56.言葉を足す口
昼前の広場は、朝よりうるさい。
鐘が鳴る前から人が増え、鳴ったあとに声が増える。掲示板の前には同じ紙が貼られているのに、そこに立つ顔は朝とは違う。買い物帰りの手。荷を下ろした肩。昼の飯代を気にしている顔。紙は同じでも、刺さる場所が変わる。
ミラは井戸端の列の少し外に立っていた。
桶は持っていない。買い物袋もない。立ち話に混ざるには中途半端な位置だが、近づきすぎると覚えられる。今日は聞く日だ。見つかる日じゃない。
朝、アークから渡された木札は袖の内側にある。紙みたいに折れない重さが、妙に落ち着いた。
紙じゃなく人を見る。
あの一言を、ミラは歩きながら何度も反芻していた。
掲示板の前で、役所の文官が昼の通達を読み上げる。朝と文は大きく変わらない。流言を慎め。調査を妨げるな。不審な動きがあれば届け出ろ。
読み終わると、人々はすぐ散らない。
ここからだ。
ミラは視線を落としたまま、耳だけを動かす。
最初に声を足したのは、魚屋の前掛けをした男だった。
「ほらな、北門だけじゃねえ。港の荷も消えてるって話だ」
その言い方がうまい。『聞いた』と『知ってる』の間の顔をしている。断言しないのに、周りが続きを言いたくなる言い方だ。
すぐ隣で、籠を持った女が乗る。
「じゃあ、やっぱり中にいるんだよ。内通してるやつ」
別の男が言う。
「昨日も言ってたろ。整備の連中、妙に羽振りがいいって」
昨日も。誰が言った。どこで言った。
ミラは顔を上げずに、声の主の靴を見た。革靴。汚れが少ない。市場の泥より、石畳の役所側を歩く靴だ。
魚屋の男は笑いながら手を振る。
「俺は知らねえよ。広場でみんな言ってる」
嘘だ、とミラは思う。
広場で“みんな”が言う前に、この男は言葉の並びを知っている。北門、港、内通者。その順番が朝の紙と同じだ。
ミラは一歩だけ位置を変えた。
井戸の影から、掲示板の右脇が見える位置へ。
そこに、地味な外套の女が立っていた。歳は三十前後。買い物客に見える服だが、買った物を持っていない。読み上げの間は文官を見ず、人を見ていた。
そして今、魚屋の男が話し始めたのを確認すると、女は何も言わずに広場を離れる。
――この人だ。
ミラは追う。
急がない。追っていると悟られる速さは、追う側の都合だ。見失わない速さは、相手の歩幅で決まる。
女は広場を南へ抜け、布屋の角を曲がり、路地の途中で一度だけ立ち止まった。
振り返らない。店先の糸束を見るふりで、背中の気配を見ている止まり方だ。
ミラは手前の薬草屋で足を止めた。乾いた葉を一束持ち上げる。匂いを嗅ぐふりをしながら、視界の端で女を見る。
女はまた歩き出した。
路地の先、パン屋の裏口で、紙包みを抱えた少年にすれ違う。その瞬間だけ、女の右手が動いた。指先で、少年の肘を一度だけ軽く叩く。
合図だ。
少年は振り向かない。振り向かないまま、歩く速さだけを少し変えた。広場へ向かう足から、市場の脇道へ逃がす足に変わる。
ミラの喉が小さく鳴る。
紙を配る人間だけじゃない。言葉を足す人間と、次の口へ渡す人間が分かれている。
アークの読みが、目の前で形になった。
女はそのまま路地を抜け、染物屋の前で別の女に何かを渡した。紙ではない。小さな木片みたいなものだ。受け取った女はうなずきもせず、洗い場の方へ曲がる。
紙を持たない。
持てば見つかるからだ。
ミラはここで、追うのをやめた。
アークの言葉を思い出したからだ。『一本を追いすぎるな。切られたら何も残らない』。
今日は顔を覚える日だ。流れの形を持ち帰る日だ。
ミラは来た道を戻りながら、袖の内側の木札に触れた。
紙の代わりの重さ。
言葉にすると紙になる。だから順番だけ持ち帰る。
広場の文官。
魚屋の男。
地味な外套の女。
紙包みの少年。
染物屋の前の女。
五つの口と手。
その並びを頭の中で繰り返していると、広場の方角から一段大きい笑い声が上がった。
もう次の言葉が走り始めている。
ミラは足を速める。
昼のうちに戻さなければ、夕方には別の顔をつけられる。
屋敷の裏口が見えたとき、門番が一度だけ目を上げる。
ミラはいつもの顔で通りすぎた。慌てた顔は、それだけで紙になる。
廊下の角を曲がる手前で、リオが壁にもたれていた。
先に戻っていたらしい。目だけでミラを見る。
「どうだった」
ミラは歩みを止めずに言う。
「当たりです。読む人のあとに、言葉を足す人がいる。しかも、次の口へ渡してる」
リオの口元が上がる。
「やっぱり流れで作ってる」
ミラは頷く。
「紙はきっかけ。広げてるのは口です」
二人で部屋の前まで来ると、扉の向こうは静かだった。
アークが考えているときの静けさだ。
ミラは息を整え、袖の内側の木札を握り直す。
持ち帰ったのは紙一枚じゃない。
切れば止まる順番だ。
その形を、間違えずに机へ置くために。




