです。慎重になるのは当然でしょう?」



亜人の中には出生率の著しく悪い種が存在する。ウェアウルフ種もそうした種の一つで、私が生まれて以来、私の一族に子供は生まれていなかった。



「そうだ。お前はもう自分一人の身ではないのだぞ」

「ヴィ、ヴィオラ様!?」



ヴィオラ様は、カーティス様の正妻。カーティス様が一五歳、ヴィオラ様が一七歳の時に結婚し、以降十年以上カーティス様を尻に敷いている。落ち着いた雰囲気のカーティス様と違い、鋭く剣呑な雰囲気をまとっている御方で少し怖い。正妻を差し置いて妊娠してしまったという立場もあり、できればあまり顔を合わせたくない人物だった。


「おい、マイラ。何だ、今の反応は? それと、失礼なことを考えたな?」


「い、いえ、滅相もないです! はい!」


おまけに勘もいい。ウェアウルフの女として憧れていた部分もあるが、当時の私の中では恐怖の方が大きかった。


「そ、それより、ヴィオラ様、ウィル伯父様達と呑み比べしてたんじゃ……」


「ふん、飲み比べで私と勝負できるのはお前くらいだ」

「あ、あははは……」


いや~、私も負けず嫌いなもので、妊娠前に呑み比べをしたことがあった。さすがに普段呑み慣れていなかったので全く歯が立たなかったのだが、それでも他の親戚よりはマシだと認められた。


「いいか、マイラ! ウェアウルフの女にとって出産は一世一代の大勝負だ! 子供のことを第一に考え、行動しなければならないのだ!」


「は~い……」


耳にタコができるほど聞いたセリフ。ヴィオラ様に限らず、一族の女性陣ほとんどに言われた。一族の中で私が一番下なので文句を言うこともできず、正直嫌いなセリフだった。


「戻るぞ、マイラ。カーティスもこいつを甘やかすな」

「「はい……」」


私とカーティス様は項垂れながら、ヴィオラ様に連行されていった。

せっかくの雪だというのに、遊ぶことさえできないとは、妊娠中というのはつまらない。私は素直にヴィオラ様の注進を受け取れず、子供っぽい反発心を抱いてしまった。



「時にマイラ、子供は女の子らしいな?」


「はい、そうです」



子供の性別は生む時の楽しみにしたかったのだが、周りの親族に無理矢理調べさせられた。その結果、私の中に宿る命は女の子だと判明した。


「名前は決めたのか? 子に名を付けるのも、母の役目だぞ」


「はい、もちろん決まってます。子供の名前はずっと考えていたんですから」


「ほぉ、感心だ。して、子の名は何と言う?」


「……ホープ。この子が、一族の新しい希望になってくれることを願って付けました」


「ホープ、か。うむ、いい名だ。その名のとおり、みなの希望になってほしいな」


普段怒られてばかりなので、ヴィオラ様に褒められると嬉しくなってくる。カーティス様も隣で、いい名前ですね、と微笑んでくれた。


この時の私は、明日は無条件で幸せなものだと信じていた。当然のようにいつもの日々が訪れ、温かな笑みに囲まれながら、我が子の生誕を迎えられると思っていた。


惨劇が起こったのは、それから三時間後のことだった。











薄い闇に包まれた夜。深々と降りしきっていた雪も止み、エディンバラの夜は静寂に満ちていた。


身重の私は、いつものように少し早い時間に床に就いていた。しかし、その日は何故か眠ることができず、窓から夜空を眺めていた。できれば、月を見たかったのだが、今日は不幸にも新月だった。


伝説のウェアウルフは満月を見ることで狼(獣人)と化すと謂われているが、実際はそんなことはない。この伝説の由来は、おそらく擬態を解いた時のウェアウルフの姿が化け物に見えたのだろう、と謂われている。正直面白い話ではないが。


しかし、ウェアウルフと月に何の関連性が全くない訳ではない。


かつてのウェアウルフ種は人間社会から離れ、深い闇に閉ざされた場所を住まいにしていた。そのため、我等の種にとって月は唯一の光。いつしか、月はウェアウルフの信仰の対象となっていた。亜人の多くは、月を信仰する宗教も多く、特にヴァンパイア種の信仰はもっとも古く、戒律が厳しいことで有名だった。


宗教を信じている訳ではないが、私は月が好きだった。心洗われるような月光が、まるで優しげに笑うカーティス様のように思えたから。


「んっ? 足音?」


夜空を眺めていた私の耳に、慌しい足音が聞こえた。相当急いでいる様子だった。

足音が聞こえてからしばらくして(ウェアウルフの耳はかなり遠くまで聞こえるのだ)、部屋の扉が勢いよく開いた。



「ヴィオラ様?」



こんな夜更けに突如現れたのは、ヴィオラ様だった。いつも凛々しい彼女にしては珍しく、息を荒立て慌てているようだった。


「ぶ、無事か、マイラ……?」

「無事? 何のことで……」


と言いかけた時、妙に足並みの揃った複数の足音が聞こえた。訓練を受けたような整然と揃った足音だった。何故、こんな夜更けに軍人のような足音が聞こえるのだろうか。エディンバラの古城には、私達ウェアウルフ以外いるはずがないというのに。


胸がざらついた。私の第六感が本能的に危険を告げていた。


「くそ、早いな! 行くぞ、マイラ! ここはもう危険だ!」

「な、何が起こったんですか、ヴィオラ様!?」


「我等ウェアウルフを脅かすような連中は一つしかないだろう! クルキアレ殲滅部隊が攻めてきた!」


クルキアレ殲滅部隊。未だに秘密裏に存在する異端審問会に所属し、異端者や異教徒、そして私達亜人を殺し尽くすための戦闘部隊。もっと端的に言えば、一方的な殺戮を殉教と勘違いしている下衆な連中だ。


