8.印の窪み
匂いの薄い部屋は、怖い。
石は冷たく、墨は湿っていて、布には古い埃が染みているはずなのに——鼻が拾えない。磨かれ、拭かれ、余計なものが落とされている。ここは「何も起きていない」顔をした場所だ。
私は椅子に座らされていた。
背もたれは硬い。肘掛けはない。机だけが妙に立派だ。
椅子の脚には布が巻かれ、床には薄い敷物が敷いてある。軋みを消すための細工。音が出ないようにして、人の反応を紙だけで取る。
向かいの男は腕章を巻いている。
昨日、現場で「退け」と言った男だ。目が笑っていない。命令を出すことに慣れた目。
男の背後にもう一人いた。壁際に立つ若い男。書記官か補佐官か。
紙束を抱え、視線は机の上に落としたまま。けれど、私が息を吸うたび、筆先だけがほんの少し動く。
——記録係。
ここで起きることは、全部、紙になる。
「流通監督官セレナ・フォルス」
腕章の男が名を呼ぶ。
私は返事をしない。
返事をした瞬間、「本人確認」が終わる。
本人確認が終わった瞬間、次の欄が埋められる。
行き先。預かり先。期間。理由。
紙が完成する。
男は一枚の書類を机に置いた。
厚い紙。角が揃っている。印を押せる余白が残っている。
「一時保護。手続きだ」
落ち着いた声。争う気力を削ぐ言い方。
私は紙を見ないまま言った。
「保護なら、行き先を書いてください」
男は瞬きをひとつだけして、紙の端を指で押さえた。
「混乱を避けるためだ」
また、その言葉。
私は笑わない。笑えば「口が回る余裕がある」と書かれる。
泣けば「動揺している」と書かれる。
どちらでも、紙が強くなる。
「混乱を避けるために、所在を消すんですか」
男の表情は動かない。
「君は賢い。話が早い」
褒め言葉の形をした、処理の宣言。
男は続ける。
「事故の直後、君は制御盤に触れようとした」
「信号小屋でも記録に触れた」
「それは——民の不安を煽る行為だ」
「民の不安を煽ったのは、号外です」
私はそう返した。
男は否定もしない。
「掲示は秩序だ」
「秩序がなければ、民は互いを裂く」
正しい言葉だ。正しすぎる言葉は、人を黙らせるために使われる。
男は薄い紙をもう一枚出した。薄いのに、印がある。
印のある紙は、刃物だ。
「職務上の不正の疑い」
私は指先を握った。爪が掌に食い込む。
不正。便利な言葉。現場の人間を切り捨てるのに、十分な形をしている。
私は男の目を見る。
「……現場の誰かの名を、もう紙に載せましたか」
男は答えない。
背後の若い男の筆先だけが、滑るように進む。
答えないことが答えだ。
ここで私が怒鳴ればいい。
机を叩けばいい。
そうすれば私は「危険人物」になれる。
危険人物になれば、紙は簡単に完成する。
——私を消すための紙が。
だから私は、声の温度を落とした。
「現場の名を出すのはやめてください」
男の目が、ほんの少しだけ動いた。
「君は誰を守っている」
私は答えない。
「守っている」と言った瞬間、守る対象が生まれる。
生まれた対象は、次に紙にされる。
男は声を低くした。
「君の沈黙は、協力の証明にもなる」
沈黙が罪になる。
言葉が罪になる。
この部屋では、呼吸さえ欄に落ちる。
男が立ち上がった。布を巻いた椅子の脚は、音を立てない。
「移送する」
移送。
それは保護じゃない。
私は目を細める。
「どこへ」
男は答えないまま、紙の角を揃えた。
整えた指先が、余白に止まる。
「——公爵殿の婚約者を、長く野に置けない」
私の名じゃない。
婚約者、という肩書きが先に出る。
肩書きは便利だ。便利だから刃になる。
私は反射で左手に視線を落としかけて、止めた。
指輪の痕に触れそうで、触れない。
触れた瞬間、「弱いところ」が紙になる。
