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第五章 エンヴィー

残酷描写あり

俺を呼び起こす声。

意識が朦朧としながらも、その声が初音のものだと判別できた。彼女の声が俺の意識を覚醒させていく。しかし、意識の覚醒と同時に感じる浮遊感に違和感を覚えた。それともう一つ、足首や胴回りに感じる鈍痛。


普段の起床時に感じるはずのない二つの感覚に疑問を覚えつつも、俺は目を開けた。


暗い。目を開けたその場所は、仄かな明かりのみが照らすだけの暗闇に満ちた場所だった。しかし、薄暗いその場所は、俺の記憶にない場所だったのは確かだ。


それに、頭上にいくつもの逆さの人影が見えた。これは普通の状態では有り得ない現象だった。それこそ、吊るし上げられた状態でなければ、逆さの人影が見えるはずもなかった。


俺の意識はそこで完全に覚醒し、目も暗闇に慣れ、ようやく自分の状態に気付いた。


ここは教会、おそらく日野塚第三教会の中だ。荒縄で縛られた俺は、教会の天井から逆さ吊りにされていた。



「あ~、先輩、早いお目覚めですね?」


「は、初音!?」



俺の頭上、教会の聖壇近くに彼女はいた。

しかし、今の彼女は平素の私服姿ではなかった。白十字が描かれた黒いワンピースに身を包みながらも、その腰には朱塗りの鞘に納められた大小の刀。普段の彼女とは身をまとう気配が違い、冷徹な暗殺者のように見えた。


それに、彼女の側には見知った顔が何人かいた。それがまた、俺を驚かせた。


「じ、仁……? それに、徳島……。げぇ、初音の頑固親父まで……」


初音や彼等を含め、二十人以上の人が教会内にいた。誰もが剣呑な雰囲気をまとい、とても堅気の集団には見えなかった。


「…………」


「こら、先生と呼べ……って、ここじゃ教師面もできねぇか……」


「……ふん、小童が」


俺に一瞥くべると目を伏せ、俯いたのは、仁。

この異様な集団の中で唯一、平素と変わらない駄目親父臭を漂わす徳島。

心底俺を毛嫌いしている初音の親父、芝崎壮二郎。


「おい、どうなってんだ、これは? とっとと縄を解きやがれ!」


そもそも、どうして俺はこんな目に合っているのだろうか。

マイラが俺を振った本当の理由を教えるから教会に来い、と言われて来ただけだ。それなのに、いつの間にか天井から逆さ吊りにされていた。


しかも、そこには初音や仁や徳島を含め、俺とマイラの関係におよそ関係のなさそうな連中がうようよといる。


ここへ来る直前、逢瀬に警告はされていたが、まさかこんなことになるとは思ってもいなかった。逢瀬からの警告は『真実を知れば後悔する』という内容のもので、教会で何が起こるかは具体的に何も言っていなかった。しかし、俺がこんな目に合うのを知っていたなら、このことも一緒に警告してほしかった。



「悪いんですけど、それは出来ません。もう少し、そこで吊るされていてください」


「ふざけんなよ、おい! どうして俺がこんなとこに吊るされなきゃならねぇんだよ!」


「まぁ、安全の確保のため、ですかねぇ?」



安全だと……? この逆さ吊りの状態のどこが安全なのか? ヨガの一種か? それとも、新興宗教の健康法か何かか? 何にせよ、冗談じゃない!


「いい加減にしやがれ! 冗談も大概に……」

「冗談などではない」


重く、低い声が俺の訴えを退けた。


この声の主は、頑固親父こと芝崎壮二郎だ。俺の苦手人物ワースト3に入るほど、不得手な相手だ。およそ初音と血が繋がっているとは思えないほど頑強な体格、眼光鋭い面構え。武道の達人らしく、素手で岩を割れそうなほどの剛腕だった。彼女の父親、ということもあるが、厳格で尊大な雰囲気が俺の鼻に衝き、正直顔を合わすのも不快だった。おそらく、それは芝崎壮二郎も同じで、向こうも俺を毛嫌いしていた。



「あのウェアウルフの娘が来るのだ。貴様如きでは十秒で肉塊となるぞ」


「ウェアウルフだァ?」



まさか、この頑固親父の口から、ウェアウルフなどというファンタジーな単語が出てくるとは予想だにしなかった。


ウェアウルフといえば、よく漫画やゲームで出てくる獣人。狼男や人狼、と言った方がわかりやすいか。ファンタジーの世界にのみ登場する架空の存在だ。


そんなものが現実に現れて、俺に危害を与えるというのか。馬鹿馬鹿しいにも程がある。


「はッ! ついに耄碌したか、クソジジイ? つまんねぇ親父ギャグ言ってねぇで、とっととこの縄解きやがれ」


「黙らんか、小童ッ!!」


脳を揺らすような一喝。しかし、この頑固親父に怒鳴られるのは慣れている。いくら喚かれようと、今更怯むものではなかった。


「まぁまぁ、お父さん、落ち着いて。慎さんは何も知らないだから、冗談と思うのも仕方ないじゃない?」


憎げに俺を睨む頑固親父を宥めながら、初音は笑顔をこちらに向けた。しかし、普段の愛らしい笑顔と違い、今はどこかその笑顔も冷たかった。


「慎さん、別にお父さんは冗談を言った訳じゃないですよ。本当に来るんです、危険なウェアウルフが、ここに」


「お前もかよ……。悪ふざけなら、もういい加減にしろ」

「だ~か~ら~、冗談でも悪ふざけでもないですよ」


微笑を浮かべているが、初音の顔に冗談を言っている気配はなかった。

しかし、初音や頑固親父の言葉を信じる気にはなれなかった。今の初音達は明らかに不審だ。どこか狂っているようにさえ感じられた。



「ったく、わかったよ。じゃあ、来るんだな、物騒な化け物が」


「そうです。来るんですよ、おぞましい化け物が」



化け物、と口にする初音はどこか機嫌がよさそうだった。もっとも、何故機嫌がいいのかは全く理解できなかった。


「……おい、お喋りは終わりだ。来るぞ」


仁が厳しい口調で初音を咎めた。

それにしても、一体何が来ると言うのか。まさか本当に、ファンタジー世界の生き物が現れて暴れ出すのか。そんなことを本気にするなんて、正気の沙汰とは思えない。


仁や徳島、芝崎壮二郎までマジ面でそんな冗談を説くなんて、世も末だ。

それより、マイラが俺を振った本当の理由は、いつになったら教えてもらえるのだろうか。そもそも、俺はそれを聞くために来たはずなのに、何故逆さ吊りにされて、いるはずもない化け物を待っているのだろうか。


