第四章 二人の少女(後編)
「それにしても、沙雪があの朴念仁に惚れてるなんてねぇ~」
今日の夕飯は、沙雪と仁の話で盛り上がった。
やはり美夜は沙雪の想いに気付いていたらしく、昼食に仁を呼んだのも沙雪のためだったそうだ。ただし、美夜自身は仁の想いが自分に向かっていることには気付いていないようだった。
ちなみに今日の夕飯は、ブリの照り焼きと旬野菜の煮物だ。味噌汁はシジミ。
美夜は気取らない家庭料理、その中でも特に和食系が得意だそうだ。要望があれば、和洋折衷のあらゆる料理が作れるらしい。前にフランス料理のフルコースが食べたい、と冗談で言ったら、その日の夕飯に本物のフルコースが出てきて驚いた。
「そんなに意外ですか? 仁君はいい人です。サユちゃんが好きになっちゃうのも不思議じゃないと思いますよ?」
「ん~、まぁ~、昼にも言ったけど、あいつは確かに悪い奴じゃないのよ。だけど、あいつって極端に人付き合いが苦手で、そういうの避けてるからね。沙雪みたいに普通の女の子が好きになるようなタイプじゃないでしょう?」
実際、仁に出会って間もない頃の沙雪は彼を怖がっていたはずだ。一応面識はあっても、消極的な沙雪はあまり彼と話そうとはしていなかった。
一体あの二人の間に何があったのだろうか。いつか久里子と聞き出してやろう。
「誰かを好きになるのに、理由なんて必要ないですよ」
「まぁ、確かに……」
よくよく考えれば、慎だって元はただのチンピラだったし……。
「でも、それよりさ~、美夜はどうなのよ?」
「はい?」
ほぉ~、とぼける気ね。
私は悪役のような笑いを浮かべ、美夜を睨み付けた。美夜は本能的に危険を感じたらしく、警戒した小動物のように身を縮こまらせた。苛め甲斐がある反応で実に愉快だ。
「な、何ですか? 何か凄く嫌な予感がするんですけど?」
「ふふ~ん、いい勘してるじゃん。私がずばり聞きたいことはただ一つ! 美夜、貴方は仁のこと、どう思ってるの? 随分とあの朴念仁を高評価してみたいだけど、もしかして美夜も……」
「ち、違いますよ! マイちゃん、誤解してます!」
予想どおり、顔を真っ赤にして面白い反応を見せてくれる美夜。期待を裏切らない反応で、こちらとしても嬉しい限りだった。
「何が誤解なの~? むふふ~」
「その含み笑い止めてください~」
「むふふ~。慌てるところが怪しいな~」
「もう! 本気で怒りますよ!」
雰囲気的には、美夜はかなり怒っているようだった。しかし、チビっこい童顔で怒られても全く迫力がなかった。むしろ、小動物がむくれているようで微笑ましいくらいだ。
何だか無性に可愛かったので、私は仔猫とじゃれ付く時のように彼女を撫で回した。すると、美夜はお気に召さなかったようで、私の手を少々乱暴に払い除けた。
「マイちゃん! 私にはもう身も心も捧げた人がいるんです!」
「……はァ?」
今、この子、結構凄いこと言わなかった……?
「……身も?」
「…………あっ?」
美夜は一瞬私の発言の意図に気付かず、きょとんとしていた。しかし、言葉の真意に気付くと、美夜の顔は今にも蒸気が噴出しそうなほど真っ赤になった。
えっと……、マジで、身も捧げちゃったの、この子……。
「う、うにゃあ……」
私の疑問に対して、美夜は真っ赤な顔のまま頷いた。
「嘘!? ほ、本当に……、その……、やっちゃったの……?」
「そ、そういう言い方しないでください!」
反発するものの、否定はしない。
やはり、そういうことらしい。こんな小学生にしか見えないチビッコの分際で、女の子の大切なものを捧げちゃったようだ。きっと、その男はロリコンの変態野郎に違いない。
「……マイちゃん、今凄く失礼なこと考えませんでした?」
「あぁ、ごめん。せいぜい中学生くらいよね?」
「何の話ですか!? 私は正真正銘の高校二年生です!!」
「それにしても、本当に彼氏いるの……? 正直、信じられないんだけど?」
「真顔でそういうこと言われると、凄く傷付くんですけど……。これでも何度か告白されたことあるんですよ、私……」
……あぁ、それは世に言うロリコンという類の連中で真正の変態達だ。
可哀想に、美夜って今まで大変人生を送ってたのね。からかい方を少しだけ注意しよう。
「……マイちゃん……」
「んっ? 声出てた?」
「マイちゃんの顔を見れば、何考えてたなんてすぐわかりますよ。仕舞いには本当に怒りますよ。さっきから酷いです……」
「ほら、キャラメルあげるから許して」
「……ご飯の途中ですよ」
と言いつつも、受け取ったキャラメルを口の中に放るチビッコ。目に見えて機嫌もよくなってくれた。扱いやすくて、実に助かる。
「ねぇ、それはそうと、美夜の彼氏ってどんな人なの? 教えてよ?」
「……えっと、これが写真です」
