6.声明
夜の屋敷は、音が少ない。
少ないのに、紙の気配だけが増える。廊下の角に置かれた配達束、執務室の机に積まれた報告、玄関に差し込まれた号外。どれも乾ききっていないインクの匂いがする。
俺は執務机の前に立ち、最後の一枚を読んだ。
宰相府名義の「声明」案。
事故の原因は「反王政過激派」。
協力者を通報せよ。
混乱を避けるため、調査は直轄で行う。
不要不急の移動を控えよ。
丁寧な文だ。丁寧だから強い。強いから疑われない。
背後で扉が小さく鳴った。
「旦那様」
執事の声は、いつもと同じ高さだった。
いつもと同じ高さで、いつもより硬い。
「……セレナ様の件ですが」
俺は振り向かずに言った。
「“保護”だろう」
「はい。中央広場に貼り出されました」
執事は続けた。
「行き先の記載は、ございません」
俺は紙を置いた。指先が冷える。
「書けないんじゃない。書かないんだ」
執事が沈黙した。それが肯定だった。
“行き先が書いてない”は、優しさじゃない。
連れて行った先を、誰にも追わせないための札だ。
俺は声明案を取り上げ、折り目をつけた。
折り目がつくと、紙は言い切った顔になる。
言い切った紙は、人の頭の中で「事実」になる。
「今夜、俺が読む必要があるのか」
「宰相府より“お願い”が」
お願い。便利な言葉だ。
「……どこで」
「中央広場。鐘楼の下です」
俺は息を吸って吐いた。
その動作の間に、ひとつだけ決めた。
ここで俺が拒めば、明日の紙は「公爵が混乱を煽った」になる。
俺が読むなら、明日の紙は「公爵も同意した」になる。
どちらに転んでも、紙は走る。
なら――走る紙の上で、別の足場を作るしかない。
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中央広場は、夜なのに明るかった。
灯りが多い。灯りが多い場所ほど、正義が集まる。
正義が集まると、誰かを指したくなる。
鐘楼の下に壇が組まれ、宰相府の腕章が並び、紙束が抱えられている。
民もいる。兵もいる。新聞売りの子もいる。
誰もが「何か」を待っている顔だ。
俺は壇へ上がった。
足音が鳴らないように敷かれた布が、逆に怖い。
軋みを消す手入れは、人を消す手入れと似ている。
宰相府の男が小声で言った。
「公爵殿。お手数を」
お手数。
俺の口を借りて、紙を完成させたいだけだ。
俺は紙を受け取った。
受け取った瞬間、視線が集まる。
――ここで、俺が読む。
そう見せるのが、彼らの狙いだ。
俺は紙に目を落とし、読み始めた。
「本日、北の線にて発生した事故について――」
丁寧な言葉が広場に広がる。
言葉が広がるほど、現場が遠くなる。
「反王政過激派による妨害が疑われ――」
民が頷く。
頷きが揃う。
揃うと、人は考えなくなる。
俺は読み進めながら、最後の一行で声を落とした。
「……協力者を見つけた場合は、通報を」
ここで“報奨金”が付けば、狩りが始まる。
狩りは、剣じゃない。
通報札を握った誰かが兵を連れてきて、名を呼び、連れていく。
その一連の流れのことだ。
狩りが始まれば、無罪の誰かが折れる。
俺は紙を畳んだ。
そして、紙に書かれていない一言だけを足した。
「混乱を避けろ」
一瞬、宰相府の男が目を細めた。
それは「自分の言葉」を混ぜられたからだ。
俺は壇を降りた。
拍手は起きない。起きない方が怖い。
静かな肯定は、あとで刃になる。
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帰路、裏道へ入ると空気が変わった。
広場の灯りが届かない。
灯りが届かない場所ほど、目が増える。
角を曲がった先で、声がぶつかっていた。
「お前だろ」
「現場にいたんだろ」
「号外に書いてある!」
男が壁に押しつけられている。整備士の制服。袖が油で黒い。
胸元には、くしゃくしゃの号外が突きつけられていた。
囲んでいるのは民だ。武器はない。
拳と、紙と、指だけがある。
指が上がる。
指が増える。
指が揃う。
揃った瞬間、“誰が悪いか”が決まってしまう。
俺は足を止めずに近づいた。
止めれば相手は構える。止めずに入れば相手は迷う。
迷いは、わずかな隙になる。
「……そこまで」
声が出た。
俺の声だ。公爵の声だ。
だがここで名が割れれば、話は政治になる。
政治になれば、整備士は「見せしめ」にされる。
俺は引き返さず、屋敷の裏口へ滑り込んだ。
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音はしない。音がしないように作られている。
書庫の棚を押すと、わずかに沈む場所がある。
沈んだ瞬間、壁が息を吐くみたいに開いた。
隠し扉の向こうは、冷たい空気だ。
長い間、言葉を閉じ込めてきた空気。
台座の箱。
鍵穴はない。代わりに、丸い窪みがひとつ。
窪みは“傷”じゃない。
ここには鍵を差すかわりに、「家の紋を刻んだ栓」を当てる。
家紋栓――公爵家の紋章を彫り込んだ金属の栓だ。
同じ形は一つとしてなく、当主の手から離れない。
この箱は、その栓でしか開かない。
俺は家紋栓を外し、窪みに当てた。
手の温度が吸われる。
金属が、吸い付くみたいに止まる。
箱がほどける。
白が現れる。
白い仮面。
薄い札。
そして、冷たい静けさ。
俺は白を持ち上げ、掌の重さを確かめた。
かつて、仮面は王家を支えるためにあった。
今度は、仮面で王政を終わらせる。
決意を言葉にすると軽くなる。
だから言わない。
白を顔に当てる。
冷たさが皮膚に貼りつく。
視界が少しだけ削れる。
削れた分だけ、余計なものが入ってこない。
胸の奥で線を引く。
――外で動くのは、別の者だ。
口を開く前に、声を替える。
「……私は、行く」
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路地へ戻ると、囲みがさらに詰まっていた。
整備士の肩が上下している。息が浅い。
紙の角が男の頬に当たり、薄く赤くなっていた。
血は出ていない。
だが、血が出れば終わる。
血が出た瞬間、紙は「襲撃」と書ける。
そう書かれたら、狩りは止まらない。
「それは正義じゃない」
私は一拍置いて言った。
「——狩りだ」
空気が冷える。
誰も、自分が狩人だとは思いたくない。
狩人は悪だと、どこかで知っている。
私は整備士を見る。
「息はあるか」
整備士が小さく頷く。
「歩けるなら、歩け」
整備士が動こうとした瞬間、民が怒号を上げる。
「逃がすな!」
「報奨金が——!」
私はその言葉を切る。
「報奨金の一行で殴るなら、君の正義は紙より薄い」
何人かの目が揺れる。
紙を握る手が、ほんの少しだけ緩む。
私は躊躇しない。
整備士の腕を掴む。
引く力は強くしない。
強い力は恐怖を生む。恐怖は抵抗を生む。
抵抗は血を生む。
血は、紙にされる。
私は路地の奥へ滑り込むように消え、曲がり角で整備士を壁に寄せた。
「名を捨てろ」
整備士が震える。
「……む、無理だ。俺は——」
「今夜だけでいい」
私は言う。
「名が残れば、紙に拾われる」
「紙に拾われれば、指が揃う」
整備士が唇を噛み、短く頷いた。
私は背を向ける。
今夜の俺は、公爵じゃない。
白の役目だ。
紙が走る国で、
血を出さずに刃を止めるために。
私は闇に溶けた。




