「妹を選ぶ」と婚約者が言うので、私は王弟殿下の黒猫になります
その夜、婚約者のオスカー様は、私ではなく義妹の手を取った。
王宮の舞踏会。
白い大理石の床には光が映り、楽団の奏でる音楽は優雅で、招待客たちは皆、美しい笑みを浮かべている。
その中心で、オスカー様は困ったように眉を下げながら言った。
「リディア。すまない。私は、ミリアを選ぶ」
義妹のミリアは、オスカー様の腕にしがみつきながら、潤んだ瞳で私を見つめていた。
「お姉様、ごめんなさい。でも、私たち、本当に愛し合っているの」
ああ、まただ。
幼い頃から、ミリアはいつもそうだった。
私の菓子を欲しがり、私のドレスを欲しがり、私の部屋を欲しがり、最後には父の愛情まで欲しがった。
そのたびに周囲は言った。
「お姉様なのだから、譲ってあげなさい」
「ミリアは体が弱いのだから、優しくしてあげなさい」
「リディアはしっかりしているから、大丈夫でしょう」
私は大丈夫だったわけではない。
ただ、泣いても誰もこちらを見てくれなかっただけだ。
「オスカー様」
私は静かに口を開いた。
「つまり、婚約を解消したいということでしょうか」
「……そうだ」
「承知いたしました」
私があっさり頷くと、オスカー様はかえって傷ついたような顔をした。
「お幸せに」
私は膝を折り、礼をした。
周囲がざわめく。
ミリアは一瞬、物足りなさそうな顔をした。
きっと、私が取り乱し、泣き叫び、彼女を責めるところを見たかったのだろう。
けれど、残念ながら、今夜の私はそれほど親切ではなかった。
「リディア、待ってくれ」
背後からオスカー様の声が追いかけてきたが、私は振り返らなかった。
王宮の広間を出て、人気のない庭園へ向かう。
月が、やけに明るかった。
その光を浴びた瞬間、胸元の古い首飾りが熱を持った。
「……あ」
母の形見だった。
幼い頃、亡くなる直前の母が私に握らせた、小さな黒曜石の首飾り。
『リディア。あなたが本当にひとりになった時、これはあなたを守ってくれます』
母はそう言っていた。
その意味を、私はずっと知らなかった。
指先が熱い。
視界が低くなる。
ドレスの裾がふわりと浮いたと思った次の瞬間、私は石畳の上に四本の足で立っていた。
「……にゃ」
出た声は、人のものではなかった。
私は黒猫になっていた。
*
混乱して庭園の茂みに飛び込んだ私は、しばらくそこでじっとしていた。
どうしよう。
どうして猫に。
そもそも、ドレスはどこへ。
人間としての尊厳はどこへ。
考えることは山ほどあったが、猫の体は意外にも寒さに弱いらしい。
夜風が吹くたび、私は小さく震えた。
その時、砂利を踏む足音が聞こえた。
「……こんな夜に、猫か?」
低く落ち着いた声だった。
茂みの向こうから現れたのは、黒い外套をまとった男性だった。
銀灰色の髪。紫がかった瞳。整いすぎて近寄りがたい顔立ち。
私はその方を知っていた。
王弟殿下、レオンハルト様。
国王陛下の弟君であり、王宮の誰もが一目置く方。
冷徹で、無口で、笑わない。
そう噂される王弟殿下は、茂みの中で震える黒猫を見つけると、なぜかひどく真剣な顔をした。
「濡れているな」
いえ、濡れてはいません。
少し人生に失敗しただけです。
そう言いたかったが、私の口から出たのは小さな鳴き声だけだった。
「にゃあ」
「……そうか」
何が、そうか、なのだろう。
レオンハルト様はためらうことなく私を抱き上げた。
大きな手だった。
けれど、驚くほど優しかった。
「このままでは冷える。私の屋敷に来るか」
大丈夫です、と言いたかった。
けれど、出た声はやはり。
「にゃ」