ギギギ……、と轟音を鳴らしながら教会の扉が開いていく。最初に開いた時も思ったが、まるで地獄の門を開いているような音だ。



「……来ましたよ、慎さん。あれが化け物です」

「冗談は止せ」


「いえ、あれは化け物です」



初音は侮蔑するように断言した。

しかし、初音がどう言おうとも、教会の扉を開け放ち、俺達の前に現れた人物は、どこからどう見ても人間にしか見えなかった。


闇に溶けるような漆黒色のレザーコートとブーツに身を包み、フードで顔を隠しながらも、その人物がファンタジー世界に出てくる化け物と同一の存在には見えなかった。顔は隠されているが、胸元の大きな膨らみや、裾から覗ける太股から、その人物がまだうら若い女性であることが判別できた。


レザーコートの女が、初音達に警戒しつつも、逆さ吊りにされた俺を見止めると、狼狽の色を見せた。


彼女の視線が俺に向いたその瞬間、俺の中の何かが強く反応した。言葉では表せない何かが、俺と彼女の間に繋がっている。そう、強く感じられた。



「……まさか、マイラか……?」


「……し、慎?」



初音達が化け物と呼ぶ存在は、マイラだった。

どうして彼女が化け物と呼ばれなければならないのか。いや、それより何故彼女がこんな時間にこんな場所に訪れるのか。それをどうして初音達は予想できたのか。マイラと初音達は何をしようというのか。


数々の疑問が浮かんだが、俺にわかるものは一つとしてなかった。


「おい、初音、仁! 何がどうなってんだ!? わかるように説明しろ!!」


「だから、さっきから言ってるじゃないですか。あれが、物騒極まりない化け物だって」


「初音! いくらあいつを憎んでいるからって、言っていいことと悪いことがあるぞ!」


俺の叱咤に、あからさまな不快感を示す初音。底冷えするような殺気が俺に向けられた。


「慎さんは何も知らないんですよ。あの女は、血肉に飢えた卑しい人殺しのメス犬なんですよ!」


「いい加減にしろ、初音!!」


今の言い方には、さすがにキレた。

初音がマイラを憎んでいるのは知っているが、本人を前にしてあそこまでの暴言を口にしていいはずがない。それに、マイラが人殺し呼ばわりされる謂れはないはずだ。


しかし、仁や徳島はおろか、マイラさえも反論の声を上げなかった。俺の怒声だけがむなしく教会内に響いただけだった。何故、誰も俺に賛同してくれないのだろうか。


「……慎、その子が言っているのは、本当だよ」

「なッ……!?」


マイラは自分が何を言ったか理解しているのだろうか。


初音は、血肉に飢えた人殺しのメス犬、とマイラを罵倒したのだ。それが真実であると言うなら、マイラは人殺しだということ。到底信じられるようなことではなかった。


しかし、誰一人としてそれを否定する者はいなかった。俺以外、誰もマイラが人殺しだという事実を否定しなかった。彼女自身でさえ、それを認めていた。



「馬鹿言うな! どいつもこいつも冗談が過ぎるぞ、さっきから!」


「……慎、誰も冗談なんて言ってないのよ。信じられなくても、全部真実よ」


「全部って何だよ!?」


「……私が、血と罪に塗れた殺人鬼で、貴方達人間とは違う存在だってこと」



訳がわからない。マイラは何を言っているのだろうか。

マイラが人殺し? それに、人間とは違う存在?


性質の悪いジョークとしか思えない。そんなことがあるはずがない。マイラが何故、人殺しをしなければならないのか。そもそも、マイラが人間でないのなら、彼女は一体何だというのか。馬鹿馬鹿しいを通り越して、呆れるしかなかった。



「……慎、見て。これが私の本当の姿……」



マイラは俺を見上げながら、顔を隠すように深く被っていたフードを脱いだ。

そして、マイラの本当の姿を見て、俺は絶句した。


な、何だよ、あれは……? あいつは、本当に俺の知っているマイラなのか……?


独特の癖のある黒髪はまるで燃え上がる炎のような灼熱色と化し、色素の薄かった灰色の瞳は爛々と輝く金色に変貌していた。そして、何より俺を驚かせたのは、人間の物とは到底思えない獣のような耳。紅蓮の髪に溶けるような真っ赤な色の毛に包まれた獣の耳は、まるであつらえたかのようにマイラの体の一部として存在していた。



「さっきの芝崎初音の言葉を一つ訂正するなら、私は血と罪に塗れても、決して犬なんかじゃない! 私は、誇り高き狼の眷属、ウェアウルフ!」


「う、嘘だ! そんな訳、ないだろう! つまんねぇんだよ、さっきから訳のわからねぇ冗談ばっかり言いやがって! いい加減にしろよ!」


「冗談なんかじゃない! 全部、本当のことなのよ!

 私は、ウェアウルフ! 人間じゃないの! 姿形は人間に近くても、私は慎とは違う存在! 慎とは全然違う人間じゃない存在なの!

 ……そして、復讐のために三人もの人間を殺した冷酷な悪魔! 慎なんかとは、絶対に一緒にいられない呪われた化け物なのよ!」


「嘘だァァァァァァァァァッ!!」



信じられなかった。

マイラが、人間ではないなんて。俺とは全く異なる別の存在だったなんて。


今まで俺の心を支えていた何かが静かに崩れ出した。心の支えがある限り、人間は決して諦めずにいられる。どんな残酷な絶望にも立ち向かえる。しかし、支えを失った心は抗うこともできず、ただひたすらに闇に堕ちていくだけだった。


マイラは、ずっと俺を騙してきたのか……?


だったら、今までの思い出は全て幻に過ぎないのか。偽りだらけの思い出に、どれほどの意味があるのだろうか。

俺には、わからなかった。いや、もう考えることすらできなくなっていた。



「……慎、騙してて、ごめん……。巻き込んで、ごめん……」


「……嘘だ。マイラが人間じゃないなんて……」



マイラの声が聞こえる。

しかし、今の俺にはその意味を理解することもできなかった。

俺と、マイラは別の存在。決して交わることのない異種。


どうしてだ! どうして、よりにもよってマイラなんだ! 俺がこの世界でたった一人惚れた女が、どうして人間じゃないんだ!? どうして、どうしてマイラが人間じゃないんだよ……。どうして……。


「でも、私はもう退けない。最期の一瞬まで戦い続けるしかない。一族の復讐のために」


「勝手な言い掛かりは止めてほしいですね!」


不愉快そうに声を荒げる初音。

マイラも初音と同様なほど腹立たしげな顔付きで、彼女を睨み付けた。


「『エディンバラの惨劇』はヴァチカン主導で行ったものでしょう! 芝崎家とは何の関係もありません!」


「確かにヴァチカン連中が中心となっていたのは間違いない! でも、奴等に情報を売ったのは、貴方達芝崎家じゃない! 芝崎家は、ヴァチカンと敵対関係に近い白の派閥の中にありながらも、唯一ヴァチカンとの繋がりを持つ一族! 貴方達が、裏でヴァチカンと密に繋がっているのは、組織の記録からほぼ立証されているわ!

