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偽情報の王国で、仮面は割れる  作者: 梓水あずみ


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渡さない手



港の監督所に、腕章が来るのは昼前だ。


来る時間が決まっているのは、仕事が予定で動くからじゃない。

紙が予定で動くからだ。

朝の号外に間に合わせるなら、前日の夜に準備をする。

昼前に印を押して、夕方に文を整えて、夜に貼る。


それが、この国の速さだ。


ミラは昼前の風を顔に受けながら、監督所の裏手へ戻った。

さっき作った“遅れ”が、まだ効いているうちに動く。


裏口は開いたり閉じたりを繰り返している。

帳簿係が出入りし、掃除の女が水を運び、倉庫番が札を直す。

人の出入りが多いほど、顔は覚えられない。

覚えられない場所は、動ける。


ミラは倉庫群の外側へ回った。

倉庫の壁際に、捨てられた荷札の束がある。

破れた札。汚れた札。使い終わった紙。


ミラはその束から一枚を拾い、裏を見た。

墨の滲み。番号の癖。押し跡——はない。


まだ足りない。


ミラが欲しいのは“欠片”だ。

裏名簿に触れた証拠が、捨て布から落ちたのと同じように、

どこかに落ちる欠片。


落ちるのは、人が急ぐからだ。

急げば角が折れる。

拾われない紙片は、帳簿に戻らない。

帳簿に戻らないものは、追跡されにくい――だから“外”に出る。


ミラは倉庫の裏、木箱を積む台の脇で待った。


待つ姿は、働くふりで隠す。

箱の縄を締めるふり。

札を揃えるふり。

手を動かしていれば、目は寄ってこない。


足音が来た。


軽い革靴。

薄い底。

帳簿係の男だ。


男は紙束を抱え、顔を上げずに歩いている。

紙束が鳴らない。

鳴らない抱え方は、紙を落とさない抱え方でもある。


——だから、落とすのは別の瞬間だ。


男が木箱の角で、ほんの少しよろけた。

荷運びがぶつかったのだ。

ぶつかった側は謝らない。忙しいから。

ぶつかられた側は怒鳴らない。末席だから。


男は黙って体勢を立て直し、紙束を抱え直した。


そのとき、角が一枚だけ床に落ちた。


音は小さい。

紙の角は、音が小さい。


ミラは拾わない。

拾うと、拾った人間になる。

拾った人間は“関係者”になる。


ミラは箱の縄を締めるふりのまま、足先で紙片を壁際へ寄せた。

蹴らない。押す。

靴底で、そっと滑らせる。


紙片が箱の影に入った。


——拾える。


帳簿係の男は気づかない。

気づいたら戻る。

戻ったら、紙片が消える。


男が通り過ぎるのを待つ。

足音が二つ先の角へ消えたところで、ミラはしゃがむふりをした。

縄を結び直すふり。

そのまま、箱の影へ指を入れる。


紙片をつまむ。


濡れていない。

だが指に、薄く黒がつく。

煤だ。


ミラは紙片を掌の内側に隠し、立ち上がった。


歩く。

立ち止まらない。

立ち止まれば、掌の形が怪しまれる。


ミラは倉庫の陰で、一度だけ紙片を見た。


数字の途中。

欄の罫線。

そして——右下の窪み。


針で押した跡。

押し跡の周りに、黒い粉。


欠片が揃った。


捨て布の黒。

排水溝の紙片。

そして今の落ちた角。


“印の台”がここで使われている。

裏名簿は、港で締められている。

締めに来るのが腕章だ。


なら、腕章に“完成”を渡さなければいい。


ミラは封筒を取り出し、紙片を入れた。

糸で縛る。

一つ結び。

ほどけるが、ほどけた痕が残る結び。


そして封筒の表に、短く書く。


——港裏名簿 押し跡


これを誰に渡すか。

渡し方で、紙が強くなるか弱くなるかが決まる。


ミラは整備士の顔を思い出した。

現場の人間は、表に出れば潰される。

だから出さない。


ミラは文官の靴音を思い出した。

末席の靴音は、守りたい。

守るなら、表に出さない。


なら——渡す相手は一人しかいない。


“紙を作る側”が、紙を作れなくなる相手。


ミラは監督所の裏口へ向かった。

裏口の脇には、掲示用の板が立てかけられている。

注意書きを貼るための板だ。

誰も気にしない。気にするのは風だけだ。


ミラはその板の裏に、封筒を差し込んだ。

見えない位置。

だが、掃除の女の手が必ず触る位置。


掃除の女は、板を動かす。

床を拭くから。

板の裏を拭くから。

そういう“当たり前”の手で、封筒を見つける。


見つけたらどうするか。


ミラは、板の端に小さく印を付けた。

爪で、木に線を一本。

ただの傷に見える。

だが掃除の女には分かる。

“ここに何かある”の印だ。


掃除の女に選択を渡す。

選択を渡せば、女は守れる。

守れれば、紙は強くならない。


ミラは板から離れ、港の風に紛れて歩いた。


背後で鐘が鳴った。

昼前の鐘だ。


腕章が来る合図みたいに聞こえる。

だが合図じゃない。

ただの時間だ。


ミラは懐を押さえた。

封筒はもう、懐にない。


——渡さない手は、持たない手だ。


持たないから、奪われない。

奪われなければ、紙は完成しない。


あとは、女の手が動くのを待つ。

動くのは女だ。

だが、狩りを止めるのは——この小さな遅れだ。

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