美夜は首から提げているロケットを外し、私に差し出してきた。私の知る限り、美夜がこのロケットを外している姿をほとんど見たことがなかった(さすがに入浴時は外しているけど)。学校に行く時でも制服の下に隠しているし、体育の時まで手放さない。
きっと美夜にとって命よりも大切なものなのだろう。
いつも彼女に対しては無遠慮な私でも、これを受け取るのは躊躇われた。しかし、美夜は、気にしないでください、と言うような優しげな笑みを浮かべながら、私の手にそれを握らせた。
「……へぇ、この人が……」
慎には悪いけど、慎より百倍は格好いい……。
写真には、前の学校の制服を着た美夜と彼氏が二人一緒に写っていた。美夜は真っ赤な顔のまま俯き、彼氏はどこか遠く見つめているようだった。おそらく付き合う前の頃か、付き合い出した直前の頃の写真なのだろう。二人に若干の距離があるように見受けられた。
「初めて二人で撮った写真なんです。恥ずかしいので、あんまり人に見せたことがないんですよ」
「私なんかが見てよかったの……?」
「マイちゃんだからこそ、見て欲しかったんです」
「美夜……」
温かな美夜の微笑みがあまりに眩しくて、私は彼女の視線から避けるように俯いた。少々不審な行動だったかもしれないが、美夜からは写真を眺めているようにしか見えないだろう。私も視線を逸らしたのは失態だと思い、取り繕うように視線を写真に向けた。
美夜の彼氏。まさに眉目秀麗を体現したような美形だ。しかし、どこか冷酷な印象を拭い切れない。私だからわかる。この男は、私と同じ人殺しの目をしている。
それに、何だろう……? 何か、引っ掛かる……。
「どんな人だったの?」
「無口で無愛想で人と距離をとっているところは、仁君に似てますね。でもね、いつも誰かのために頑張る人なんです。どれだけ自分が傷付こうとも、他人の涙を無視できない、そんな人です」
「……ふ~ん、そうなんだ……」
違う……。この男は、美夜が言うような優しい人間などではない。
私の本能が告げている。こいつは、血と罪に塗れた咎人の道を往く者だ。数え切れぬほどの死と戦乱を駆け抜けた修羅。運命が紡ぐ絶望を、救いなき死を受け入れた目をしている。この男は、人の温もりなんて知らない鬼だ。
「でもね……、似ていると言うなら、マイちゃんの方が彼に似ていますよ」
「私と……?」
確かに、この写真の男は私と同じで美形だ。しかし、こんな無愛想極まりない面と私が似ているとは思えない。ならば、美夜はこの男の何が、私と似ているというのだろうか。
……まさか、私が感じ取ったように、美夜も気付いた……。
「……えぇ。一族郎党を皆殺しにされた過去を持ち、復讐のために命を懸けているところなんて、そっくりじゃないですか……」
「……ッ!?」
……あぁ、バレてたんだ……。
しかし、裏切りが発覚した時はもっと焦りや恐怖が渦巻くと思っていた。惨めに追い詰められて、恐怖に押し潰されているのだと思っていた。
しかし、今の私の心に渦巻く感情は、寂しさだけだった。
予想していなかった訳じゃないけど、美夜に追い詰められることになるなんて、やっぱり悲しい。短い付き合いだったけど、私は美夜を好きになっていたから、彼女が敵になるのは辛い。
「…………へぇ、そうなの……」
「……彼も、今のマイちゃんのように苦しんでいました……」
美夜はどこか遠い目をしていた。その瞳には言葉にできない憂いの感情が見て取れた。
「……過去形? ……もしかして……」
「……死んでは、いません……。でも、生きているとも……」
伏せられた彼女の瞳には、今にも零れそうなほどの涙が湛えられていた。
死んでいるとも生きているとも言えない、とはどのような状態を指すのだろうか。私には想像はつかないが、ろくでもないことに違いない。美夜をここまで悲しませるなんて、反吐が出るような事態になっているに決まっている。
「私は戦います! あの人を救うためなら、誰とだって!」
零れ落ちそうな涙を拭い、顔を上げた美夜の顔には決然たる覚悟があった。私の覚悟とは別種だが、似て非なる絶対的な覚悟だ。命すらも代価とできる揺るぎない信念が、美夜の瞳には存在していた。
強い意志を秘めた瞳で私を真正面から見据える美夜。その瞳には、敵対の意思はなかった。しかし、それでも私を試すような、いや、問い掛けてくるような意思は感じられた。
私は彼女から目を逸らさず、真正面から私自身の覚悟を見せた。宿命を果たすためなら、たとえ親友が、美夜が相手だろうと戦う。不退転の強い覚悟を、彼女に向けた。
「私だって、戦うわ。誰が相手だろうとも、決して退かない!」
「……それでこそ、マイちゃんです」
美夜は目を閉じると、小さく微笑んだ。