 それに、私は覚えている! あの時、あの惨劇の中で私は、確かに日本語を聞いた! そして、あの惨劇が起こる数時間前に到着するエディンバラ行きの便に、芝崎分家の人間が、それも腕利きの連中ばかりが乗っていたことも知っている!

 芝崎家は、仁の一家を保護していたから、私達の隠れ家も知っていたはず! ヴァチカンと更に深い繋がりがほしかった芝崎家は、私の家族を売って……」


「黙れ、小娘!!」


マイラの熱い口調さえ掻き消すような、凄まじい一喝を吠える芝崎壮二郎。


その怒声と同時に、例の剣呑な雰囲気を放っていた連中がそれぞれ得物を手にし、マイラに襲い掛かった。マイラは確かに普通の奴よりずっと強いが、二十人弱に襲われて無事でいられるはずがない。


しかし、喜ばしく俺の予想は裏切られた。


マイラは四つん這いになりそうなほど姿勢を低くすると、襲い掛かって来た連中に向かって突っ込んだ。彼女の動きはまさに地を駆け巡る獣。疾風よりも速くマイラは駆けた。


マイラは獲物を狙い澄ました獣のような鋭い動きで、瞬く間に十人近くを一気に殴り飛ばした。そして、そのまま高速度で壁まで駆け寄ると、壁を蹴って高く飛び上がり、襲撃者の背後を取った。襲撃者は振り向く間もなく数人を倒し、残りは五人。数秒のうちに仲間のほとんど倒され、その五人は完全に動揺して戦意を喪失していた。マイラは残りの連中をそのまま真正面から打ちのめしていった。


俺もそれなりに喧嘩慣れしているが、今のマイラの動きは目で追いかけるのがやっとだった。実際に対峙したら、勝てる自信はなかった。


「芝崎壮二郎、あんたは私達ウェアウルフの力をその身で知っているはずでしょう? この程度の雑兵で私を倒せると思っていたの?」


「くっ……。これほどとは……」


芝崎壮二郎も俺同様に予想を裏切られたのか、悔しさで歯軋りをしていた。


マイラは確かにずば抜けて運動神経がいいが、ここまでの実力者だとは思わなかった。それに、今のマイラは俺が知っている以上に速く動いていた。あの姿の方が速く動けるのかもしれない。


「仁! 徳島!」


「……」

「やれやれ……」


芝崎壮二郎の呼び声に、仁と徳島は苦悶に近い複雑な表情を浮かべた。面持ちに緊張を走らせた二人の視線がマイラに向かった。二人の目には静かな殺気がこもり、マイラも今までにないほど緊迫した様子で彼等を睨み返した。


「あの裏切り者を殺れ! ただし、仁は炎の使用を禁ずる」


「…………任務了解」

「下っ端は辛いねぇ」


明らかに不満な様子だったが、二人は大人しく芝崎壮二郎の命令に従った。


「お、おい、馬鹿! 止めろ! 冗談になってねぇぞ!」


すでに冗談のレベルを通り越していることはわかっていながらも、俺は叫ばずにはいられなかった。全てが偽りだということを願って。

しかし、無情にも仁が俺の願いを打ち壊す言葉を放った。


「……慎、現実から目を背けるな。逃げても、悪夢は終わらない」

「くっ……」


「まぁ、あれだ。恨みたければいくらでも恨め。そういうのは、俺も仁も慣れているからよ……」


諦めてこんなクソみたいな現実を受け入れろ、っていうのか……。

ふざんけんな……。認められるか、こんな現実! マイラを否定するようなものを、この俺が受け入れられるはずがないだろうが!


「……俺は、俺はこんな現実に屈して、諦めたりするものか!」


そうだ、初めから諦めなければよかった。

マイラのことが本気で好きなら拒絶を恐れずに、何があっても手放さなければよかった。



「マイラ! 俺はお前に伝えなきゃいけないことがあるんだ! だから、負けるな! お前が人間じゃなくても、お前がどんな罪を犯そうと、俺は最後までお前の味方だ!」


「慎……」



マイラは俺の決意を聞くと、顔を真っ赤にして惚けた。

不安で仕方なかったが、今のマイラの反応を見て確信した。マイラはまだ俺のことを想ってくれている。そうでなければ、俺の言葉であんな反応はしない。


まだ想いは届く。


それが俺にとって、掛け替えのない希望だった。マイラに想いが届く。ただそれだけのことが俺に無限の力を与えてくれた。



「余計なお節介を焼いてくれた奴と約束したんだ! どんなことがあったって、お前の味方でいるって! だから、マイラ、お前の全部を受け入れる! お前が俺を好きでいてくれるなら、俺は何だって出来るから!」


「お節介な奴、か……。本当に、あの子は……」



マイラは、お節介な奴に心当たりがあるようで、何だか嬉しそうに苦笑していた。


もし、無事に帰れたら、逢瀬には礼を言わないといけない。ただし、本当に無事に帰れたら、の話になるだろう。



「……慎さん、貴方がここで何を喚こうと、もう意味のないことです」



身の毛がよだつような底冷えする声に、俺は凍り付いた。鈴を転がしたような心地よい初音の声が、今はまるで地獄の底から響く怨嗟の声のように思えた。


ヤバい。本能がヤバいって訴えている。


初音は本気でマイラを殺すつもりだ。今更、先ほどまでのが全て冗談だったとは思っていないが、今の初音の殺意は常軌を逸している。もし、マイラが負けるようなことがあれば、確実に殺される。そして、絶対にまともな殺され方をしない。


「仁先輩、徳島隊長! 早くあのメス犬を八つ裂きにしなさい!」


「…………了解」

「あ~、嫌だね、ホント……」


仁と徳島は得物を構えると、マイラに向かい合った。

二人とも、不満そうではあるが、芝崎家の命令には逆らえないようだった。


「さ~て、行くぞ、マイラ。俺と仁を相手にどこまで持ち堪えられるかねぇ?」


「徳島、私は負けないわ。今の私は、何だってできるんだから」


マイラは不敵に微笑むと、コートのポケットから指輪を取り出した。

今まさに戦いが始まろうという時に出してきた物だ。ただの指輪ではないのだろう。もう何が起ころうと、驚くものか。




「……我が誇り、汝の魂と共にッ!!」




突然、マイラの指輪から銀色の閃光が迸ると、身の毛がよだつような冷気が放たれた。いや、冷気などという生易しいものではない。人の根幹を侵すような邪悪な瘴気。そうした悪意に満ちた何かが指輪から放たれると、指輪はその形を変えた。


それは、筆舌し難き禍々しさを秘めた双剣だった。


禍々しい双剣は獣の牙を思わせる奇形で、漆黒の刀身には不気味な紋様が刻まれていた。鍔には獣の爪牙を思わせる異様な突起があり、柄頭に埋め込まれた宝珠には答申に刻まれたものと同じ紋様があった。


「何だァ、あれは!?」

「……この瘴気、この威圧感……。まさか、狼王の遺産か!?」


狼王の遺産?