キリスト教の最盛期であれば、異端者や異教徒(あとは私達のような亜人)を殺すことに、それなりの建前を持って行えただろう。十字軍や魔女狩りがいい例だ。しかし、現在表向きには異端審問会は廃絶され、そうした非人道な虐殺は行われていないとされている。


しかし、実際連中はまだ存在している。千年以上にも渡って殺戮の限りを尽し、未だに多くの同胞が連中に殺されている。そして、今も私達ウェアウルフ一族が狙われている。


「く、クルキアレ……」


「そんな情けない顔をしない! お前はこれから母となるのだ。お腹の子を守らなければいけないのだ。母ならば、決して弱さを見せるな」


ホープ。私の子供。みんなの希望。

必ず守らないと。私の命に代えてでも、この子だけは絶対に守らないと。


「いい目だ。その意志があれば、大丈夫だろう。行くぞ、マイラ」

「はい!」


ヴィオラ様に手を引かれ、私達は部屋を出た。廊下を駆ける音が二つ、エディンバラの古城に響き渡った。追跡者も私達が逃げたことに気付き、走り出したようだ。思った以上に多くの刺客がいるらしく、かなりの足音が聞こえた。


「あの、お父様やお母様は無事逃げられたのですか、ヴィオラ様?」

「…………」


何でもズバズバと物申すヴィオラ様が、唇を噛んで私から目を逸らした。そして、私の問いには答えず、そのまま私の手を引き続けた。


また胸がざらつく。追求するな、と本能が告げていた。しかし、私は両親の安否を聞かずにはいられなかった。血と家族はウェアウルフにとって何よりも重んじられることだから。



「……ヴィオラ様、答えてください……」


「クルキアレの襲撃は主に奇襲だ。ホールにいた者達は奇襲に合い、大半はそこで……」



お父様もお母様も親戚と一緒にホールで……。

う、嘘! そんなことある訳ない! お父様は私の十倍は強い! たとえ、ヴァチカンの連中がどんな卑劣な手段を使おうと、お父様が負けることなんて絶対にない! お母様だって、ウィル叔父様だっている! そんなことがある訳……、ある訳ない!



「じょ、冗談は止めてください、ヴィオラ様……。わ、笑えませんよ」


「……マクシミリアン様とマリアン様は……」



マクシミリアンとマリアンは、私の父と母の名だ。

何を言おうとしているんですか、ヴィオラ様? どうして私の目を見ないんですか? 嫌、聞きたくない……。ヴィオラ様の冗談は全然笑えない……。


私は立ち止まり、ヴィオラ様の手を振り解いた。そして、小さな子供のように激しく首を振り、頭を抱えるように耳を塞ぎ、彼女の言葉を拒絶した。


しかし、ヴィオラ様の言葉は私の意思を無視して、私の耳に届いてしまう。


「……私とカーティス様を庇って、亡くなった……」

「嘘だァァァァァァァァァッ!!」


信じない……。

お父様とお母様が死んだなんて、嘘に決まっている……。

ヴィオラ様の冗談は、本当に最低だ……。


「マイラ! 立つんだ! ここにいては殺されるだけだ!」

「嘘、嘘、嘘……」


「軟弱者! しっかりするんだ! お前の身は一人ではないのだ! こんなところで死んではいけないのだ!」


……そうだ、私のお腹には赤ちゃんがいる。

この子は、この子だけは絶対に死なせてはいけない!


母としての本能が、絶望に打ちひしがれていた私を立ち上がらせた。


どれほどの悲しみや苦しみに苛まれようとも、母は子を守るために命を燃やす。自らを犠牲にしてでも、子を守るために戦う。お母様やヴィオラ様に教えられてきた言葉の数々が甦ったが、この時ようやくその言葉の真の意味を知った。


「……そう、私は母親になるんだ。この子の、ホープの母にならなきゃいけないんだ……。こんなところで殺される訳にはいかない!」


「マイラ……、よく立った。それでこそウェアウルフの女だ」


手を引かれるままだった私は、自らの意志で歩き出した。

生きなければいけない。何があっても、私はこの子を守るために生き残らなければならない。


本当はヴィオラ様に手を引かれた方が速いのだが、ヴィオラ様は何も言わずに私の歩みに合わせてくれた。私の意志を買ってくれたのだろう。

しかし、刺客の足音は確実に近くなっていた。


クルキアレ殲滅部隊は、私達を以ってしても化け物と謂わしめる悪魔のような集団だ。普通に逃げても逃げ切れる可能性は低かったが、それでも想像よりずっと早く追いつかれてしまいそうだった。


そんな時、前方からも慌しく走る足音が聞こえた。一瞬、クルキアレの連中に回り込まれたのかと思ったが、足音と交互に混じる金属音から、前方から走ってくる人物を特定することができた。


「ヴィオラ、マイラ!」


「ウィル伯父様!」

「お父様!」


ウィル伯父様。ヴィオラ様の実父であり、喧嘩では無敗を誇っていた荒くれ者だったが、数年前にクルキアレ殲滅部隊との交戦で片足を失っていた。それ以来、金属の義足を付けていた。しかし、義足になっても実力に衰えはなく、私はおろかヴィオラ様でさえ勝つことができない。ただし、酒には滅法弱い(そのくせ悪酔いするまで呑みまくる)。


ウィル伯父様は顔には大きな火傷を負い、全身には数え切れない傷を負っていた。幸い、致命的な怪我は負っていないようだが、それでも満身創痍だった。


「無事だったか……」

「はい! ウィル伯父様もご無事で何よりです!」


「あぁ、老いたとはいえ、そう簡単にはやられんよ。だが、あまりに相手が悪い……」


ウィル伯父様らしからぬ弱気な発言だった。たとえ、勝てぬ戦であろうとも決して引かぬ蛮勇な方なのに、こんな弱音を吐くとは少々意外だったし、少し幻滅してしまった。


「お父様! たかがヴァチカンの犬にそのような……」


「……犬、か。否定はしない。だが、貴様等は犬以下の糞共だ!」

『……ッ!?』


古城の廊下に響く声。

ただ声を聞いただけなのに、私の中の何かが警鐘を鳴らした。


殺される……。


背後から感じる圧倒的なプレッシャーはあまりに圧倒的で、私は戦う前から敗北を悟ってしまった。絶対的な捕食者に追い詰められた恐怖が、全身を駆け巡る。自らの力に絶対の自信を持つウェアウルフの女が、相手を見ずして恐怖に屈してしまった。