「では、決まりだ」
こうして私は、婚約者に捨てられたその夜、王弟殿下に拾われた。
*
王弟殿下の屋敷は、王宮の北側にある静かな邸だった。
侍従たちは、殿下が黒猫を抱いて帰ってきたことに驚いていた。
「殿下、その猫は……」
「庭園で拾った」
「お飼いになるのですか?」
「本人が嫌でなければ」
本人。
猫相手に本人。
思わず顔を上げると、レオンハルト様は私を見て、かすかに目を細めた。
「名はあるのか」
あります。
リディア・クレイヴェルです。
「にゃあ」
「そうか。では、今はノアと呼ぼう」
勝手に名付けられた。
けれど、不思議と悪い気はしなかった。
ノア。
黒い夜に拾われた猫には、少し似合う名前かもしれない。
その夜、私は王弟殿下の書斎に置かれた柔らかな毛布の上で眠った。
人間だった頃より、ずっと深く眠れた気がした。
*
翌朝、目を覚ました時、私は人間に戻っていた。
王弟殿下の書斎の長椅子の上で。
毛布にくるまった状態で。
しかも、昨夜のドレスではなく、殿下の予備らしい大きなシャツを着て。
「…………」
終わった。
いろいろな意味で終わった。
私は毛布を握りしめたまま固まった。
そこへ、書斎の扉が開いた。
「起きたか」
レオンハルト様が、平然と入ってきた。
「きゃああああ!」
「安心しろ。昨夜、猫が朝には令嬢に戻る可能性を考えて、女官に着替えを用意させておいた」
「可能性を考えて、で済む話でしょうか!」
「王家には、古い祝福や呪いの記録が残っている。黒曜石の守り石を持つ者が、強い裏切りを受けた時、獣の姿を取ることがあるらしい」
「ご存じだったのですか」
「確信はなかった。だが、ただの猫にしては、目が怒っていた」
「目が」
「それに、昨夜の舞踏会で君を見た」
私は息を呑んだ。
見られていた。
オスカー様がミリアを選び、私が婚約を解消したあの場面を。
「お見苦しいところを」
「見苦しかったのは、君ではない」
レオンハルト様は静かに言った。
「人前で婚約者を傷つけ、自分だけ被害者の顔をした男と、人の婚約者を奪って泣き真似をした娘のほうだ」
その言葉に、胸の奥がじんわり熱くなった。
誰かが、私を悪くないと言ってくれた。
それだけで、こんなにも呼吸が楽になるのだと、私は初めて知った。
「私は、どうなるのでしょうか」
「呪いではなく、守りの力だろう。しばらく夜になると猫に戻るかもしれない」
「しばらく、ですか」
「君自身が、自分を捨てた者たちから自由になれば、落ち着くはずだ」
自由。
その言葉は、今の私にはひどく遠いものに聞こえた。
だって私は、クレイヴェル伯爵家の娘だ。
父はきっと、オスカー様との婚約解消を責めるだろう。
ミリアは泣きながら、自分が悪者ではないと言うだろう。
そして私はまた、お姉様なのだから、と言われるのだ。
「帰らなければ」
私がそう言うと、レオンハルト様は眉をひそめた。
「本当に帰りたいのか」
「帰りたいわけではありません。ですが、帰らなければならないのです」
「ならば、私から使者を出す。リディア嬢は昨夜の騒動で体調を崩し、王弟家で保護している、と」
「そんなことをしていただくわけには」
「君を猫のまま拾った責任がある」
「責任」
「それに」
レオンハルト様は、少しだけ口元を緩めた。
「ノア用の毛布を、もう用意してしまった」
その瞬間、私は不覚にも笑ってしまった。
*
私が王弟家で保護されているという知らせは、すぐに王都中へ広まった。
当然、父と義母とミリアは慌てた。
オスカー様も、想定外だったらしい。
彼らは私が泣きながら家に戻り、婚約を破棄された令嬢として静かに傷ついていると思っていたのだろう。