もう彼女からは揺るぎない強い意志は感じ取れなくなった。普段のぽわぽわした雰囲気に戻っていた。しかし、彼女の意志が消えた訳ではない。ただ私が感じ取れなくなっただけで、あの意志は今も彼女の中にあり続けるはずだ。
私と美夜は、その目的こそ全く別だが、互いに譲れない強い信念を持っている。おそらく、いずれその信念が衝突する日が来るだろう。できることなら、彼女と戦うことはしたくない。いや、彼女だけでなく、無関係な人間とは極力戦いたくない。だが、それでも私の邪魔をするなら、誰だって容赦はしない。
「……やっぱり似てますね。ホント、困っちゃいます」
そう言い、ロケットの中の男に向けて微笑む美夜。
美夜の彼氏。私と同じように、一族を殺されて復讐の道を歩んだ男。名前も知らないけど、妙な親近感を覚える。彼が今どうなっているかには興味はない。しかし、彼が美夜に出会えたことは幸福だったろう。
私は写真の男に向かって軽く微笑むと、ロケットを閉じた。
「……一応口にも出しときますけど、その人好きになっちゃ駄目ですよ」
「馬鹿! 私はまだ慎のことが……、って……うわわッ!?」
今のは完全に失言だった。
私は慌てて口を塞ぎ、今の言葉を飲み込もうとした。しかし、一度零れた言葉は二度と戻ることはなかった。
慎への未練は絶対に口に出さない、と心に決めていた。一度口にしてしまえば、想いが溢れ出てしまうと思ったから。だから、厳重に鍵をかけて閉じ込めたはずだった。しかし、美夜と話しているうちにその心の鍵がいつの間に開かれていた。
「……そんなに慌てて否定することないと思いますけど?」
「う、うるさい! 貴方に私の何がわかるのよ!」
「確かに、私にはマイちゃんの気持ちはわからないです。でも、慎君の気持ちならわかりますよ。かつての私は、今の慎君の立場だったんですから」
「……ッ!?」
美夜の彼氏は私と同じ体験をした者。ならば、美夜は慎と同じ(もしくは似た)立場にいた者になる。
復讐の道へと歩むなら、大切な人を巻き込まないようにするのは当然のことだ。破滅するとわかっていながら、大切な人と一緒にはいられない。いや、あまりに辛い道だからこそ一緒にいたい、と思う者もいるだろうが、この男は恐らく違う。
きっと、私と同じようにこの男も美夜を拒絶したはずだ。おそらく、彼は救いなき死と絶望を受け入れていた。だからこそ、誰かと共に歩むことはしなかったはずだ。それがどれほど苦しくて、悲しくて、救われないと知っていたから。
拒絶された経験があるというなら、慎の気持ちがわかると言うのも納得できた。いや、美夜にしか理解できない気持なのだろう。
「マイちゃん、貴方は勝手です。何の事情も話さずに突然、慎を拒絶するなんて最低です。それがどれだけ傷付くのか、私はよく知っています。本当に、本当に大好きな人から一方的に突き放される悲しみや苦しみがどれほどのものか、貴方にはわかるんですか?
確かに私は、マイちゃんの苦しみはわかりません、わかってあげられません。貴方がどれほど悲しくて、苦しんだかは、同じことをした彼じゃないと、わかってあげられないでしょう。でも、貴方だって、慎君の悲しみや苦しみを、何一つわかってあげることはできないんです!」
「……ッ!?」
美夜の言葉が、容赦なく私の心を抉る。いや、抉るなどという生易しい表現ではない。私の心をズタズタに引き千切った。
今の言葉は、今まで一番私の心を傷付けた。
私自身への中傷なら構わない。それだけの罪を私は犯したのだから。だけど、慎は何も悪くない。私が一方的に巻き込んでしまっただけ。
だから、慎の悲しみ、苦しみが一番私の心を傷付ける。
そして、今の美夜の言葉は、慎の悲しみや苦しみをそのまま形にしたようなものだった。同じ悲しみや苦しみを知っている美夜だからこそ、その言葉は重かった。
「……ごめん、ごめん、ごめんなさい……。確かに、美夜の言うとおりだよね。私、慎に凄くひどいことをしたんだよね……。慎を、凄く凄く、傷付けた……。
ごめん、ごめんね……。お願いだから、許して、美夜……、……慎……」
いつしか涙が零れていた。
慎への想い。それはどうあっても私の心からは消せなかった。
好きだから、どうしようもなく慎が好きだから、絶対に忘れられない。
だからこそ、慎を傷付けた私自身が許せない。本当に、どうしようもなく許せない。
「……私の方こそごめんなさい、マイちゃん。貴方だって悲しくて苦しいってことはわかっていたのに、酷いこと言ってごめんなさい。
でも、私は慎君の気持ちが痛いほどわかるから、だからどうしても放っておけないんです。だって、慎君は今もマイちゃんのことが好きだから!」
「そんな訳ないじゃない! だって、だって……」
慎はあの子と一緒の道を選んだ!