情けない、と自分を叱咤することもできなかった。そんな考えに至る隙さえないくらいに、私の思考は恐怖に呑まれた。


「……セントエルモの火?」


振り返った闇の向こうには、青白い光が見えた。

私が口走ったセントエルモの火とは、尖った物体などに発生する青白い発光現象のことだ。その名の由来は、船乗りの守護聖人である聖エラスムス。


闇の向こうに揺らめく青白い光はセントエルモの火とは明らかに違い、まるでランタンのようなおぼろげな光だった。しかし、初めはおぼろげだった青白い光は徐々に巨大になっていき、まるで全てを覆い尽くさんばかりになっていった。


そして、その青白い輝きが、何故か生涯最後の光景になるような錯覚を覚えた。


「ヴィオラ、マイラ!!」


ウィル伯父様が突然駆け出し、私とヴィオラ様を押し退けて、青白い火の前に立ちはだかった。


次の瞬間、全てが青に呑み込まれた。


私が気付いた時には石造りの壁は真っ黒に焦げ、絨毯は無残に消し炭と化し、ウェアウルフと共に歴史を共にしてきた調度品は見る影もなく炭化していた。私の意識が一瞬途切れたその間に、美しい古城の内装は一瞬にして失われていた。


「ぶ、無事か、二人とも……」


青白い光から私達を庇ったウィル伯父様もまた、目も当てられないほどの大火傷を負っていた。ダンディな髭も見る影もなく、消し炭と化していた。


素人目から見ても、間違いなく致死傷だ。今、目の前に立っていることさえ信じられないほどの。


「お、お父様……」

「ウィ、ウィル伯父様……」


「どうやら、無事のようだな……」


ほとんど傷を負っていない私達を見て、ウィル伯父様は安堵し、力尽きた。


ヴィオラ様は倒れるウィル伯父様の体を支え、青き炎が襲ってきた方向を睨み付けた。そこには、声だけで私達を萎縮させた化け物がいた。


「……さすがは鉄壁のウィリアム。あれを食らってまだ生きているとはな」


その男は、天秤の紋章が刻まれた真紅の法衣を纏い、凍り付くような青き炎に包まれていた。業火のような赤い髪、それとは対を為す氷河のような青い瞳。狂犬のような血に飢えた雰囲気を持ちながらも、その瞳は死人のような暗さを秘めていた。長身で年嵩に見えるが、まだ大分若そうだった。一見すれば、ただの美しいだけの少年だった。


しかし、私は一瞬で悟った。


この男こそがクルキアレ部隊の指揮官であると。

異能の力を持ち、私達を蹂躙するために訪れた悪魔であると。

化け物を殺すための化け物集団の中にあっても、なお化け物と恐れられる存在であると。


男の後ろには、彼と同じ赤い法衣を纏った連中が控えているが、格の違いは明らかだった。恐らく彼等一人一人も相当な手練れなのだろうが、この男と比べれば大人と赤子くらいの差はあるだろう。それくらいの圧倒的な力の差を感じられた。


「……青い燈篭ブルー・ランタン……」


ブルー・ランタン?

あの男の名前、いや、通り名か暗号名のどちらかだろう。何度かクルキアレ殲滅部隊と対峙したウィル伯父様なら、面識があっても不思議ではないだろう。


「残念だ、鉄壁の。敵とはいえ、貴様との決着がこんなつまらぬものになるとはな。お別れだ、鉄壁のウィリアム。はーっははははははははははははッ!!」


「……青二才が、もう勝った気でいるのか? だから、いつも貴様は詰めが甘いのだ……」


ウィル伯父様は一瞬だけ、私達に目配せをした。逃げろ、とそう伝わった。恐らく、私達が束になっても、ブルー・ランタンには勝てない。自分がブルー・ランタンを引き付けるからその間に逃げろ、というのだろう。


しかし、ウィル伯父様はヴィオラ様の父親だ。私にとっても大切な伯父。大切な血族を見捨てて逃げるなんて、そんな情けない真似はできない。


私は懐のナイフに手を伸ばし、あの澄ました面の優男に斬り付けてやろうと思った。しかし、私の手はヴィオラ様によって止められた。



「……行くわよ、マイラ」


「な、何を言っているんですか、ヴィオラ様!? ウィル伯父様を見捨てる気ですか!?」


「私達の使命は、生き残って種を絶やさぬことよ……」


「ヴィ、ヴィオラ様……」



ヴィオラ様の唇から血が零れていた。あまりに唇を強く噛んだために切れたようだ。


ウィル伯父様を置いて逃げる、という選択に一番心を痛めているのは、実の娘であるヴィオラ様だ。そのヴィオラ様が使命を果たすと決めた以上、私は逆らえなかった。



「……ウィル伯父様、ごめんなさい……」


「……お父様、新たな希望は私の命に代えても守り抜きます。ヴィオラは血と誇りのために戦い抜きます。お父様のように……」


「うむ……」


ヴィオラ様は私の手を引き、一度も振り返らずに走り出した。

強い女性だ。両親の死に取り乱した私なんかとは違う。血と誇りのために、全てを賭す真のウェアウルフの女だ。


しかし、あまりにも悲し過ぎる。


実の父親を見捨ててまで、種を残すことがそれほど大事なのか。肉親が殺されるとわかっているのに、血と誇りのため、と正当化して逃げることができるのか。


闇に包まれた古城を走りながら、私は何度も振り返った。ウィル伯父様の姿が完全に闇に飲まれた後も、何度も振り返った。


そして、漆黒が青に飲まれた光景を見て、私は振り返るのを止めた。


涙が止まらなかった。私も、ヴィオラ様も。大粒の涙を零しながらも、私達は走り続けた。どれだけ悲しくても、どれだけ辛くても、歩みだけは決して止めなかった。











この城には、祖先が数年の年月をかけて掘り進めた秘密通路があった。作った理由については今更説明など必要ないだろう。ある程度の人数が通れるように、それなりの広さがある通路だったが、それでも広いとは言い難い。四、五人が横に並べる程度の幅で、高さも二メートル半以下。坑道を少しマシにした程度の通路だった。