男が言う。
「君は望んだだろう。真実に触れたいと」
望んでない。
こんな形で望んでない。
私は言葉を飲み込む。飲み込んだまま、視線だけで返した。
外に出した瞬間、紙になるから。
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外は港の匂いがした。
潮と油。濡れた木。鉄。
遠くの波の音が、街の鐘よりよく聞こえる。鐘は秩序を鳴らす。波は何も決めない。
私は鉄輪の馬車に乗せられた。
石畳を叩く重い音が、行き先を告げる。
隣の兵は私を見ない。
見ないのは優しさじゃない。仕事だ。
通りを曲がるたび、貼り紙が目に入る。
「通報せよ」
「協力者を見つけろ」
紙が増えている。
紙が人の視線を増やしている。
私は奥歯を噛みしめた。
守りたかったのは暮らしだ。
パンの匂いで朝が始まること。
甘い実が箱の中で光ること。
なのに——紙がそれを割る。
馬車は港の脇へ曲がり、倉の列へ入った。
扉が見えた。
倉庫の扉に鍵穴はない。
代わりに、掌ほどの窪みがある。金属の縁が磨かれている。人の手が何度も触れた跡だ。
「認証口です」
男が淡々と言った。
「ここに印を当てれば、扉が開く」
「誰が入ったか、記録が残る」
記録が残れば、紙が走る。
私は息を止めた。
これは鍵じゃない。
入ったことを、逃げられない形で残す穴だ。
腕章の男が懐から小さな印章を出した。
赤でも黒でもない。白い石みたいな印。
兵の一人が、ほんのわずか躊躇する。
そのとき、背後から若い男が一歩前へ出た。
さっきの記録係。
名を呼ばれる前に、私はその手を見た。
指先に、薄い白い粉が残っている。
墨の汚れじゃない。紙の繊維でもない。石を削る人間の粉。
爪は短く、ペンだことは違う場所が硬い。
——この手は、書く手じゃない。
押す手だ。
若い男が認証口に指を当てた瞬間、背中に冷たいものが走った。
理由の形を持たない、嫌な予感。
腕章の男が言う。
「確認だ」
便利な言葉。
何でも「手続き」にできる。
若い男の指先だけが、窪みをためらわなかった。
白い印が認証口に触れる。
音はしない。
それでも、名前が紙に吸われるみたいな気配がした。
蝶番が静かに鳴って、扉が開く。
倉の中は暗い。
暗いのに、紙の匂いだけがはっきりする。湿った繊維。乾ききらない墨。封を切っていない束の、眠った匂い。
私は一歩、足を踏み入れた。
背後で扉が閉まる。小さな音。
小さいから、助けを呼ぶ隙もない。
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同じ朝、屋敷の書庫は静かだった。
俺は白い箱の前に立っている。
まだ開けない。開ければ、線が引かれる。戻れなくなる。
執事が声を落として言った。
「旦那様。港で“確認”が始まったと」
「それと——宰相府の補佐官が同席しているそうです。名は、リオ」
「……リオが」
俺は笑わない。
確認は刃だ。
机の上に地図を広げる。
港の倉の列。出入りの経路。掲示板の位置。役所への近道。回り道。
紙が走るなら、紙の元がある。
元があるなら、そこを折ればいい。
俺は指先で、倉の一つをなぞった。
鍵穴のない扉。
認証口。
——影印誓約。
口にはしない。
口にした瞬間、それも紙になる。
俺は息を吸って、吐いた。
白仮面は、動けば物語にされる。
物語にされれば、次の紙の燃料になる。
だから今は、違う。
紙を止めるには、紙の源流を折る。
外套の留め具を止める。
いつもの公爵の手つきじゃない。もっと静かな、目立たない手つき。
扉へ向かう前、俺は一度だけ白い箱へ視線を落とした。
開けない。
まだだ。
——今は、港へ行く。




