58.時刻のずれ
塩の値段は、朝より二度動く。
ミラは最初の帳場でそれを知った。
市場の表通りから一本入った乾物屋。店先には干し魚と豆袋が積まれ、帳場の男は計りの重りを指で弾きながら客をさばいている。
ミラは買い手の顔で塩の値を聞いた。
「朝より上がってるのね」
男はすぐに頷いた。
「北と港が詰まってる。昼にはもっと上がる」
言葉が早い。
ミラは値段の話を続けるふりで、受け渡しの刻を聞いた。
「次の荷はいつ入るの」
男は一度だけ目を細めたが、客の不安だと思ったのか、そのまま答えた。
「夕方前だ。南の帳場から回る」
ミラは礼を言って店を離れた。
角を曲がったところで、袖の内側の札を指で押さえる。ひとつ目。昼前。北門と港を理由に値上げ。次荷は夕方前。南の帳場発。
二つ目の帳場は、油を扱う店だった。
店の裏に樽が並び、鼻に重い匂いがつく。帳場にいる女は手が速く、金を受ける前に次の客の注文を聞いている。
ミラは干し肉用の油を少しだけ欲しいと言い、値を聞いた。
女は眉をしかめた。
「また上げろって朝からうるさいのよ。こっちだって勝手に決めてるわけじゃない」
こぼした。ミラは顔を変えない。
「どこから言われるの?」
「西の帳場。昼の鐘までに合わせろって」
女はそこで口を閉じた。言いすぎたと思った顔だった。
ミラは慌てた客の顔を作り、値段の文句だけ言って引いた。
二つ目。昼の鐘まで。西の帳場。理由は同じく荷の滞り。
三つ目の干し肉屋では、逆に値がまだ動いていなかった。
店主は首を振る。
「話は来た。だが刻が変なんだ」
ミラの心臓がひとつ強く打つ。
「変?」
「港が詰まったって話と、北門の見回りが増えたって話。どっちも来た。でも、先に来たほうが『朝いちの話だ』って言う割に、使ってる言い回しが昼の掲示と同じなんだよ」
店主は肩をすくめた。
「紙を読んでから作った噂を、朝の話にして売りに来てる。ああいうのは信用しない」
ミラは息を整えた。
三つ目。値は据え置き。理由は、言葉の刻が合わないから。
帳場を出ると、鐘が鳴った。短い音が二つ。昼をまたぐ合図だ。
ミラは路地の影に入って、頭の中で並べる。
南の帳場。西の帳場。昼の鐘。夕方前。北門。港。内通者。
言葉は太いまま回っているのに、刻だけが揃っていない。
――これなら切れる。
そのとき、広場のほうからざわめきが走った。
笑い声ではない。人が一か所へ寄る音だ。
ミラは路地の出口まで戻り、柱の影から様子を見た。
掲示板の右脇。昨日見た魚屋の男が、今日は桶屋の前で話している。内容は同じだ。北門、港、内通者。順番も同じ。
だが、男の視線が何度も左へ流れる。
見る先には、文官も黒い外套もいない。
代わりに、菓子屋の軒先で赤い布をかけた籠が見えた。季節外れに高い果物を小分けで売る店だ。今日の客は少ない。
男の視線は、その籠の横に立つ若い店員へ二度、三度と流れていた。
合図を待っている目だ。
ミラはそこまで見て、深追いをやめた。
今日は帳場の刻を持ち帰る日だ。顔を増やしすぎると、どれも薄くなる。
屋敷へ戻る途中、裏路地の石段の下でリオと鉢合わせた。
向こうも歩みを止めず、肩を並べるだけにする。
「黒い外套は見えなかった」
リオが先に言う。
「でも、文官の読む位置がずれた。昨日は掲示板の正面、今日は半歩右。聞かせたい相手が違う」
ミラは頷く。
「こっちもずれてます。噂の中身じゃなくて、刻が」
リオの目が笑う。
「いいな。それはアークが好きな報告だ」
二人は裏口から屋敷に入り、足を速めた。
扉を開けると、アークは机の上を片づけたあとだった。広場の写しは畳まれ、木札だけが残っている。
ミラは順番に話した。
乾物屋。油屋。干し肉屋。
南の帳場。西の帳場。昼の鐘。夕方前。
そして最後に、言った。
「同じ噂なのに、刻が合いません。昼の掲示の言い回しを、朝の話として売ってます」
アークの指が木札のひとつを止めた。
目が、わずかに細くなる。
「よし」
短い一言だったが、部屋の空気が変わる。
リオが壁から離れる。
「切れるか」
アークは頷いた。
「切れる。『内容が嘘だ』じゃ弱い。『いつ聞いたかが噛み合わない』は強い」
ミラは木札を見たまま問う。
「どこから入れますか」
アークは、机の端に置いてあった空の紙を引き寄せる。まだ何も書かない。
「紙にはしない」
そのまま、木札を三つ並べた。
「先に口だ。干し肉屋の店主みたいに、自分で『刻が変だ』と言える人間を増やす」
リオが口角を上げる。
「言わせるんじゃなく、思い出させる」
「そうだ」
アークは初めてミラを見る。
「明日の朝、お前はもう一度あの店へ行け。値段の話だけして、昨日と同じ言葉を相手が言うか聞いてこい」
「はい」
「リオは桶屋の前。魚屋の男の目線の先を取れ。今度は人じゃなく、合図を見ろ」
「了解」
指示が終わり、二人が動きかけたところで、ミラの頭にさっきの赤い布の籠がよぎった。
甘い匂いを思い出すほど近くには寄っていない。それでも色だけが妙に残る。
ミラは言葉にせず、そのまま飲み込んだ。
いま机に置くべきなのは、匂いじゃない。刻だ。
けれど、忘れないように心の端へ引っかけておく。
赤い布の籠。客の少ない菓子屋。合図を待つ目。
いつか使う形かもしれないと思った。