ここまで来れば大丈夫と思っていたが、どうやら私の考えは甘かったらしい。秘密通路にまで、追っ手が迫ってきた。


さすがは私達のような連中を追い詰めるプロフェッショナルだ。巧妙に隠されていた秘密通路をあっさりと見つけてしまうとは。クルキアレの連中も相当な場数を潜っているのだろう。秘密通路に逃げ込んだくらいでは、逃げ切れないらしい。


私はそろそろ限界が近かった。元々種的に持久力が乏しい上、妊娠八ヶ月でかなり大きくなった赤子を抱えている。全力疾走がいつまでも続くはずもなかった。


一方、クルキアレ部隊は確実に私達との距離を詰めてきている。足音がかなり近くまで来ていた。



「マイラ、頑張れ! 奴等に追い付かれたら、終わりだ!」


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」



返事はできなかった。しかし、その分は足で答えた。

ここで私達が殺されたら、ウィル伯父様を犠牲にした意味がなくなってしまう。私達のために命を捨ててくれた者のためにも、私達はここで死ぬ訳にはいかなかった。


「あ、あれは!?」


私に声をかけるために振り返っていたヴィオラ様の目に何かが映った。一瞬、遅れて私も振り返った。


青。絶望の青が迫っていた。

次の瞬間、ヴィオラ様がその青から庇うように私を抱き締めた。


そして、煉獄の炎が私達を包み込んだ。しかし、業火は私まで届かない。ヴィオラ様が身を挺して私を庇ってくれたから。


ヴィオラ様は全ての炎を一切漏らさず受け止め、私には火傷一つ負わせなかった。しかし、その代償はあまりにも大きかった。



「ヴィ、ヴィオラ様、髪が……」


「だ、大丈夫。心配するな……」



流れるように美しいヴィオラ様の髪が、無残に焼け落ちていた。髪だけでなく、背中は肉がただれるほどに焼け、致命傷なのは間違いなかった。



「……マイラ、私を置いて、行け……」



ヴィオラ様が言わんとすることは理解できる。


このまま一緒に逃げても足手纏いになるだけ。たとえ、ここで逃げられたとしても、町に辿り着くまで生きていられる保証はない。身重であっても私一人で逃げた方が助かる可能性が高い。


理屈では、ヴィオラを置いて逃げるのが一族のためだ。一人でも多くの種を残すことがウェアウルフの女の使命なのだ。


「そんな……、そんなのって……」


「わかるだろう……、マイラ……。行くんだ……」


残った力で私を突き飛ばすヴィオラ様。しかし、凛々しく美しいヴィオラ様とは思えないほど弱々しい押し方だった。



「……ヴィオラ様を置いて、逃げるなんて……」



どうして、どうしてそんなことが正しいの?

大切な人達を見捨てて、みすぼらしく生き残って、それでどんな意味があるというの?


血と誇りがあるなら、最後まで戦うべきではないの?


「……ホープ、よい名だ……。できることなら、私もその子の顔を見たかった……。いや、できることなら、私があの人の子を身ごもりたかった……。

 はは……、私は弱いな……。この期に及んでも、私はお前に嫉妬している……。

 マイラ、こんな女のために馬鹿なことを考えるな……。逃げて、逃げて、生き残れ。そして、頼む……。あの人の子を、ホープを、産んでくれ……。

 その子は、みんなの希望なんだ……。生きて、その子を産め……。それが、お前の使命なんだ!!」




どうして、どうして、どうしてッ!?


こんな立派な人が死なないといけないのッ!?


でも、私の母としての本能が、生きろ、と訴えるッ!!




「はーっはははははははははッ!! 鉄壁の犠牲は無駄になったな」

「ぶ、ブルー・ランタン……」



恐怖と憎悪が渦巻く。

ウィル伯父様でさえ勝てぬ絶対的な力に対する恐怖。

ウィル伯父様を無残にも殺されたことに対する憎悪。

この男が私の家族を殺した。絶対に許してはいけない悪魔。


「……マイラ、ここは私が時間を稼……」

「無理だな。俺が相手をしなくても、時間稼ぎすらできぬだろう」


「くっ……」


ブルー・ランタンの指摘は正しい。ヴィオラ様はまともに立つことすらできぬほどの重傷を負い、今の状態では普通の人間にすら勝てぬだろう。相手は私達のような人間以上の存在を殺すための特殊部隊、障害にすらなれぬまま無残に殺されるだけだ。


「この狭く酸素の少ない通路でこの火力……。貴様のその炎は、魔力を媒体とした術式だな? だから、これほどの威力を……」


物理現象の燃焼は酸素を媒体にして起こるものだが、魔力(霊力と呼ばれることもある。呼び名が違っても意味はほぼ同じ)を媒体にした炎は酸素を消費しない。


魔力そのものは、基本的にほとんどの物理法則の影響を受けない。そして、魔力を媒体に起こされた現象は、物理法則に影響されずに本来の物理現象に近い効果を生む。それがどれほど物理法則に影響されるかは、その能力者や現象次第で変わる。



「術式とは違う。これは楔だ。俺の命を代償に、得た力」


「ブルー・ランタン、ここは絶対に通さない……。一分でも一秒でも、貴様を足止めし、我等の希望を生かす……」



ヴィオラ様は致死傷にも拘わらず、凛々しく立ち上がり、両手を広げ、私を守るように立ちはだかった。


「愚かだな。これだから、犬にも劣るんだよ、糞共が!」

「マイラ、行け……。お父様や一族の犠牲を無駄にするな……」


「でも、ヴィオラ様! 私は貴方を置いて逃げるなんて……」


「甘えるな! お前は血反吐を吐いてでも生きるんだ! その身に新たな命を宿す母である限り、絶対に死んではいけない! これから生まれてくる命のために、お前は生きなければいけないんだ!」



ホープ……。

この子のために、みんなを犠牲にしろって言うの?


