縄の向こう、抜かれた控え
縄が張られるのは、早かった。
兵が杭を打ち、太い綱を渡し、そこへ「立入禁止」の札をぶら下げる。事故現場の周囲は、さっきまでの混乱が嘘みたいに区切られていった。区切ることで安心する人もいる。区切られることで、見えなくなるものもある。
セレナは綱の手前で足を止めた。
救助の声、泣き声、怒鳴り声。全部が同じ方向へ流れていくのに、現場の中心だけが妙に静かだった。作業が進んでいる静かさじゃない。余計な人間が排除されていく静かさだ。
「……速すぎる」
呟きは、風に奪われた。
俺は札に目をやった。墨が新しい。紙が厚い。丁寧な札は、だいたい強い。
綱の向こう側で、腕章を巻いた男が声を張る。
「下がれ! 調査は宰相府直轄だ! 不用意に触れるな!」
触れるな、という言葉は便利だ。
触れた瞬間、触れた側が悪になる。
セレナの目が細くなる。触れるなと言われた瞬間、人は触れたくなる。
彼女はそういう人間だ。記録に触れない限り、真実は紙に負けると知っている。
「セレナ」
俺が呼ぶと、彼女は返事をしないまま綱の端へ回り込んだ。視線が忙しい。兵の配置、縄の結び目、出入り口。どこなら入れるかを探している。
「一人で行くな」
「一人じゃない」
それだけ言って、彼女は綱の外れた場所――杭が打たれたばかりで縄がまだ張り切っていない隙間を見つけた。俺は文句を飲み込み、並ぶ。
綱の向こうは、匂いが違った。
焦げた鉄と蒸気と土と薬草。血は目に見えないが、確かにある。人が怪我をした匂いだ。俺は顔を歪める代わりに目を細くした。見るべきものを見ようとした。
セレナは迷いなく、列車の腹へ向かった。
「制御盤」
小さく呟く。ここでいう制御盤は、運行を切り替える大きな盤じゃない。貨物列車の車両側に付いた、封印と点検記録の箱だ。点検した者の署名が残る。残るから追える。
装甲列車は人を運ぶ列車ではない。箱を運ぶ列車だ。箱を守る仕組みがある。封印、署名、点検の痕跡。そこが揃って初めて「事故」と呼べる。
セレナはしゃがみ込み、歪んだ金属の隙間へ手を差し入れた。
蒸気が目に刺さる。それでもセレナの指は躊躇なく動く。
暗がりで、彼女だけが道を知っているみたいだった。
「ここ……」
セレナが薄い板を外した。
中は小さな箱になっていて、そこに紙が入るようになっている。紙と言っても、掲示板の紙じゃない。運行や点検の控えを挟むための小さな票だ。車両が走る間、現場に残るべき紙。
セレナの指が止まった。
「……ない」
声が低い。
俺は息を止めた。
「何が」
セレナは箱の内側を指でなぞった。端の角。紙が擦れるはずの場所。擦れていない。
「事故の直前に書かれた控え」
「点検の時刻と、封印を触った人間の署名が入る紙」
事故の直前に現場が書く《点検票》だ。点検の時刻と、封印に触れた人間の署名が入る。
「これが残ってないと、誰が最後に触ったか追えない」
追えない。
追えないということは、紙が好きに物語を作れる。
セレナがもう一度、痛いくらい丁寧に確かめた。
「抜かれてる。……事故の前に」
背後で足音が止まった。
ひとつ、ふたつ。
迷いのない足音。兵の足音じゃない。現場を歩き慣れている人間の足音だ。
声が落ちた。
「そこから先は、宰相府の管轄だ」
振り向くと、腕章の男が立っている。笑っていない目。仕事をしている目。仕事の名の下で、人を切り捨てられる目。
男は紙を一枚掲げた。印が押されている。丁寧な紙だ。丁寧な紙ほど、強い。
「正式な命令だ。退け」
セレナは紙を受け取らない。受け取った瞬間に、従ったことになる。
「……“混乱を避けるため”。また、それ」
男の表情は動かない。
「混乱は命を奪う。君も分かるだろう」
正しい言葉だ。正しい言葉ほど、刃を隠す。
セレナは一歩踏み出した。
「混乱じゃない。隠蔽です」
空気が一段冷える。
兵の指が、腰のあたりへ寄る。
遠くで、号外の声が変わった。
「号外! 号外! “過激派”の協力者を通報せよ! 報奨金――!」
報奨金。
それだけで空気が変わる。
正義が金で加速する。
セレナが小さく息を吸った。
「……今、この街は“誰か”を必要としてる」
犯人役だ。
無罪だろうが関係ない。紙が指した相手が、今夜の“誰か”になる。
腕章の男が静かに言った。
「退け。君のためだ」
セレナが笑った。声は出ない。口角だけ。
「あなたのためでしょう」
男の目が細くなる。
「言葉に気をつけろ」
セレナが言い返すより先に、俺が一歩前へ出た。
「彼女は現場の人間だ」
腕章の男の視線が俺へ移る。値踏みするみたいに。
俺は続けた。
「現場の紙が抜かれた。――それだけで十分だ」
「ここを閉じるなら、閉じる理由を示せ」
男は一瞬だけ躊躇して、すぐに消した。
「……ここから先は、私の仕事だ」
その言い方が、終わりの言い方だった。
セレナは制御盤の箱をもう一度だけ見た。
空っぽの箱。
紙の居場所だけが、きれいに空いている。
セレナはゆっくり立ち上がった。
目元だけが、ほんの少し優しい。
自分に向けた優しさだ。怖がっている自分を、叱らないための優しさ。
「……戻る」
でも、その言葉の裏に別の言葉があるのが分かる。
戻る。けど、終わらせない。
綱のほうへ歩き出すセレナに、俺も並んだ。
背後で腕章の男が小さく呟く。
「……賢い」
褒め言葉じゃない。確認だ。
賢いからこそ、消せる――そういう確認。
綱の外へ出ると、風が急に冷たく感じた。
市場の甘い匂いが、もう遠い。
代わりに、インクの匂いがする。
紙が、先に走っている。
そして、狩りが始まる前の匂いがした。




