39.入り口の匂い
布は、嘘をつかない。
紙は書き換えられる。札は貼り替えられる。名簿は更新される。
でも布は、触れた匂いを抱えたまま戻ってくる。
ミラは港の灯りを抜け、修繕小屋の戸の前に立った。
中の音は、釘を打つ乾いた音ではない。
桶を引く音。水を捨てる音。手を洗う音。
働き手が“帰る準備”をしている音だ。
ミラは戸を叩かない。
叩けば、返事が出る。返事が出れば、誰かが「会っている」と言える。
戸を少しだけ押し、隙間へ顔を入れた。
「……戻った」
小屋の奥で、男が視線を上げずに言った。
整備士は、ミラを見ない。
見ないまま、桶の縁を指で二度叩き、薄く水を切る。
二つの音は、昼間と同じだった。
“言うな”と、“聞いている”。
ミラは戸口から動かず、袖の内側の布を取り出した。
壁の欠けを軽く拭いて煤を移した布だ。小さく丸めてある。
「これ」
整備士は手を拭かない。
濡れた手で触れば、匂いが薄まる。
代わりに、顔だけを寄せた。
鼻で吸い込むのではなく、息を止めて――一拍置いてから、ゆっくり吐く。
匂いを舌で確かめるようなやり方だった。
「……油が混じってる」
整備士の声が、わずかに低くなる。
「刷り場の油だよね」
ミラが言うと、整備士は首を振った。
「刷り場“全部”じゃない」
そう言って、桶の底を指でなぞる。
指先に残った黒さを、もう一度だけ見せた。
「この油は、乾きが遅い。だから――乾かし場がいる」
乾かし場。
刷った紙を積む場所。
積むなら、風が要る。風が要るなら、壁が要る。壁があるなら、抜け道ができる。
ミラは喉の奥で息を飲んだ。
「乾かし場の場所、絞れる?」
整備士は答えず、工具箱の奥から古い小瓶を一つ出した。
蓋を開け、匂いだけをミラへ向ける。
「嗅ぐな。覚えろ」
ミラは鼻先を近づけない。
近づければ匂いは残る。残れば、誰かに嗅がれたとき言い訳ができない。
ただ、距離のまま“違い”を掴む。
小瓶の匂いは、甘くない。
油の匂いだ。乾いた鉄に染み込む匂い。
整備士が言った。
「港の板を塗る油だ。……これに似てる」
「港の油と、刷り場の油が?」
「同じ樽から分けてる可能性がある」
整備士はようやくミラを一瞬だけ見て、すぐ外した。
「樽は港に入る。入った樽は、必ず記録される」
ミラの胸が少しだけ熱くなる。
紙に勝つんじゃない。
紙の“記録”を逆に使う。
「……どの記録」
整備士は桶を傾け、底の黒さを指で示した。
「配給の記録じゃない。役所の記録でもない」
その言い方だけで、ミラは分かった。
「港の――入荷帳」
整備士は頷いた。
「港の帳面は、紙が強い国でも一番最後に残る。残さないと、港が止まるからだ」
止まる。
アークが言っていた言葉が、背中で鳴った気がした。
ミラは声を落とす。
「入荷帳は、どこにある」
整備士は釘を一本取り出し、板に軽く当てた。
打たない。音を出さない。代わりに、釘先で木に小さな傷をつける。
「表じゃない」
釘先が、板の裏を指した。
「帳面は、狩りに見つかると燃える。だから港の連中は、最初から“裏”に置く」
ミラは頷き、布を丸め直した。
「今夜、そこへ行く」
整備士の手が止まった。
「今夜は、紙が厚い」
「厚いから行く」
ミラが言うと、整備士は短く吐いた。
「……相手は名前を欲しがるぞ」
「呼ばない」
ミラは言い切った。
「名前を呼んだ瞬間、私は紙になる。紙になったら、セレナの空白が“消し”になる」
整備士は釘を板に置き、指先で押さえた。
「なら、合図だけ決めろ」
「合図?」
整備士は、桶の縁を一度だけ叩いた。
今度は一つの音。
「港の裏に入るとき、見張りがいたらこれをやれ。――桶を一回、地面に置く」
ミラは眉を寄せる。
「そんなこと、誰でもできる」
「誰でもできる合図がいい」
整備士は淡々と言った。
「合図が特別だと、それ自体が紙になる。……ただの動作なら、誰も書けない」
ミラは理解した。
派手に賭けない。
紙より前に、癖で通る。
ミラは戸口で踵を返す。
「布は返す」
整備士が言った。
「もう持たない。匂いは覚えた」
ミラは布を袖に戻さず、その場で小さく裂いた。
裂いた端を床に落とす。落としただけだ。
事故なら、持ち物になりにくい。
整備士が、床を見ずに言った。
「……賢い」
褒め言葉じゃない。
確認だ。賢いなら、狩りに見つからない手が要る。
ミラは頷き、外へ出た。
港の灯りは、さっきより増えている。
灯りが増えれば、影も濃くなる。
濃い影の中を、紙束が通る。
ミラは走らない。
急げば、狩りが追いつく。
ただ、港の裏へ向かう。
帳面のある裏へ。
樽の匂いが残る裏へ。
――入口は、匂いから開く。
その頃、宰相府。
乾いた部屋で、文官が紙束を差し出した。
「港向けの追加文面です。“協力”の形にしました。通報ではなく、見守りを促します」
宰相は紙束の角を揃え、指で軽く押さえた。
角が揃う音は、小さい。小さいほど、人は気づかない。
宰相は穏やかに言った。
「協力の顔をした狩りですね」
文官の喉が動く。
宰相は続けた。
「……入口が狭まった。誰かが港の裏を嗅いでいる」
文官が顔色を変える。
「では、どうします」
宰相は紙束を一枚抜き、白い余白へ指を置いた。
「余白を埋めなさい」
「余白?」
「名が出ない場所に、名の代わりを置く」
宰相は微笑んだ。
「“匂い”です」
文官が息を呑む。
宰相は、乾いた声で言った。
「港に油の噂を流しなさい。――油の匂いを、罪にしなさい」
紙が、また厚くなる。
厚くなった紙の下で、ミラは裏へ入る。
桶を一度、地面に置いて。
ただの動作で、狩りの目をすり抜けて。