それが、あの禍々しい双剣の名なのか……?


「ご名答……。さすがに仁も聞いたことぐらいはあるようね……。これは、狼王の遺産が一つ、『ブラックファング』よ……」


「馬鹿野郎!!」


仁がらしからぬ怒声をあげた。彼がここまで感情を露にして怒鳴るところを、俺は初めて見た。


「それがどれほど危険なものか、知らぬ訳ではないだろう! 今すぐそれを手放せ! 心が喰われてしまうぞ!」


「心が喰われるだって……?」


意味はわからないが、まともなことじゃないのは確かだ。

あの無表情が売りの鉄仮面男があそこまで慌てるくらいだ。相当なヤバさなのだろう。


「危険は百も承知……。組織を裏切った時点から、とっくに命捨ててるわよ……」


今頃になってようやく気付いたが、マイラは肩で息をし、立っているだけでも辛そうだった。その原因はおそらく、あの狼王の遺産『ブラックファング』以外にないだろう。


あのブラックファングとは、一体どんなものなのだろうか。


危険で禍々しいものだということは一目見ただけで分かった。しかし、どのような力を秘めているかまでは想像もできなかった。


「……マイラ、そこまでの覚悟なのか……」


「仁、貴方は人間に近いからわからないかもしれないけど、ウェアウルフは何よりも血と家族を重んじるの……。みんなの無念は、私が絶対に晴らす!!」


「……俺には一生わからないな。物心が付いた頃にはすでに、家族と呼べるものなどいなかったのだから……。俺は、ただ命じられたままに戦うだけの存在だ」


仁は得物、薄黒い色をしたナイフを突き出したまま、マイラに向かって突っ込んだ。


先ほどのマイラほどではないが、仁の動きもかなり速かった。瞬時にマイラとの間合いを詰め、ジャブのように素早く連続してナイフで突いた。


しかし、マイラはいとも容易く、その連続攻撃を避けていった。あの俊敏な仁の動きを完全に見切っているようだ。マイラに人並み外れた運動神経と動体視力があるのは知っていたが、ここまでずば抜けているとは思ってもいなかった。


「……ッ!? マイラ、後ろに徳島が!!」

「えッ!?」


俺の声に反応し、マイラは仁の攻撃を捌きながら振り返った。

そこには死角を利用して、マイラの背後に回っていた徳島が今まさに攻撃をする寸前だった。逆さ吊りにされている俺だから、徳島の隠密行動に気付くことができた。


「コラ、馬鹿! 言うなよ、慎!」

「うるせぇな! 俺はマイラの味方なんだよ!」


絶好の好機を奪われ、俺に文句をつける徳島。ちなみに徳島の得物は、分銅付きの鎖鎌だった。まるで忍者の装備だ。


マイラは、俺に向かって喚き散らす隙だらけの徳島に向かって突っ込んだ。ブラックファングが容赦なく徳島に突き出された。

しかし、どうやら徳島の方が一枚上手だった。


隙を見せればマイラが突っ込んでくることを予想し、容易くブラックファングを鎖で受け止めた。当然鎖で受け止めたところで一瞬衝撃を緩和する程度で勢いを完全に殺すことはできなかった。しかし、徳島にはそれで充分だった。たわませた鎖を引いて、鎌がマイラの頭上に振り下ろした。


「くっ……」


完全に予想外だったにも拘らず、マイラは体を大きく反らして、徳島の必殺の一撃を避けた。更に仰け反りざまに徳島の胸を蹴り、その場を離れると同時に徳島にダメージまで与えた。


「こ、この……、なんつぅ運動能力だ……」

「そっちこそ相変わらずの曲者振りね……」


マイラと徳島は互いに距離を取りながら睨み合い、牽制していた。互いに必殺となり得る一撃を持っているので、一瞬の油断が全てを覆す。重い緊張が二人の間を包み込んだ。


しかし、戦っているのは、二人だけではない。もう一人、戦場に立つ男がいた。


仁はマイラの横から飛び掛り、回し蹴りを放った。徳島に意識が集中していたマイラは一瞬判断が遅れた。辛うじてブラックファングで仁の蹴りを受け止めたが、衝撃はほとんど止められなかった。


「きゃあッ!?」


仁の蹴りで軽々とマイラは吹き飛んだ。突き飛ばされた彼女は長椅子にぶつかり、軽く咳き込んだ。そこへ容赦なく、仁の追撃が迫る。マイラは体勢を直し切れず、不利な状態のまま切り結ぶが、耐え切れずにその場から飛び退いた。


ずば抜けた跳躍力で、俺が吊るされている高さまで飛び上がるマイラ。彼女は空中で体勢を立て直し、仁の追撃に備えた。

しかし、仁は追ってこなかった。ハンカチで口元を押さえ、何か毒ガスのようなものに備えていた。


「……悪いが、炎の使えない状態で、お前と正面からぶつかるような愚はしない。俺の役目は徳島のサポートだ」


「……まさか!?」


マイラが気付いた時には、すでに徳島は行動を起こした後だった。

徳島がマイラに向けて投げた球は、炸裂すると刺激臭を放つ煙を辺りに充満させた。一瞬にしてマイラは煙の中に飲み込まれた。煙玉の爆心地から離れている俺でも、辛いのだから、あの煙に飲まれたマイラの辛さは相当なものだろう。


「ごほ、ごほッ!! げほぉ、がはぁ、ごほッ!!」


煙で姿は見えないが、マイラは激しく咽返り、かなり苦しそうだった。もはや空中でまともな姿勢を保つこともできず、不恰好に咳き込んだまま墜落しようとしていた。


そこへ狙い澄ましたように徳島の分銅がマイラを襲う。マイラは徳島の攻撃に気付いているようだが、煙幕が相当苦しいのか、反撃の体勢もとれずに落ちていた。


「ウェアウルフの卓越し過ぎた嗅覚が仇となったな!」

「げほ、げほッ!! ひ、卑怯よ……」


苦しみながらも、ブラックファングで分銅を弾き飛ばすマイラ。

しかし、攻撃が弾かれたというのに、徳島は全く焦っていなかった。むしろ、計算どおりにいったかのように不敵な笑みを浮かべていた。


「マイラ、まだ油断すんな!」

「だから、言うなっての!」


徳島は分銅と繋がっている鎖を巧みに操り、分銅の軌跡を変えた。一度弾かれたはずの分銅はまるで蛇のように、変幻自在の動きを見せ、再びマイラを襲った。


マイラは再度分銅を弾き飛ばしてやろうと、ブラックファングを振るった。しかし、分銅は蛇如き動きでマイラの一撃を避けると、そのまま彼女の手に絡みついた。


「なッ……!?」


片腕を鎖に絡め取られたマイラは動揺し、更にバランスを崩した。しかし、マイラも反応も早く、喉や鼻が痛むのも無視して体勢を直そうとした。


「素早い動きさえ封じちまえば、お前なんか怖くねぇからな!」


しかし、徳島は鎖を手繰り寄せ、体勢を直そうとするマイラの邪魔をする。加えて、懐に手を突っ込んで何かを取り出し、それをマイラ目掛けて投げた。


手裏剣だ。それも、かなりの数だ。

あいつ、ただのだらしない腑抜けた体育教師だと思っていたが、本当に忍者だったのか。ウェアウルフに忍者、もはや何でもありだな……。


「いくらお前でも、片手では捌き切れないだろう!」

「この……、舐めんじゃ、ないわよ!」


マイラは無理矢理鎖で縛られた片腕を動かそうともがくが、それを許すほど徳島も甘くなかった。強引に引っ張ったり、力を抜いて撓ませたりさせ、マイラの片腕を完全に封じていた。


