29.数が合う顔
役所前を走ってきた若い文官は、裏へ回ると歩幅を変えた。
表では急いでいた。
裏では急がない。
人に見せる速さと、本当に戻る速さを分けている歩き方だった。
ミラは役所裏の水桶の陰から、その靴だけを見ていた。
顔は追わない。
顔を追うと、角で見失う。
靴なら、曲がる前に癖が出る。
文官の右足は少し外へ逃げる。
急ぐときほど、つま先が石の継ぎ目を避ける。
さっき広場で見た歩き方と同じだ。
「戻り先、こっち……」
声には出さず、息の中だけで言う。
文官は役所の裏口へ入らない。
そのまま裏通りを一本抜け、洗い場の横を通り、南へ折れた。
ミラの目が細くなる。
洗い場。
青線の帳面を扱う店が並ぶ通りだ。
紙の汚れが袖につく人間が通るには、自然すぎる道だった。
通りの先に、小さな札屋がある。
表は札と木片、裏で帳付けも請ける店だ。
役所の雑務に絡む人間が出入りしても不思議じゃない。
文官はその店の前を通り過ぎる――ふりをして、半歩戻った。
戸を二度、間を置いて一度叩く。
決めた叩き方だ。
ミラは角の影で、外套の裾を壁に寄せた。
布が擦れる音を消すための癖だ。
戸が細く開く。
中から、年配の男が顔を出す。
店主に見える。実際、店主なのだろう。
だが最初に見たのは客の顔じゃない。文官の手だ。
紙束の厚みを見た目だった。
文官は紙束を渡さない。
代わりに、袖口を指で拭って見せる。
黒い汚れを見せる仕草だ。
店主の目が一度だけ下がる。
頷く。
それから戸を広く開けた。
中へ入れた。
ミラは息を浅くする。
――紙を持ってきたから入れたんじゃない。
――「どの仕事を終えてきたか」が合図になってる。
店の正面には回らない。
正面へ出れば、客の顔になる。
いま欲しいのは客としての情報じゃない。出入りの線だ。
ミラは路地の反対側へ回り、裏手を取った。
札屋の裏は狭い。
木箱と割れた桶、濡れた縄、乾かし中の布。
人ひとり隠れるには足りるが、二人いると気配が増える。
今日は一人でよかった。
裏窓は閉まっている。
けれど板戸の隙間から、声は漏れる。
「……港前、列は崩れた」
若い声。文官だ。
少し間があって、年配の男の声。
「崩れたなら戻せばいい」
「札の位置は見られたか」
ミラの指先が冷たくなる。
札の位置。
やはり偶然じゃない。
文官が答える。
「見られたかまでは」
「ただ、帽子の男が口を入れたあと、窓口の向きが変わった」
帽子の男。
アークのことだ。
ミラは壁に背をつけたまま、目を閉じない。
聞き逃すと次がない。
店主の声が低くなる。
「顔は」
「見てません。見てないはずです」
言い直した。
自信がないときの言い方だ。
紙の擦れる音がする。
帳面を開く音だ。
一枚じゃない。厚い帳面。
ミラは板戸の下を見る。
光の線が揺れる。
誰かが座って書いている。
店主が言う。
「じゃあ、港前は二声目を遅らせる」
「役所前は札じゃなく窓口文で寄せる」
別の声がした。
若い声でも、文官の声でもない。
乾いた声。喉を使わない、帳場の声だ。
「南は名簿で締めればいい」
「数を合わせれば、あとで通る」
ミラの目が開く。
三人いる。
店主と文官のほかに、もう一人。
表に出ていない声だ。
ミラは板戸の継ぎ目へ体を寄せる。
無理に覗かない。
音と足だけ取る。
中で椅子が引かれる音。
そのあと、床板を打つ杖みたいな硬い音が一度。
杖ではない。
木札を束で机に置いた音だ。
店主が言う。
「急ぎの分だけ先に」
「配給相談の列に混ぜる札は青線、通報誘導は赤点」
青線。
赤点。
色で分けている。
ミラはその場で覚える。
言葉を頭の中で並べる。
青線、配給相談に混ぜる。
赤点、通報誘導。
港前は二声目を遅らせる。
役所前は窓口文で寄せる。
順番で人を動かす手順そのものだ。
そのとき、裏手の路地に足音が入った。