……違う、みんながホープのために犠牲になってくれているんだ。


私達は自分で戦うことができるけど、この子には無理だ。

だから、みんなはホープのために戦う。


私もこの子のために戦っている。


だから、みんなを見捨てることが正しいっていうの?


……そんなの、間違っている!

絶対に認めない!!



「わかってます! 私はこの子のために戦う! でも、だからといって、私はヴィオラ様を見捨てることなんてできない!」


「はーっははは! いい度胸だ! 逃げるより、よっぽど生存率が上がったんじゃないか? まぁ、せいぜいコンマいくつ程度だろうがな!」


「マイラ、逃げるんだ……。私は、もう長くない……。一緒に戦っても、無意味なんだ……」


「嫌です! これから生まれてくるホープに、母はみんなを見捨てた臆病者だなんて思われたくないんです! この子だって、誰かを犠牲にして生まれたりしたくないはずです! 私の子なら、絶対にそう思います! 絶対に、間違いなく!」



私にはわかる。

この子は、私と同じお転婆で負けず嫌いだ。

ちょっとお腹を撫でるだけで蹴り返してくる元気な子なのだから、間違いない。



「私は戦う! 母なら、逃げちゃ駄目なんだ!」


「マイラ……。お前という奴は……」



ヴィオラ様は俯き、それ以上何も言わなかった。

私の想いが伝わってくれたのだろうか。それとも、呆れてしまったのだろうか。個人的には後者の方の可能性が高いような気がしてならない。


「はーっはははははははははッ!! じゃあ、二人一緒に消し炭になるんだな! 犬にも劣る糞共めが!」


「「……ッ!?」」


ブルー・ランタンの全身から青き業火が吹き上がる。まるで自身をも焼き尽くさんばかりの勢いで、耐え難い熱波が私達にまで届く。


やはり、怖い……。


まるで蛇に睨まれた蛙のように、私達は恐怖に凍り付いた。絶望的なほどに力の差がある。不退転の決意が揺らぎ、逃げ出しそうになるが、それでも私は一歩も退かなかった。



「死ね、化け物が!! はーっははははははははははははははははははッ!!」


「……死ぬのは、貴方ですよ」



この声……、この声は……!?


声と共に無数の閃光が迸った。閃光が通り過ぎた後には、真っ赤な鮮血が噴水のように噴き出していった。一瞬にして、目の前が青から赤に染まった。


ブルー・ランタンの青き炎は消沈し、彼の左肩がばっさりと裂けた。腕が繋がっているのが奇跡的なほど、深く裂けていた。



「遅れて申し訳ありません、二人共……」



やはり、カーティス様……。

彼もまた満身創痍ながらも、私達を助けに来てくれた。カーティス様の登場は、絶対的な恐怖と絶望に挫け掛けていた私達に希望を与えてくれた。



「……ぁ、あぁ……、カーティス……。うぅ、カーティス様ぁ!」


「ヴィオラ……、私がもう少し早く駆けつけられれば、こんなことには……」



カーティス様は傷付いたヴィオラ様を抱き締め、焼け焦げた髪を慈しむように撫でた。


いついかなる時も優しく、本当に穏やかな方だ。私はこの人が怒ったところを見たことがない。しかし、今彼の瞳には静かな憤怒と憎悪が激しく燃え上がっていた。



「マイラさんも私が間に合ったからいいものの、あと数秒で消し炭になっていたかもしれなかったのですよ。もう少し自重してください」



カーティス様はヴィオラ様を抱きしめたまま、私にも優しい笑みを向けてくれた。私はその穏やかな笑みだけで充分だった。



「き、貴様が、カーティス……。静かなる暴君カーティス……」



静かなる暴君。あまりにも有名なカーティス様の二つ名だ。


カーティス様に嫁ぐと決まった時、その仰々しい二つ名に怯えたものだ。しかし、実際会ってみれば、眼鏡をかけた優男(いや、ただの第一印象だから! 決して普段そんな風に思ってる訳じゃないわよ!)。少々拍子抜けしたのを今でも覚えている。


「一思いに首を刎ねて差し上げようとしたのですが、さすがですね」


「な、舐めた真似を……」

「舐めた真似……?」


あ、れ……?

何、この感じ……?

……こ、わ、い……?


カーティス様はそっとヴィオラ様を離し、ブルー・ランタンに向き直った。


肩を斬られて憎悪に燃えるブルー・ランタンが凍り付く。あれだけ絶対的で恐ろしく見えたブルー・ランタンが今は小さく見える。



「それはこっちのセリフだ。『思念統合体』の分際で、ウェアウルフを舐めるな。殺すぞ、薄汚い寄生虫が!」



……カ、カーティス様……?

滅茶苦茶ガラが悪いんですけど……?