そうして足掻く間にも、無数の手裏剣はマイラに迫っていた。


咄嗟にマイラは空いている手にある剣で鎖に切り掛かった。張ったり緩んだりした状態の鎖を切るには相当な切れ味が必要で、あんな捻じ曲がった形状のブラックファングでは切断不能だと思われた。しかし、禍々しい刃はいとも容易く鎖を断ち切った。


「何だと!?」

「読みが、甘かったわね……」


両手が自由になったマイラは、やすやすと手裏剣の嵐を弾き返した。


そして、必殺の連携を破られて呆気に取られている徳島の懐に潜り込み、渾身の肘鉄を食らわせた。さらに、顎への掌底と続き、一片の躊躇もなく股間を蹴り上げた。


「ノォォォォォォォォォッ!!」

「うぇ……」


徳島の奴、気の毒に……。

マイラの殺人コンボを受けた徳島は完全に白目をむいて気絶してしまった。俺も以前に二、三度だけ食らったことがあるが、あれは死ぬ。とりあえず命に別状はないが、悶絶どころか強制昇天並の破壊力はある。


「はぁ、はぁ……。これなら、さすがのあんたでも確実に落ちたでしょ……」


そりゃそうだ……。男にとってアレへのダメージは防ぎようがないからな。いくら徳島が曲者とはいえ、あれで確実に落ちただろう。


「何やってるのよ、役立たず!」


初音は無様に気絶している徳島を罵倒した。その声はもはや金切り声のようなヒステリックなものだった。


「はぁ、はぁ……。無駄なのよ……。私は誰にも負けない……」


「……冗談じゃないわよ。いつまでも勝者気分でいられると思うな、大神マイラ! 貴方はいつも私から全てを奪い取っていく! 私は貴方に勝ったと思った時がない! だけど、今度こそ、今度こそ、貴方に敗北の屈辱を味あわせてみせる!」


初音は刀を抜き、マイラに向かっていった。

しかし、あまりに感情的になり過ぎて、攻撃が短絡的になり過ぎている。あれではいくら速くても、簡単に見切られてしまう。並の相手ならいざ知らず、マイラ相手には絶対に通じない。



「初音、止すんだ!」

「止めろ、芝崎!」



危機を察知して、仁が初音の刀をナイフで止めた。


「邪魔をしないで! あんたもあのメス犬の仲間なの!?」

「……落ち着け。今のお前ではあいつの相手は無理だ」


「退いてよ! 私は負けない! あんな……、あんな慎さんを捨てちゃうような人に、私は絶対負けないの! そして、勝って、取り戻すの! 私の大切な人を!」


初音は、泣いていた。

抑え切れない熱い想いに胸を焦がし、泣いていた。


……全部、俺のせいだ。

俺が初音を泣かしている。

あいつの想いに、俺が応えてやれないから……。


「……仁、悪いわね、少し寝ててもらうわよ……」


初音と仁の鍔迫り合いをしている間に、マイラは仁の背後に回っていた。

仁は敵を目の前に背を向けてしまったことが仇となり、マイラの接近を予期できなかった。マイラの声を聞き、反撃に出ようとしたが、時すでに遅かった。


旋風のようなマイラの回し蹴りが仁の脇腹を抉った。容赦ないマイラの一撃によって、仁は吹き飛ばされた。壁に叩きつけられた。そして、仁はそのまま動かなくなった。おそらく気絶しているだけだろう。


「……さて、邪魔者もいなくなったし、始めましょうか……? 私も貴方と決着をつけたいと思っていたの。私も、芝崎分家序列二位の貴方を妬ましく思っていたから。何もかも恵まれた貴方が……」


「それが、私から慎さんを奪った理由ですか……?」


初音は先ほどまでとは打って変わって、不気味なほど静かな声になった。仁を倒され、感情の昂ぶりは収まったようだ。


しかし、その冷静さが逆に恐ろしかった。初音の剣の腕はよく知っている。彼女の一撃は紛れもなく必殺。肉を裂き、骨をも断つ居合の技。それが今、マイラに向けられようとしていた。マイラならば避けられなくもないだろうが、もし万が一のことがあれば、マイラの命は一瞬にして奪われるだろう。


「……私と慎が出会ったのは偶然よ……。そこに他意はないわ……。誇り高きウェアウルフが、計算ずくでなんかで人間と付き合うはずがないでしょう……。人間を本気で愛したのも、慎が最初で最後……。ただ、私の愛した人と、貴方が愛した人が一緒だった、それだけのことよ……」


マイラ、お前……。


「嘘よ……、嘘嘘嘘嘘嘘嘘!! 私はそんなこと、信じない! あんたは復讐のためなら何でもできるメス犬だ! あんたなんかに愛なんて感情がある訳がない! 化け物の分際で、人間の感情を語るな!」


「……今の貴方とは何を話しても平行線ね。勝った方が正義。それで、いいわね……?」


「元よりそのつもりよ! 八つ裂きにしてやるわ、メス犬!」


初音は躊躇なく、マイラを殺すつもりで刀を振るった。

居合い以上の閃光のような剣速でも、マイラは完全に見切っていた。首の皮一枚で初音の刀をかわし、初音の懐に潜り込んだ。そして、そのまま攻撃に転じようとしたとその時、マイラは突然這い蹲るようにしゃがみ込んだ。


マイラがしゃがみ込んだ直後、初音は刀を返して切り下ろした。先ほどの太刀筋よりなお速い。マイラがしゃがみ込むのが一瞬でも遅かったら、肩からバッサリと斬られていただろう。実際は獣の耳を掠った程度で済んだが、それでもマイラは怒り心頭の様子だった。