けれど実際の私は、昼は王弟家の客室で休み、夜は黒猫になって殿下の書斎で丸くなっていた。
「ノア、そこは書類の上だ」
「にゃ」
「退く気はないのか」
「にゃあ」
「……仕方ない」
冷徹と噂の王弟殿下は、猫にはかなり甘かった。
書類の上に乗れば隣に移してくれるし、暖炉の前で眠れば毛布を掛けてくれるし、食事は必ず毒見済みの上等な魚だった。
人間としての私は恐縮し、猫としての私は満足した。
その一方で、レオンハルト様は静かに調査を進めていた。
オスカー様がミリアに贈った宝石の多くは、私との婚約祝いとしてクレイヴェル家から渡された資金で買われていた。
父は、私の持参金をミリアの嫁入り支度に流用しようとしていた。
さらに、オスカー様は私との婚約を正式に解消する前から、ミリアを妻として迎える準備を進めていた。
すべて、王家に届け出るべき手続きを無視して。
「なぜ、そこまで調べてくださるのですか」
ある日、人の姿のまま私は尋ねた。
レオンハルト様は書類から顔を上げた。
「君が泣かなかったからだ」
「え?」
「本当に傷ついた者ほど、人前では泣かないことがある。だから、見過ごしたくなかった」
私は言葉を失った。
この方は、ずっと見ていたのだ。
私が平気なふりをしていることも。
大丈夫と言われ続けたせいで、自分の痛みに鈍くなっていたことも。
「私は、そんなに哀れに見えましたか」
「哀れではない」
レオンハルト様は、はっきりと言った。
「強い人だと思った。だからこそ、これ以上利用されるべきではない」
*
数日後、王宮で婚約解消に関する正式な聴聞が開かれた。
私はレオンハルト様に伴われて出席した。
広間に入った瞬間、ミリアが顔を輝かせた。
「お姉様!」
そして、すぐに泣きそうな顔を作る。
「よかった。私、お姉様に嫌われてしまったかと思って……」
「嫌っていますよ」
広間が静まり返った。
ミリアの涙が、途中で止まった。
「え……?」
「私の婚約者を奪いながら、姉妹仲良くできると思っていたのですか?」
「そ、それは、だって、好きになってしまったから」
「好きになったことと、私を傷つけていいことは別です」
ミリアは助けを求めるようにオスカー様を見た。
オスカー様は、私に向かって一歩踏み出した。
「リディア、君は誤解している。私は君を傷つけるつもりはなかった。ただ、ミリアを放っておけなかったんだ。彼女は弱いから」
「私は強いから、傷つけてもいいと?」
「そういう意味ではない」
「では、どういう意味ですか」
オスカー様は言葉に詰まった。
その時、レオンハルト様が静かに書類を差し出した。
「オスカー・ヴァレント。君はリディア嬢との婚約継続中に、彼女の持参金から購入された宝石をミリア嬢へ贈っていた。さらに、正式な婚約解消前に次の婚姻準備を進めている」
「そ、それは」
「クレイヴェル伯爵。あなたも、リディア嬢の財産をミリア嬢へ移す手続きを進めていたようだな」
父の顔が青ざめた。
義母は震える手で扇を握りしめ、ミリアは何もわからないふりで首を振った。
「そんな、私は何も知りません」
「知っていたかどうかは、調べればわかる」
レオンハルト様の声は静かだった。
けれど、その場の誰も逆らえなかった。
「婚約解消は認める。ただし、有責はオスカー・ヴァレント側。リディア嬢の持参金は全額返還。慰謝料も支払うこと。クレイヴェル家による財産流用については、王家の監査を入れる」
オスカー様が愕然と私を見た。
「リディア、君は本当にそれでいいのか」
「はい」
「私を愛していたのではないのか」
私は少し考えた。
そして、正直に答えた。