ヴィオラ様に目を向けると、無言で首を振った。何か、達観したような表情だった。


どうやら、あれが静かなる暴君と謳われたカーティス様の本性らしい。あの、いついかなる時も穏やかで優しかったお姿は、どうも猫を被っていただけらしい。……ウェアウルフのくせに。



「はァ? 何言ってやがる? 殺されるのは、てめぇ等だろうが!?」


「キャンキャンうるさいな。ヴァチカンの犬ってのは、どうしてこう品のない野良犬ばかりなんだ?」


「黙れ、負け犬が吠えるな! ここでいくら吠えようとも、てめぇの一族は終わりなんだよ!」


「……終わらせるか、終わらせてなるものか!! 一族の血と誇りを、貴様のような薄汚い外道共に踏み躙らせはしない!」



カーティス様は一族の秘法として伝えられているバグベアクローを構え、ブルー・ランタン率いるクルキアレ部隊の前に立ちはだかった。



「マイラ、ヴィオラを連れて、行くんだ! ここは俺が引き受ける! もう誰一人死なせるな!」


「でも、カーティス様……」


「俺の心配はいらん。この俺こそ一族最強の男だぞ。いいからさっさと行け」



……無駄に自信たっぷりだ。普段のヴィオラ様にそっくり。



「……マイラ、今何考えた?」

「いえ、何も!?」


「……まぁ、いい。元々、私もあれの影響で今みたいなのになったんだからな……」



今の一言に、知られざる夫婦の歴史を垣間見た気がする。

カーティス様とヴィオラ様の関係については何度か聞いたことがあった。


若き日のヴィオラ様は体が弱く、まさに深窓の令嬢のように大切に扱われていたらしい。ちなみにそれを聞いた時、失笑してヴィオラ様に殴られた。


そんなヴィオラ様を、当時相当荒れていたらしいカーティス様が強引にさらっていったらしい。ちなみにそれを聞いて爆笑したら、夜にカーティス様に苛められた。


私はてっきり作り話だと思っていたのに……。あまりにも想像がつかなかったから。



「行くんだ、マイラ! お前に一族の全てを託す! お前は生きて生きて生き抜いて、我等ウェアウルフの希望をつなげ!」



一族の全て……。


お父様、お母様、ウィル伯父様、ヴィオラ様、カーティス様、そしてホープ。今、ここで私達が全滅したら、我が一族の全ては無に帰す。みんなの想いを無駄にしないためにも、私は生きなければならない。


……わかってる! でも、大切な人を犠牲にしてまで、私は生きたくない!



「頼む、ヴィオラやホープを死なせないでくれ……」


「……ッ!? わ、わかりました……。絶対に、もう誰も死なせません!」



逃げる訳じゃない。


私が行かなければ、助からない人達がいる。

みんな、一族の希望をつなぐために戦っていった。


私も、一族の一員なら、戦わなきゃいけない。


ホープとヴィオラ様を救う。

それが私の戦いだ。


「待て! 逃がすな、ブルー・ランタン!」


日本語……?

今、確かにブルー・ランタンの後ろの部隊の一人が確かに日本語で叫んだ。しかも、訛りのない流暢な日本語だった。


「ここは通さねぇよ! てめぇ等、俺の女に手を出しておいて、ただで済むと思うなよ、糞豚共が! てめぇ等全員、肉片すら拾えねぇほどに切り裂いてやる!」


「一人も逃がすな! 我等が協力していることを悟られるな!」


また日本語?

私はヴィオラ様に肩を貸しながら、必死に先を急いだ。この時は急いで脱出することに頭がいっぱいで、些細な疑問などすぐに消えてしまった。


カーティス様は超人的な瞬発力を生かし、狭い通路内を駆け回ってクルキアレ部隊の連中を次々と切り裂いていた。ブルー・ランタンも仲間に炎は放てず、カーティス様のスピードに翻弄されていた。


……カーティス様なら、きっと大丈夫。


私はヴィオラ様を連れて、町へと急いだ。人のいるところに出れば、連中も騒ぎは起こせない。それに、ヴィオラ様を病院に運ばなければいけない。


お願い、もう誰も死なないで……。



「……マイラ、私のことはもういい……。見捨てろ……」


「馬鹿言わないでください! 弱気なこと言うなんてヴィオラ様らしくないですよ! 無駄に気が強くて高圧的なのがヴィオラ様じゃないですか!」


「……あんた、人が弱ってることをいいことに言いたい放題ね……」



満身創痍なくせに眼光だけは鋭いヴィオラ様。少し怖いけど、こうでなければヴィオラ様らしくない。今は少しでも元気を出してほしい。


「そうそう! 怒っている方がヴィオラ様らしいです!」

「……ったく。だから、嫌いよ、貴方……」


「私は好きですよ、憧れです。いつか、ヴィオラ様みたいなカッコいい女になるのが夢なんですから」


「……私みたい、か……。私はお前が思っているような女じゃない……。弱くて嫉妬深いだけのつまらない女だ……。カーティスがお前を迎え入れると聞いた時は、絞め殺しに行ってやろうかと思ったくらいだ……」



ヴィオラ様が思い止まってくれて、本当によかった……。



「……私などより、お前の方がよっぽどいい女だ。だから、私など捨てて行け……。そして、ホープと共に生きるんだ……」


「だから、馬鹿なこと言わないでください! もう誰も死なせませんよ! カーティス様とヴィオラ様と私とホープで、四人で幸せに暮らすんです! 誰一人欠けず、みんなで幸せに生きるんです! 犠牲になった人達の分も、私達が幸せに生きるんです!」


「……マイラ、私はもう駄目だ。自分でもわかってる……。私は、もう……」


「そんなことない! 絶対に大丈夫です!」


「……ごめん、ね。一緒に、いれなくて……。カーティスと、ホープを、頼む……」


「寝ないでください、ヴィオラ様! ヴィオラ様にはこれからもいろいろ教えてほしいことがあるんです! 私にも、ホープにも、たくさんたくさん! 私達には貴方が必要なんです! だから、勝手にいなくならないで!」


「……マイラ、ありがとう……」



ヴィオラ様は絶対に大丈夫!

大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫……。


今はただ寝ているだけ。寝ているだけに決まっている。

急がなきゃ……。町へ急がなきゃ……。早くヴィオラ様を病院に連れて行かなきゃ……。


もう誰も死なない! 絶対に、誰も死なない! みんなで幸せに生きるんだから!