「……こ、この小娘……。よくも私の誇りを……」


浅く切られた耳を押さえ、怒りに体を震わせていた。


「そうやって這い蹲っているのがお似合いですよ、メス犬さん。もっと感情を剥き出しにしたらどうです? 獣みたいに?」


「……調子に乗るな、人間!!」


マイラは四つん這いの状態から、肉食獣のようにブラックファングで初音に襲い掛かった。


初音は短刀を抜いて右の剣を止め、左の剣を刀で防いだ。そして、短く鋭い膝蹴りを放った。マイラの顔はちょうど初音の腰の近くで、簡単にかわせるものではなかった。


避けられないと悟ったマイラは、逆に初音の膝に頭突きを食らわした。ダメージを最低限にした上、初音の膝にダメージを与えてバランスまで崩した。


「くぅ……」

「悪くない戦い方だけど、もう少し相手を選んだ戦いをしたら?」


片足を痛めて踏ん張りの利かない初音に対し、マイラは力押しで体当たりをした。初音は簡単に弾き飛ばされ、そのまま仰向けに倒れた。


「こ、このッ!!」


初音は倒された状態のまま滅茶苦茶に刀を振るい、マイラの接近を防ごうとした。戦闘技術で一枚上手のマイラを前にし、形振りを構っていられないようだった。


しかし、マイラは冷静に刀を受け、躊躇なく初音の腹を踏みつけた。まるで虫けらを踏み潰すように、初音の抵抗がなくなるまで何度も踏み付けた。


「ん、ぐぅ……」

「はぁ、はぁ……、貴方じゃ私には勝てないわ……」


「……な、舐めるなァァァッ!!」


気合一閃。

初音は渾身の力を込めて、刀を振るった。

瞬時にブラックファングで防御するが、マイラの体は軽く弾き返された。ダメージはほとんどなかったようだが、初音の気合にマイラは一瞬押されてしまったようだ。



「殺す……。あんたは絶対に殺す!!」



初音はマイラが退いた隙に体勢を立て直し、マイラの喉元向けて鋭い突きを放った。


マイラは危なげなくその一撃を避けるが、初音の気合いに押されていた。ブラックファングによる消耗もあるが、初音から発せられる獣のような殺意に圧倒されていたのだ。


閃光のような斬撃が容赦なくマイラを襲う。あのマイラが防戦一方になるほどの初音の猛攻。マイラはその全ての攻撃を捌いているものの、反撃には転じられなかった。


「死ね、死ね、死ね!! あんたみたいな化け物は生まれてきたことそのものが間違っている! 存在そのものが過ち! この世界はあんたみたいな化け物なんかが生きていていい場所じゃない! 消えろ、死に失せろォォォッ!!」


暴風雨のような猛攻がマイラを飲み込んでいく。

凄まじい剣戟の嵐だった。しかし、それ以上に凄まじいのが初音の憎悪。狼王の遺産に宿る瘴気にも匹敵するほどの禍々しい殺意。嵐のような猛攻と狂気に満ちた殺意がマイラを圧倒していた。


マイラは全ての攻撃を捌きながらも、何とか反撃の機会を伺っていた。一撃でも初音の攻撃を食らえば、次の瞬間にはバラバラにされるだろう。一瞬の油断も許されない状況だったが、マイラは冷静さを失ってはいなかった。



「あんたさえいなければ、誰も苦しむことはなかった! 何も知らずに幸せでいられたはずだった! あんたが、あんたの存在がみんなを不幸にする! あんたなんか、あの時に死んでいればよかったのよ! そうすれば、慎さんだってあんたみたいなメス犬に惚れるなんて過ちを犯さなかった!」


「……ッ!?」



冷静に対処しているように見えたマイラの表情に、若干の動揺が見えた。


一方、初音は烈火の如く荒れ狂っていた。一撃を繰り出す毎に、その火勢はマイラの神懸かった防御も追い付かぬほどに増していた。徐々にだが、初音の刀がマイラの服を掠るようになっていた。


完全に初音の勢いに呑まれたマイラは徐々に後退し、ついには壁際にまで追い詰められた。


逃げ場のない場所に追い詰めたことで、初音はようやく攻撃の手を止めた。日本刀はあらゆる刀剣の中で最高の切れ味を誇る半面、非常に折れやすい。先ほどのように無暗に振るうべき武器ではない。マイラを追い詰めたことで、初音にもようやく冷静さが戻った。


「……貴方は存在すること自体、罪なんですよ」


「……そうね、確かにその通りかもしれないわね。あの時死んでいればよかった、か。全くそのとおりよ……。私もあの時にみんなと一緒に死んでいれば、こんなに苦しむことはなかった……。大切なものをことごとく奪われ、無様に死んでいた方がよっぽどマシだったかもしれない……」


マイラは自嘲めいた笑みを浮かべた。

彼女の過去にいったい何があったのかはわからない。だが、マイラは光が届かぬほどに暗い闇の底にいるようだった。どこまで深くて暗い後悔に囚われていた。命を絶ちたくなるほどの絶望に苛まれていた。それが確かだというのに、俺にはその苦しみを何一つ分かってあげることが出来なかった。


あまりに情けなくて、腸が煮えくり返りそうだった。何故、今までマイラの苦しみに気付いてあげられなかったのだろうか。いや、たとえ気付けたとしても、俺にいったい何ができたのだろうか。


俺にはマイラは救えなかった。救う力なんて何一つなかった。



「マイラ……、お前はあの時死んだ方がよかったって言うけどな。俺は、俺はお前と出会えて本当によかったと思ってるんだ……。お前を好きになったことを後悔なんてしてない……。お前が、お前がいてくれて本当によかったと思ってるんだ」



声に出すつもりはなかった。しかし、想いは呟きとなって零れ落ちていた。


その瞬間、マイラがこちらに振り向いた。まるで鳩が豆鉄砲を食ったような間抜け面をしたかと思うと、言葉では形容できないほど複雑な感情が入り混じった表情で俺を見つめた。その表情をあえて言葉にするなら、嬉し泣きをしているようであった。


マイラは俺を見上げたまま何かを口にしたようだったが、その声は俺の耳には届かなかった。



「……いい加減目障りです。私が貴方のお仲間がいる地獄まで叩き落としてあげます」



刀と小太刀を納刀し、初音は腰を落として居合いの構えを取った。正確にいえば、立ったままの状態なので、居合いの構えとも少々違う。右手が刀の柄に、左手が刀の柄に置かれている特殊な構えだった。


今まで纏っていたものとは明らかに異質な殺意。


マイラも本能的に危険を悟り、最大限の警戒を見せていていた。

初音は大きく息を吸い込み、荒ぶっていた感情を落ち着け、明鏡止水の境地へ至ろうとしていた。ただ、マイラを斬ることだけに意識を集中させているようだった。



「……芝崎新刀流奥義、比翼天翔……。二羽の鳥が一つの翼となって、貴方を斬り裂きます……」


「上等よ……。やれるものなら、やってみなさいよ……」



強がっているが、マイラは全身から冷や汗を流し、死の危険を感じていた。それほどまでに今の初音にプレッシャーを感じているようだった。


比翼天翔。初音の構えと発言から、おそらく刀と小太刀両方を同時に抜刀する技だろう。通常の剣技でさえ恐ろしい冴えを見せていたというのに、それが同時に襲ってくるとなれば予測できたとしても回避不能だろう。


