37.運び手の入口
港の夕方は、音が一枚増える。
昼の怒鳴り声が引く代わりに、板を打つ音が増える。縄を締める音が増える。荷を置く音が増える。人が疲れると、声より手が働く。手が働く場所は、紙より先に“癖”が残る。
ミラは配給所から離れ、港の端の修繕小屋の方へ回った。
遠回りに見える道を選ぶ。
近道は目立つ。目立てば狩りが追いつく。狩りに追いつかれた瞬間、セレナの空白は“消し”に変わる。
修繕小屋の前には、濡れた縄が束ねて置かれている。
縄の隙間に、紙片が一つ挟まっていた。
紙片は小さく、角が丸い。
掲示板から裂けた紙ではない。刷り場で切り落とした端紙の形だ。端紙は風に乗ってここまで来ない。誰かが運んだときだけ落ちる。
ミラは拾わない。
拾えば持ち物になる。
ただ、目で追う。
紙片の角――ずれた黒点。
それは印だった。
役所の公印じゃない。刷り場が“本物に見せる”ために打つ、合図の点だ。
ミラは胸の奥で名を付ける。
――狩りの黒点。
ミラは息を吸い、修繕小屋の戸を押した。
中は油と鉄の匂い。工具の乾いた音。火はない。火があると目立つ。火がないと、手が汚れる。
奥で、桶を抱えた男が板に釘を打っていた。
袖が濡れていて、指先が黒い。炭に触る人間の黒さだ。
――あの事故現場で、ミラが一度だけ目を合わせた整備士だ。
男はミラを見ない。
見ないまま、釘を打つ音を止めない。
ミラは戸口のまま言った。
「……港に、刷りたての紙が来てる」
男は釘を打つ手を止めた。
ミラを見ずに、指先だけで「続けろ」の合図を作る。
口に出せば紙になる。
だから、合図だけが残った。
ミラは続けた。
「運び手がいる。荷車の影にいた。……目を合わせない。こちらを“知らないふり”で見る人間」
男は、ゆっくり桶を地面に置いた。
置き方が丁寧すぎる。丁寧な人間ほど、丁寧に隠す。
「……追ったか」
「追ってない。追えば紙になる」
男の肩が、ほんの少しだけ緩んだ。
肯定の仕草だ。
ミラは言った。
「入口が欲しい。刷り場じゃない。……運び手へ繋がる入口」
男は黙った。
黙って、工具箱の蓋を開け、布切れを一枚取り出した。小さな作業布だ。端に煤が付いている。
男は布切れをミラに渡さない。
渡さずに、自分の掌でくしゃりと握って見せた。
煤が掌に移る。
「これが付く場所がある」
ミラは唾を飲んだ。
「刷り場の煤」
「刷り場の煤は、町の煤と違う」
男が言う。
「油が混じる。……触ったら、匂いで分かる」
匂いで分かる。
紙を読むより先に、匂いで掴む方法だ。紙に強い国で、紙の外にいる方法。
ミラは男の掌を見た。
煤が、指の腹の溝に入り込んでいる。
男は指を一本立てた。
「入口は二つある」
ミラは、黒点が二種類あることを思い出す。
だが、男が言う“入口”は紙の点じゃない。
「一つは、正面。刷り場の前。……そこは今夜から狩りの目が付く」
男は指をもう一本立てた。
「もう一つは、裏。紙の運び手の“帰り道”だ」
ミラの胸が早くなる。
「帰り道は、どこ」
男は答えない。
答えないまま、桶の底を指でなぞった。なぞって、桶を傾ける。
桶の内側に、湿った煤がこびり付いている。
そこに、黒点と同じ位置の汚れが二つ。
男が低い声で言った。
「港の水路」
「水路?」
「紙は濡れたら終わる。……だから、刷りたての紙は水路を避ける」
男は言い切った。
「避ける道は、決まってる」
ミラはその言葉だけで、道の形を頭に描けた。
港の水路を避けるなら、必ず通る狭い通りがある。石壁の間。灯りが少ない。足音が響く。
男が釘を一本、板に打ち直した。
音が一つだけ響く。
「今夜、そこに立て」
ミラは息を止める。
「今夜?」
男は答えない。
答えない代わりに、工具箱から小さな縄の切れ端を取り出した。
縄の先に、黒い煤の点が二つ。位置がずれている。
男はそれを、床に落とした。
落とし物なら、拾っても“持ち出し”に見えにくい。
ミラは屈まず、足を半歩ずらし、縄切れを自分の靴の影へ隠した。
隠したまま、声を落とす。
「……狩りの点」
男が初めて、ミラを見た。
見てすぐに視線を外す。
「点は、道具だ」
男は短く言った。
「道具を作る手を見ろ。……点じゃなく、手を見ろ」
ミラは頷く。
点を追えば、紙に負ける。
手を追えば、紙の外へ出られる。
外で鐘が鳴った。
夕刻を告げる音。働く手が家へ戻る音。戻る道が、今夜の入口になる。
ミラは小屋を出た。
外気は冷たく、魚の匂いが濃い。
それでも、煤の匂いが鼻に残る。油が混じった煤の匂い。
――匂いで分かる。
ミラは港の水路の方へ歩き出した。
歩き方は変えない。急がない。急げば狩りが追いつく。
路地の灯りが一つ、二つと点る。
灯りが点るほど、影も濃くなる。
その影の中で、誰かが紙束を抱えて歩く。
ミラはまだ見ていない。
だが、今夜は――入口に立つ。
そして、運び手の背中を掴む。
名ではなく、手で。
その頃、都の宰相府では、乾いた部屋に新しい紙が置かれていた。
「港の更新が止まりました」
文官の声。
宰相は紙の角を指で撫で、黒点の位置を確かめた。
確かめてから、穏やかに言った。
「……止めた者がいる」
穏やかな声は、怒りより怖い。
宰相は続ける。
「なら、狩りの紙を厚くしなさい。――“理由”を配りなさい」
文官が頷いた。
紙が、また走る。
走る紙の中で、ミラは入口に立つ。