二人。
片方は軽い。使いの足。
もう片方は重い。見張りの足だ。
ミラは壁から体を離し、木箱の影へ滑る。
膝をつく。息を止める。
裏口が開く。
若い使いの男が出てくる。手には薄い木箱。
札を入れる箱の厚みだ。
見張り役らしい男が周囲を見た。
顔がこちらへ向く。
一歩、近づく。
ミラは動かない。
視線だけを落とす。
見られたとき、目だけ合うのが一番まずい。
男の足が止まる。
次の瞬間、通りの向こうで桶が倒れる音がした。
大きい音だ。
水が石を走る音が続く。
誰かの悪態。子どもの泣き声。
見張りの男が舌打ちして振り向く。
使いの男が「行くぞ」と小声で急かす。
二人はそのまま表側へ回った。
ミラは三つ数えてから息を吐いた。
助かった、とは思わない。
いまのは運じゃない。
この通りは音が多い。だから、隠れる場所に選んだ。
そういう場所取りの勝ちだ。
裏口が閉まる。
中の声はまた低くなる。もう拾えない。
ミラはすぐに離れない。
壁沿いに半歩ずつ下がり、角まで戻ってから立ち上がる。
最後まで“ここにいた形”を残さないためだ。
通りへ出ると、さっきの桶の水がまだ流れていた。
倒したのは洗い場の小僧だった。叱られて泣いている。
本当にただの事故らしい。
ミラは視線を外し、札屋の表を一度だけ見た。
看板は普通。
客も普通。
役所の雑札を扱う、どこにでもある小さい店。
でも、裏では順番を売っている。
ミラは歩き出す。
急がない。
急ぐと、何かを持って帰る人間の足になる。
角を二つ曲がって、役所前へ戻る手前で、見慣れた影が壁に寄っていた。
アークだ。
帽子のつばを下げたまま、人の流れを見ている。
ミラは近づき、最初に結論だけ言った。
「役所裏の札屋です」
「文官が入る合図があります。紙の中身じゃなく、仕事の汚れで通してます」
アークの視線がわずかに動く。
「他に誰がいた」
「店主のほかに、もう一人。声だけ」
「南は名簿で締める、数を合わせれば通る、と言ってました」
アークの顔から表情が落ちる。
考える顔じゃない。繋がった顔だ。
「名簿か」
ミラは頷く。
「青線と赤点で札を分けています」
「配給相談に混ぜる札と、通報へ寄せる札」
アークは役所の窓口を見た。
札の順番、窓口の向き、列の流れ。
さっき見たものに、いま聞いた言葉が重なる。
「順番だけじゃないな」
アークが低く言う。
「順番を残す記録まで作ってる」
ミラは一拍置いてから、付け足す。
「見張りがいました」
「裏に二人。箱を運ぶ使いと、周囲を見る人」
アークは頷いた。
「入らなかったな」
確認の言い方だった。
ミラは短く答える。
「はい。入れば切れます」
その返しに、アークは目だけで返した。
十分、という合図だった。
広場の方で、誰かが役所の札を読み上げている。
声は大きいが、さっきほど人は乗っていない。
順番が戻ると、同じ声でも刺さり方が変わる。
アークは帽子のつばを上げずに言う。
「次は名簿を見る」
「札屋じゃない。札屋に数を渡してる側だ」
ミラが息を整える。
「南、ですね」
「たぶんな」
アークは広場から目を離さないまま、もう一つ言った。
「リオが拾った港前の立て直し先と、いまの札屋」
「どこかで一本にする」
ミラは頷いた。
線は増えた。
でも散っていない。
増えた線が、同じ“数を合わせる”へ寄ってきている。
その感触があった。
役所の鐘がひとつ鳴る。
昼の区切りの音だ。
ミラは音の方を見ず、札屋へ続く通りの方角を見た。
さっきの店主の声がまだ耳に残っている。
――数を合わせれば、あとで通る。
この国でいちばん怖いのは、嘘の紙そのものじゃない。
嘘の数が、あとで本当の顔をすることだ。
ミラはその言葉を胸の中で一度だけ繰り返し、アークの横に並んだ。
追う線が、次ではっきり人を消す線に変わる。
そんな匂いが、もうしていた。