そして、私が次に目を覚ました時には、仁がいた。

最初、目の前にいる相手が仁と気付かなかった。最後に会った時と比べて、仁はあまりにも変わっていた。顔の傷は以前からあったが、身長はカーティス様よりも高くなり、顔立ちも精悍になっていた。無愛想なガキが立派な男の子になっていた。


「……仁? あのファイア・ジーニアスに嫁いでいった一族の、仁……?」


「……あぁ、そうだ。……久しいな、マイラ」


仁の祖母は、元々私の祖父の姉だった方。純血のウェアウルフの女は、半ば純血の子を産むことが義務化されている。しかし、仁の祖母は一族の掟を破って、とあるイギリス人と結ばれ、一族から追放された。


そのため、仁の一族は日本に移り住み、芝崎家の庇護下にいる。前に仁にあったのは、芝崎の家に訪問した時だった。



「ファイア・ジーニアス……。まさか、あんたがあの青い炎の……?」



ファイア・ジーニアス。直訳すれば、火炎魔人。怪奇現象の父チャールズ・フォートが名付け親であり、端的に言えば発火能力者のことである。仁の家系(といっても、今は彼しかいないが)は念力発火能力に加えて、ウェアウルフの高い戦闘力を継いでいる。そのため、日本での彼の苗字は火から由来した字になっている。


「……あらかじめ言っておくが、俺達のファイア・ジーニアスが生み出せる炎は、物理現象としての炎のみだ。あんな狭い坑道を焼き尽くすことは不可能だ」


「……そっか、ごめん。一族の者を疑うなんて、最低よね……」


「……しょせんは追放された一族だ。疑われても仕方ない」

「うぅ、ほんと、ごめん……」


仁と話しているうちに思考はクリアになっていき、だんだん仁と話しているこの状況に疑問を覚えた。


何故、仁がここにいるのだろうか。仁単独でイギリスに行く権限はないはず。ならば、芝崎家の者と共に来たというのか。しかし、あの芝崎家が積極的にウェアウルフを保護してくれるとは思えなかった。


白の派閥にも様々な勢力が存在している。芝崎家はどちらからといえば、クルキアレ殲滅部隊に近い性質をもった極右勢力だった。わざわざイギリスにまで来て、ウェアウルフを助けに来るとは考えにくかった。


「……あのさ、どうして仁がここにいるの?」


「……お前が発見された時、すでに凍死寸前だった。一度は一般の病院に運ばれたものの、クルキアレの襲撃を危惧し、日本の組織管轄の病院に移された。それが三日前のことだ。それから、お前は三日間眠り続けていた」


「三日も……? しかも、凍死寸前だったなんて……。 ……私が凍死寸前だったのなら、ヴィオラ様は……? カーティス様や、ホープはどうなったの……?」


嫌な予感が脳裏を過ぎり、悪寒が全身を巡る。


違う、違う、違う! そんなことある訳がない! もう誰も死ぬ訳ない!


「……お前が一緒に連れてきたヴィオラ・フェーリアは発見時にすでに亡くなっていた」


「嘘! そんな訳、ないじゃない……。あの人が死ぬ訳……」


そんなはずがない。ヴィオラ様は殺されたって絶対に死なないタイプだ。


気が強くて高圧的で恐ろしい方だけど、私にウェアウルフの女として模範を見せてくれた最高の女性。誰よりも憧れ、尊敬している素晴らしい御方。あの方があれしきの傷で倒れるはずがなかった。





『……私みたい、か……。私はお前が思っているような女じゃない……。弱くて嫉妬深いだけのつまらない女だ……』





「……カーティス・フェーリアの遺体は、バラバラにされて城門に打ち捨てられていた」


「嘘! 嘘! 嘘! どうして、そんな酷い嘘言うの!?」


有り得ない。カーティス様がクルキアレのような卑怯な連中に屈するはずがない。


ウェアウルフ最強の魔人、静かなる暴君。普段は穏やかで、木陰で読書ばかりしているけど、一族を守るためなら神にさえ牙を剥けられる。守る時にこそ本当の力を振るう御方。誰よりも優しくて、力の意味と重みを誰よりも理解していた。そんな方が全力で戦い、守れないものなんてないはずだった。





『行くんだ、マイラ! お前に一族の全てを託す! お前は生きて生きて生き抜いて、我等ウェアウルフの希望をつなげ!』





「……そして、お前の子は、先日……」


「やめて、言わないで! お願いだから、止めてよォォォッ!!」


もう何も聞きたくない……。

仁はとても酷い嘘を吐いている。ありもしないことを言って、私を惑わしているのだ。本当はカーティス様もヴィオラ様も助かっているのに、こんな残酷な嘘を吐いて私を騙しているに違いない。


あの二人が死ぬなんて絶対に有り得ない。あんなに強くて立派な方達だけが死んで、私みたいな臆病者だけが生き残るなんてあるはずがなかった。


そうだ、これは全て夢なのだ。出産を前にして不安になった私が見た悪夢。今、目の前にいる仁も夢の中の住民。いくら仁でも、こんなに酷いことを言うはずがない。早くこんな悪い悪夢から目を覚まさないといけない。目を覚ませば、エディンバラの古城に戻るはずだ。



そこにはきっと……、


カーティス様が隣で微笑んでいて、


ヴィオラ様には相変わらずお説教されて、


ウィル伯父様はお父様達とまだ酒盛りをしていて、


ホープは生まれてくるのが待ち遠しいかのように私のお腹を蹴るのだ。



だから、この痛みが何を意味するのかなんて、考えたくもない。私のお腹にあるはずの重みが消えたように感じるのは、きっと夢のせいなのだ。






「……死産した」





『……ママ、会えなくてごめんね……』







「嫌ァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!」






私が慎と出会うのは、これより三日後のことであった。


その出会いが私にもう一度生きる希望を与えてくれた。しかし、あの時の出会いが本当に正しいことだったのか、それは今でもわからなかった。一族の血を絶やさぬために生きるようとした。しかし、こんな血塗れになった私に、ウェアウルフの誇りを語る資格があるのだろうか。今の私に、生きる価値はあるのだろうか。