マイラもそのことを理解しているらしく、攻めあぐねていた。さすがのマイラでも、初音の居合いの技を連続で受けきることは難しいはずだ。それに、壁を背負った状態では退くこともできなかった。



「さぁ、悔い改めなさい、メス犬」

「調子に乗るな、泥棒猫……」


「……ッ!? 誰が泥棒猫よ、薄汚いメス犬がァァァッ!!」



マイラの挑発に初音がキレた。本来、居合いの技は座して後の先を取るべきだというのに、初音は感情的に突っ走ってしまった。


二振りの刀が鞘を駆け抜けた瞬間、マイラも地を蹴った。後の先を取らせず、先手で押し切るつもりだ。しかし、一刀の速度ならば初音の方が上であった。それはマイラも理解していたはずだった。



「破ァァァッ!!」



初音の刀が鞘から放たれ、神速の一撃となってマイラを襲う。小太刀も同様に抜かれようとしているが、俺の目から見ても若干遅い。これは確実に命取りだ。


一の太刀を右手のブラックファングで防ぐ。初音の太刀筋は凄まじい冴えを見せるが、しょせんは片手。居合の技とはどれほどの勢いと切れ味を誇ろうとも、一撃の破壊力は決して高くない。同じ片手なら、マイラも力負けはしていなかった。


遅れて迫る二の太刀。本来なら、一の太刀とほぼ同時に繰り出されて初めて奥義と呼ばれる技となるはずだったのだろうが、不用意に挑発に乗ったのが仇となった。マイラに一の太刀を受けてから、二の太刀に対応するための余裕を与えてしまった。



「芝崎初音ェェェッ!!」



マイラのコートを浅く斬り、今一歩で確実にマイラの命を奪うはずだった二の太刀。しかし、マイラは気合と共にその太刀を弾き返した。




「私は負けられないよ! あの子の仇を取るまでは、絶対に!!」




そして、マイラは膝を突き出して初音の鳩尾に叩き込んだ。

マイラの膝蹴りはカウンターとなり、初音に多大なダメージを与えた。小柄な初音の体は浮き上がり、そのまま後方へと倒れていった。しかし、まだ意識ははっきりしていて、刀や小太刀を手放さず、倒れながらも体勢を直そうとしていた。


しかし、それを許すほどマイラは甘くなかった。刀と小太刀の反撃を防ぎつつ、トドメを刺すべく飛び掛った。



「化け物の分際で調子に乗るな!」



初音の危機に、芝崎壮二郎が戦線へ躍り出た。

芝崎壮二郎の得物も刀。走ったまま抜刀し、そのまま横薙ぎにマイラを斬り払おうとした。しかし、初音のそれと比べると、速さこそ劣っていないが、目を奪われるような華麗さはなかった。


マイラは初音に馬乗りになってトドメを刺す寸前だった。しかし、芝崎の太刀筋はあまり力強く、受け切れないと悟ったマイラは仕方なく、初音の上から飛び上がった。


初音から離れても芝崎壮二郎の刀は執拗にマイラを追う。スピードでならマイラが一枚も二枚も上手だが、力強さでは圧倒的に芝崎壮二郎が上だった。一撃でも受けてしまえば、そのまま斬られかねない威力がありそうだった。



「手を出さないで、お父さん!! そのメス犬は私が……」


「……ッ!?」



初音の声を聞き、敵を目の前にしていたにも拘らず、芝崎壮二郎の動きが止まった。


しかし、本来芝崎家を狙っていたマイラの動きまで止まるはずもなかった。一瞬の隙を突き、マイラはブラックファングを芝崎壮二郎の腹に突き立てた。



「……我が一族の恨み、思い知れ!!」



マイラが人を殺す瞬間。それはあまりに衝撃的な光景だった。

芝崎壮二郎の背中から突き出た禍々しい凶刃は、血塗られた赤い輝きを放っているように見えた。血が噴き出し、肉が裂け、骨が砕ける気持ちの悪い音が聞こえたような気がした。現実では有り得ないものが見える、届くはずのない音が聞こえる。現実とも夢とも思えない、そんな衝撃的な映像を見て、俺の頭は少し狂ってしまったのかもしれない。



「貴様の罪、その血を以って贖え……」


「……がはぁッ!? あ、ぁあ……、こ、小娘、がぁ……。よ、よくも……!?」


口から吐き出される血飛沫がマイラの顔を汚した。それに対し、マイラは避けることはなく、憎悪に満ちた目で仇の最期の様子を睨み続けていた。


芝崎壮二郎は最後の力を振り絞って、刀を持ち上げようとした。しかし、傷はあまりにも深く、老いた体に残された力はほとんど残っていなかった。芝崎壮二郎は最期に片腕を上げ、憎々しげにマイラの顔を掴んだ。魂までも呪うように自らの血を擦り付け、芝崎壮二郎の体は崩れ落ちた。


マイラの黒いコートは芝崎壮二郎の血を浴び、真っ赤に染まっていた。仇の一人を討ち取ったというのに、マイラの顔には喜びの表情は浮かんでいなかった。それどころか顔面にまで浴びた返り血はまるで悲しみの涙に見えた。



「お父さぁぁぁんッ!!」



初音の絶叫が心を締め付けるほどに痛い。

目の前で父親を殺された初音の苦しみや悲しみは推し量れるものではなかった。俺もあまりの出来事に言葉を失い、衝撃を隠せなかった。あのマイラが人を殺す瞬間を見るのは俺も辛かった。



「慎さん、見ましたか!? あのメス犬は穢れた人殺しなんです!! あんな下種に味方する必要なんてないんですよ!? いい加減、目を覚ましてください!! あのメス犬に騙されていることに気付いて!!」



突然、初音は小太刀を投げ、天井から吊っている縄を断ち切った。逆さ吊りの状態で縄を切られた俺は頭から落ちたが、空中で体を捻って背中から床に衝突した。逆さ吊りが長かったため頭に血が上っているのと、床に落ちた衝撃で背中が痛い。しかし、それ以外は無事だった。あとは縛られたままの手首や足首が少し痛かった。


初音はいまだに芋虫のような状態の俺に駆け寄ると、思い切り抱きついてきた。そして、すがるような瞳で俺を射抜いた。


今、初音には俺しかいない。母を早くに亡くし、父も今殺された。親戚は多くても、序列二位の家柄のために多くの問題を抱え、親戚にも心を許せずにいる。彼女の味方となる人物は誰もいない。