「愛そうと努力していました。でも、もうやめます」
オスカー様の顔が歪んだ。
その横で、ミリアが初めて本当に悔しそうな顔をした。
私はその表情を見て、ようやく胸の奥が軽くなるのを感じた。
*
その夜、私はまた黒猫になった。
けれど、前のような不安はなかった。
王弟家の書斎。
暖炉の前。
柔らかな毛布。
そして、隣にはレオンハルト様。
「今日はよく頑張ったな、ノア」
「にゃ」
「リディアとしても、よく頑張った」
「……にゃ」
猫の姿でなければ、泣いていたかもしれない。
レオンハルト様は、私を抱き上げると、窓辺へ連れていった。
月が静かに輝いている。
「もう、君を縛る者はいない」
その言葉と同時に、首飾りの黒曜石が淡く光った。
体が温かくなる。
視界が変わる。
気づけば私は、人の姿に戻っていた。
レオンハルト様の腕の中で。
「……申し訳ございません」
「謝る必要はない」
「ですが、この距離は」
「嫌なら離す」
嫌ではなかった。
それが困った。
私は小さく首を振った。
「少しだけ、このままで」
「わかった」
レオンハルト様は、それ以上何も言わなかった。
ただ静かに、私が落ち着くまで待ってくれた。
*
それからしばらくして、私はクレイヴェル家を出た。
母方の領地を正式に相続し、王都の外れに小さな屋敷を構えた。
オスカー様は慰謝料の支払いに追われ、ミリアとの婚約も白紙になったと聞く。
ミリアはこれまでの経緯について「お姉様にいじめられた」と泣いているらしいが、以前ほど信じる者はいない。
私はもう、彼らの物語の脇役ではなかった。
ある午後、レオンハルト様が私の屋敷を訪ねてきた。
手には、小さな包みを持っている。
「これは?」
「ノア用の首輪だ」
「私はもう猫にはなりません」
「残念だ」
「残念なのですか」
「少し」
真顔で言われて、私は思わず笑った。
包みを開けると、中に入っていたのは首輪ではなく、黒曜石を飾った細いリボンだった。
「これは、君が君自身を守った証だ」
「いただいてもよろしいのですか?」
「ああ」
「ありがとうございます」
私がリボンを受け取ると、レオンハルト様は少しだけ緊張したように息を吸った。
「リディア」
「はい」
「君が誰かに選ばれなかった夜、私は君を見つけた」
「……はい」
「だが、今度は拾うのではなく、正式に申し込みたい」
彼はまっすぐに私を見た。
「私を、君の隣に置いてくれないか」
胸の奥が、ゆっくりと温かくなる。
もう、誰かに選ばれなかったことを嘆かなくてもいい。
私も、選ぶことができる。
誰に大切にされたいか。
誰の隣で笑いたいか。
私は、レオンハルト様に向かって微笑んだ。
「では、まずは試用期間から」
「試用期間」
「はい。私は一度、婚約者選びに失敗しておりますので」
「慎重なのはよいことだ」
「それから、猫扱いは禁止です」
「努力する」
「努力ではなく、約束してください」
「……約束する」
けれど、その直後。
彼は少しだけ名残惜しそうに言った。
「では、ノアと呼ぶのも禁止か」
私は迷った。
それから、小さく笑った。
「二人きりの時だけなら」
レオンハルト様の顔が、驚くほどやわらかくほころんだ。
冷徹と噂の王弟殿下。
けれど私だけは知っている。
この方は、夜の庭で震える黒猫を、誰よりも優しく抱き上げてくれる人なのだ。
だから私は、今度こそ自分の意思で、その手を取った。
妹を選ぶと言われた夜、私はすべてを失ったのだと思っていた。
けれど本当は、あの夜こそが始まりだった。
誰かの代わりではなく。
誰かに譲るためでもなく。
私自身が、私の幸せを選ぶための。