わからない。私が、私だけが生き残って、本当によかったのだろうか……。





















「それが、全部よ……」


あの日の絶望は、今も忘れられない……。

慎との出会いが私に生きる希望を与えてくれた。


最初は、仮初の希望でしかなかった。


カーティス様やヴィオラ様が託した一族の血と誇りを守るために、ただ生きようとしていただけ。


しかし、いつしか本気で慎に惹かれている私がいた。


何も知らないけど、その屈託な笑みが好き。

何も知らないけど、その無邪気な笑みが好き。

何も知らないけど、その優しくて温かい笑みが好き。


慎への想いが、いつしか本当の希望に変わっていた。

だから、慎が一緒なら前に進めると思った。


だけど、あの惨劇の裏に芝崎がいることを知って、奴等から施されている平穏が全て偽りだと知った。あんなにも優しかった人達を殺した連中が、まるで同情したかのように私の側にいることに激しい怒りを覚えた。


そして、私は全てを賭して、復讐を果たすと決めた。


それが大切な人達の想いに反するとわかっていても、私は死と復讐の運命を選んでしまった。



「……マイラ、その、なんて言っていいのか……」



慎は慰めのような言葉を出そうとしたが、結局それは形にならなかった。


慎には悪いが、正直そんな言葉を期待してはいなかった。何も知らない慎に、私の苦しみを全て理解できるはずがない。そんな人に、私の心を救える言葉なんて絶対に紡げない。


「いいよ、気を使わなくても……。慎に私の苦しみをわかれって言うのは無理だし」


「うっ……」


「きっとどんな言葉でも、私の心の傷を塞ぐことなんてできない。本当は、この話だってしたくなかった。忘れることができるなら、忘れてしまいたい。でも、それは絶対にできない。あの日の出来事は、私の中のあらゆるものを奪い取っていった。私はあの日に、一度死んだの。私が私である限り、あの日の出来事は忘れられない。

 慎との出会いは、私に新しい生を与えてくれた。何も知らない貴方の存在が、ただ救いだった。こう言うと、慎は傷付くかもしれないけど、何も知らないでいてくれた貴方だから、私は安らぎを得られたの。だから、貴方からの慰めなんて、期待していない」


「……きっついこと言うなぁ。だけど、悔しいけど、俺じゃ何も言ってやれねぇ。俺は今の話を聞いて、何を言っていいのかわからなかった……。情けねぇな……」


多少複雑な家庭環境だったとはいえ、慎はごく普通に生きてきた。私の味わった苦しみを想像しろというのが無理だろう。


慎は、私の心を癒してくれる薬であると同時に、私の心を抉る劇薬にもなり得る。この絶望だらけの世界で、私の唯一の希望である。しかし、私にとって生きることは地獄のような苦痛を伴うものなのだ。慎はその苦痛を和らげる存在にしか過ぎない。



もし、この生き地獄で私を救えるとしたら、きっと逢瀬美夜だけだろう。



あの子になら、私は殺されたって構わない。あの子の信念に負けるのなら、私は全てのしがらみを忘れて眠ることができるだろう。ううん、あの子だけがこの生き地獄を解放してくれる唯一の救いなのだ。


私の苦しみも悲しみも全て知った上で、私を本気で叩きのめす。それができるのは、逢瀬美夜ただ一人。



「さぁ、着いたぞ。話なら隠れ家でしろよ」


「そうだな。まだ話を全部聞いていないからな。それも聞かせてもらうぞ」


「……だな。組織については、大神より僕達が話した方がいいしな」



慎と沼影は車を降り、目の前の小屋へと向かっていった。憂いの切り裂き魔は仁を連れ、辺りを警戒しながら車を降り、私もそれに続いた。


ここは町から少し離れた場所にある森だ。車のライトが消えると、夜の森はまるで墨汁で塗り潰されたかのような深い闇に包まれ、不気味な静寂に満ちた。まるで私の心を象徴しているかのような、漆黒の闇。


そこへ、やはり彼女は訪れた。私と相対すべく。


淡く青い輝きを放つ天使の翼を羽ばたかせ、漆黒の闇を切り裂くように天空より舞い降りる。その神々しい姿はまさに地上に降臨する天使。神の寵愛を一身に受けるべき聖女のような美しさを備え、決して揺るがない強い意志が溢れていた。



「……来るような気がしてた。私が芝崎初音を殺した瞬間から、貴方はきっと私の敵になるって、思ってたから」


「……マイちゃん、どうして初音ちゃんを殺したんですか?」



美夜が私に、刃を向けるのは当然のことだった。

美夜にとって初音は、大切な友人だった。私のようにいがみ合う関係ではなく、本当に仲のよい姉妹のような関係だった。


だからこそ、本当は誰よりも私を止めたいと思っていたはずだ。芝崎家と対立を続けていれば、いずれ初音と戦うことになっていた。そして、本来ならば私は組織を裏切った罪で殺されていたはずだった。


それが、何の因果か、私が初音を殺してしまった。


芝崎初音自身は、何の罪もない少女に過ぎない。ただ、好きな人を奪われまいと必死なだけの少女だ。それを無残に殺した私を、美夜が許すはずがなかった。


あの時、もし相手が芝崎初音でなければ、殺さずに止められたはずだ。


初音を殺したのは、私の心のどこかで彼女を殺したいと思っていたからだ。もし、あの時慎を殺そうとしていたのが初音でなければ、殺さずに止められていたはずだから。


私は、自らの意思で、芝崎初音を殺した、最低の悪魔……。



「……穂村慎、焔仁、両名の解放。狼王の遺産ブラックファングの放棄。及びに無条件降伏を要求します。……もし、要求に応じぬ場合……、実力を以って貴方を排除します!!」


「……上等よ、美夜。貴方も殺してやるわ、あの小娘みたいに……」



悪魔は悪魔らしく、無様に散ってやろう。

血と罪に塗れた私には、もはや死以外の救済は有り得ない。

そして、私に安らかな終焉を与えてくれるのは、逢瀬美夜だけなのだ。






つづく


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