だから、あいつの側にいてやれるのは、俺だけだった。



「……初音。俺は……」



だが、俺はもう決めてしまった。

たとえ、その先が救いのない地獄であっても、俺は一緒にいることを決意した。


マイラと共にあることを決意した後だった。



「俺の意志は変わらない……。あいつを……、マイラをこの手に取り戻す! たとえ、どんな地獄に堕ちようとも、俺はあいつと一緒にいることを望む!!」



殺されると思った。

俺の言葉を聞き、絶望と憎悪に呑まれた初音を見た瞬間、俺は死を覚悟した。


初音を狂わせてしまった。


全て、俺が原因だ。俺が自分勝手な想いで初音を裏切ったから。いや、中途半端な想いで初音を受け入れてしまったからかもしれない。何もかも悪いのは俺だ。


取り返しのつかないことをしてしまった。しかし、それでも俺の想いは決して変わらない。何があろうと俺はマイラを愛し続ける。そのためなら、俺は鬼にでも悪魔にでもなれる。


しかし、決して消すことのできない罪悪感だけが俺を苦しめた。



「アアぁあぁアァァあぁあァあアあぁぁああァあぁアああぁぁあアあァあァァァッ!!!」


憎悪や憤怒、嫉妬や狂気。それらが入り混じったような初音の咆哮が教会に響き渡った。

聞くだけで全てを恨み、妬みたくなるような負の感情に満ちた絶叫。俺には、心が軋み苦しんでいる初音の悲鳴のようにも聞こえた。


罪悪感に絞め殺されそうだった。

妹のような存在だった初音にこんな想いをさせ、苦しませている。


一人の女性としては見てやれなかったが、俺は初音が好きだった。とても可愛らしくて世話焼きでお節介で、本当に俺のことを好きでいてくれて。そんな奴を嫌うはずがない。俺は初音が大好きだったんだ。


だからこそ、苦しい。俺のエゴのため、初音にこんな想いをさせてしまって。



「どうして、どうしてわからないの!? あの薄汚いメス犬の本性が!! 騙されているのに、騙されているのに!! あんなメス犬、慎さんに相応しくないのに!! あのメス犬は薄汚い人殺しなのよ!! 私のお父さんを殺したのよ!! そんな奴を好きでいられるなんて、おかしいわよ!! 狂ってる!!」



初音は俺を突き飛ばすと、ヒステリックに喚き散らした。

正直、見ていられなかった。初音のこんな姿を、俺は見たくなかった。望んでいなかったのに、俺は初音をこんな姿にさせている。




「あんな、あんな薄汚いメス犬に奪われるくらいなら……」




白刃が月光を反射し、不気味に輝いた。まるで人の血を啜えると歓喜しているようだった。刀とは人を殺すために生まれ、人を殺す瞬間にこそもっとも美しく輝く。


初音は、俺を殺すのだろう。


彼女になら、そうする資格はある。俺は初音に殺されるだけの罪を犯した。俺がこんな裏切りをしなければ、初音がここまで壊れることはなかった。全ては俺の罪なのだ。




「私が慎さんを奪ってやる!!」




ごめん、マイラ……。


これからずっと一緒にいて、お前を支えたかった。だけど、それも無理みたいだ。


ごめん、初音……。


お前を苦しめて、狂わせてしまって……。許してもらおうなんて思わない。だけど、マイラだけは殺さないでくれ……。



「消えろ、消えろ、消えろ!! 何もかも全部、私の前から消えてしまえェェェッ!!」


「駄目ェェェェェェェェェェェェッ!!!」





……肉を切り裂き……、



……骨を砕いて……、



……血の吹き出す……、



そんな忌々しい死の音が聞こえた。





しかし、それは俺から奏でられた音ではなかった。その呪われた音は、初音の胸から奏でられていた。罪深き俺からではなく、無垢で穢れなき初音から。



「……あ、ァあ……、あァぁ……」


「……慎は殺させない……。ウェアウルフの誇りに代えてだって、絶対に絶対に、慎だけは殺させない!! 殺させるものかァァァッ!!」



禍々しい黒刃が初音の胸に深々と突き刺さっていた。


初音に突き刺さった凶刃は血塗られながらも、不気味なまでにまぶしく月光を反射し、歓喜の産声を上げているように見えた。感情などあるはずのない、ただの道具でしかないそれが確かに喜んでいるように見えた。



「……また、また、私から……、奪っていく……。そんなに、そんなに……、楽しいの……? 惨めな私を……、嘲笑うのが……、そんなに愉快……? 私から……、全てを、奪って……いくのが……、そんなに、愉快なの……?」


「…………」



マイラは何も答えなかった。

全ての感情が消え去ったような能面のような表情。俺でさえ、今のマイラが何を思っているのかはわからなかった。不気味なまでの無表情だった。


銀色の閃光と共に、ブラックファングが姿を消した。そして、マイラの右手の中指には、あの時の指輪が鈍い輝きを放っていた。


ブラックファングがなくなり、支えを失った初音は崩れかけた。しかし、倒れながらもマイラの方に振り返り、地に伏すまいとコートに縋りついた。




「……呪ってやる、大神マイラ……。あんただけは、絶対に幸せにさせない……」




憎悪と怨嗟に満ちた声。これがあの可愛らしかった初音の声だとは思いたくなかった。




「……えぇ、好きなだけ呪いなさい……。貴方には、その資格がある……」




マイラは縋りつく初音を振り払おうともせず、呪詛を送るような初音の瞳を真正面から見据えた。深き怨嗟の瞳を睨み返し、崩れていく初音の姿をじっと見つめ続けた。




「……呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやるッ!!

 きゃっははははははははははははははははははははははははははははははははは……」




そして、初音の体は崩れ落ち、そのまま動かなくなった。



死んだ……。



初音は死んだ……。



殺したのは、誰だ?



マイラ……?



違う、俺だ……。



俺が初音を狂わさなければ、初音が死ぬことなんてなかった。



俺が、俺が初音を殺したんだ。



初音……、初音……、初音……。




「……俺が殺した。俺が初音を殺してしまったんだ……」




俺達を呪ったまま死に絶えた初音に這い寄った。

初音が俺に笑顔を向けてくれることはもう二度とない。彼女の笑顔を奪い、こんな憎悪と怨嗟に歪ませてしまったのは俺の裏切りのせいだ。初めから俺が初音に甘えなければ、こんな無惨な悲劇は起こらなかった。


愛していた訳ではなかった。ただ彼女の優しさに甘え、依存していただけだ。


それを知っていたはずなのに、初音は俺に優しかった。俺がそれにさえ応えれば、初音が笑顔を失うことはなかった。初音がこんな無残な死に方をするはずがなかったのに。


愛していた訳ではなかった。しかし、それでも俺は初音が好きだった。誰よりも長く共に過ごしてきた掛け替えのない大切な少女だった。それだけは間違いなかった。


そんな大切な少女を、俺が殺してしまった。


「うわあああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!」






つづく


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