私のことを見ているはずなんて、ないに決まってる……。
「もう一度言います。慎君は今も、マイちゃんのことを愛してます。だって、慎君は初音ちゃんと一緒の時でも、彼女のことを見ていません。いつも見ている振りをして、遠くのマイちゃんを見ています」
「そんな……」
言葉にできない複雑な感情が沸き上がる。
今も慎が想ってくれている、と言うなら本当に嬉しい。だけど、そうして想っていてくれると言うことは今もなお慎を苦しめ続けているということだ。それはあまりに辛かった。
「……初音ちゃんも、慎君の気持ちに気付いています。だから、最近はもう貴方に対する憎しみが、……あまりに凄まじいです」
でしょうね……。慎を振った時でも、充分私を殺してやりたい気持ちだったのだから。今でも慎の想いが私に向いていると知れば、その憎しみがどれほどになるか想像すらできない。
「近いうちに、仕掛けてきますよ」
「……そういうこと、言っちゃっていいの?」
今の情報漏洩は、紛れもなく組織に対する裏切り行為だった。
「いいんですよ。私は、組織の味方でも、芝崎家の味方でもないんです。ただ一人、その人だけの味方なんです。だから、友達にちょっと秘密の情報教えちゃってもいいんです。
それに、私が芝崎家を止める権利はあっても、芝崎家に私を止める権利はありませんし。あと、友達でも私や彼の敵になるって言うなら容赦はしません」
美夜は愛しそうにロケットを見つめ、優しい微笑を浮かべた。
全く、この子は凄い……。どうして、ここまで一途になれるのだろうか。本当に、身も心も全て捧げているみたいだ。それほどまでの深い深い、愛情なのだ。
慎も、そんな風に私を……。
ううん、駄目だ。それは駄目。慎を巻き込まないよう、私は慎を拒絶したのに、それでは何の意味もなくなってしまうではないか。
「あっ、それと、もう一つ言っておきたいことがあります」
「何? あんまり余計なこと言い過ぎると、いくら美夜でも本当に立場悪くなるわよ?」
「大丈夫です。組織とは無関係なことです」
美夜は悪戯っぽく微笑むと、私の手からロケットを奪っていった。
「もしもの話です。もし、慎君が全てを知ってもなお、マイちゃんと一緒にいたい願うなら。世界中の全てを敵にしてでも、マイちゃんの味方をしてくれるって言うのなら……」
そんな都合のいいことが現実に起こる訳ない。それは本当に仮定でしかありえない。
まさに夢だ。そういう幻想を私は抱いている。それは否定しない。だけど、それが現実になるはずがない。そんなことをしてくれる人がいるなんて、現実にいる訳ない。
「もし、慎君が私みたいな大馬鹿さんだったら、受け入れてあげてくださいね」
「……私みたいな、って? どういうこと?」
「……慎君も私みたいに、地獄の底まで寄り添い続けるって覚悟するかもしれないです」
地獄の底まで、か……。
無論、慎をそんな場所まで引き込むつもりはない。だが、もし慎がそこまでの決意をしてくれたら、私は彼を拒絶することができるだろうか。
わからない……。だって、私だって本当は慎と一緒にいたいから……。
「……もしもの話です。でも、そんな『もしも』が起こったら、慎を受け入れてくださいね。命懸けなんですよ、そういう覚悟って」
「…………考えておくわ。もし、もしも、そんな奇跡みたいなことが起こったらね……」
私はどちらを望んでいるのだろう。
たった一人で戦い続ける道と、慎と共に歩む道。
わからない。わからないけど、私には選べない。慎と一緒にいたいという気持ちは、胸を押し潰さんばかりに溢れ出ている。心では慎を求めている。それが偽りない想いであったが、それでも慎を地獄まで付き合せたくはなかった。
もし、もしも、そんな奇跡みたいなことが起こったら、私は……。
つづく




