序章 二月の別れ
序章 二月の別れ
「……別れて、慎……」
一瞬、彼女が何を言ったのか、わからなかった。
……ワカレテ……?
時が止まったような錯覚を覚えた。しんしんと降り頻る雪の音さえ聞こえるような静寂。俺達の間に流れる空気は未だかつてないほど重苦しいものとなっていた。付き合ってから二年間、こんな空気とは無縁だったというのに。
俺は彼女の言葉を理解し、信じられない、といった面持ちで彼女を見つめた。どうして、こんな唐突に別れを告げられなければならないんだ。
わからない。ついさっきまで二人で笑い合っていたというのに、何故破局が訪れるのだろうか。こんな現実を信じられるはずもなかった。
「じょ、冗談だろ、マイラ?」
情けないほど俺の声は震えていた。あんまりにも格好悪くて自分に嫌気が差す。
マイラの表情からはとても冗談を言っている様子はなかった。いつも眩しい笑顔を浮かべている彼女の表情は今、完全に凍り付いていた。
しかし、それでも全てが冗談であることを願った。この破局が偽りであるという期待に縋らなければ、今にも泣き崩れてしまいそうだったから。
「……ごめん。私はもう慎と一緒にいられないの……」
「…………俺の他に、好きな奴ができたから、か……?」
マイラは黙って頷いた。
心が押し潰されそうだった。こんなにも惨めな気持ちになったのは、本当に久し振りだった。しかも、彼女の言葉によってそんな想いをさせられるとは夢に思っていなかった。
マイラと出会って、俺は本当に幸せだった。彼女と過ごす時間の全てが、俺にとっての大切な宝物、どんな宝石よりも眩しく輝く思い出だった。
しかし、その思い出を踏み躙られた。
今まで俺と一緒にいながら、マイラは他の男のことを考えていたのか……。
くそッ!! 何だよ、それは!? そんなの許せるかよ!!
「ふざけんな!? 冗談じゃねぇぞ!?」
「……ごめん」
格好悪く怒鳴り散らす俺に対し、マイラは至って冷静だった。固く唇を噛み締めたまま俯き、まるで人形のように微動すらしない。
彼女の冷え切った様子に、頭に上った血も幾分か冷えた。全部が冷えた訳ではないが、みっともなく怒鳴らない程度にはなった。
「……何で、こんな突然、別れるなんて……」
「……ごめん」
また同じ言葉の繰り返し。
まるで事務的に繰り返しているみたいで腹が立つ。だけど、ここで激昂してもみっともないだけだ。我慢しないといけない。
「…………お前はもう、俺のこと、好きじゃないのか……?」
「…………うん、もう好きじゃない……」
彼女が告げる言葉、俺の心を容赦なく切り刻んだ。
もう、終わりなんだな…。ぜんぜん信じられないけど、もう駄目なんだな……。
「…………わかった。別れよう……」
せめて去り際ぐらいは格好よくいこう。
納得のいかないことはたくさんある。だけど、彼女の想いが離れているのなら、俺がいくら喚き散らしても意味はない。
悔しいけど、本当に悔しいけど、別れるしかない。
「…………うん、ありがとう……」
彼女は俯いたまま、小さく呟いた。そう言う彼女の様子がまるで泣いているように見えるのは、俺の未練がそんな幻想を見せているだけなのだろうか。
「じゃあ、ね……。もう私と貴方は赤の他人だよ……」
「赤の他人って……。お前、これから学校でも会うんだぞ。それなのに、いきなり赤の他人って……」
「学校で会っても話しかけてこないで。今更、友達なんかに戻れないわよ。私達はお互いに踏み込み過ぎているし、あまりに近過ぎる。別れても普通に話せる訳がないじゃない。……大体、未練がましいわ」
未練がましい、という言葉が俺の一番隠したい想いを躊躇なく貫いた。
言い返してやろうと思ったが、止めた。ここで喚いてもダサいだけだ。確かにマイラの言うとおり、別れた恋人が普通に友達に戻れるはずがない。一度壊れた関係が修復することなど決してない。俺はそのことを実の両親から嫌というほど思い知らされた。
顔を合わせても話せることなどあるはずもなく、ただ辛いだけだ。やり直したいとでも思っていない限り、そんなことに意味はない。もっともそれができるとは思えなかったが。
「……ごめん、それじゃあね……」
彼女は踵を返し、雪が降り頻る坂道を降りていった。
何もかも終わった。俺達の関係は完膚なきまでに壊れてしまったんだ。幸せに満ちた時間が今、終わりを告げた。
「くそ……、くそぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!」
彼女の姿が消えると同時に、俺は吠えるように泣いた。
純白の雪が舞い落ちる高台公園に俺だけが残され、慟哭の声だけが虚しく響き渡った。彼女と出会い、恋をして、愛し合ったこの場所で俺は泣き続けた。
俺にとって彼女は何より大切な人だから、大切な人だったから、この別れを悲しまずにはいられなかった。誰よりも愛していたからこそ、この別れが俺の心を容赦なく切り刻んだ。俺の想いはもう彼女には届かない。
この日、俺と彼女は別れた。それは凍て付く寒さに身を震わす二月の出来事だった。
つづく




