入口の紙
救護所の入口は、たった一本の縄で区切られている。
縄の向こうは命。
縄のこちらは噂。
一本しかないから、誰でも越えられる。
誰でも越えられるから、紙が来る。
——救護の名簿を狙われる。
アークは救護所から離れすぎない距離で、路地の影に立っていた。
目立たない場所。
それでも“見張れる”場所。
外套の襟を上げ、顔は半分だけ隠す。
白仮面じゃない。
まだ“俺”のままだ。
執事が戻ってきて、声を落とした。
「札は渡しました」
「男は中へ入りました」
「見られたか」
「……見られてはいません」
「ただ、入口の机の周りが、少しずつ増えています」
増える。
人が増える。
目が増える。
紙が増える。
アークは救護所の入口を見た。
机の上に名簿。
その横で印を押す役人。
さらにその後ろに、腕章の男が一人。
今朝、港でセレナの札を貼り替えた男と同じ種類の目。
笑わない目。
腕章の男は、救護所の中を見ない。
中を見る必要がない。
入口だけ見れば、命の流れを止められるからだ。
「来たな」
アークが呟くと、執事が頷いた。
「宰相府の人間です」
「救護の名簿を“確認”すると」
“確認”。
この国で一番、便利な言葉。
確認と言えば、触れる。
触れれば、抜ける。
抜けた瞬間、無かったことになる。
アークは息を吸って吐いた。
ここで怒鳴れば、入口は開く。
だがその瞬間、紙は書ける。
——公爵家が救護を妨害した。
——宰相府が襲われた。
血が出れば、さらに強い。
血を出すな。
血が出れば、宰相府は「襲われた」と書ける。
書けた紙は、狩りを止めない。
アークは歩き出した。
縄のほうへ。
執事が一歩遅れて並ぶ。
「閣下、近すぎます」
「近いほうがいい」
「入口で起きたことは、入口で終わらせる」
縄の手前で、役人がアークに気づいた。
慌てて姿勢を正す。
「公爵閣下……」
アークは頭を下げさせない。
下げさせたら、ここが“政治”になる。
政治になれば、誰かの名が紙に載る。
「救護は」
短く問う。
役人が答える。
「……回っています」
「名簿は」
役人が口ごもる。
その口ごもりの理由が、後ろにいる。
腕章の男が、机の横から紙を一枚出した。
厚い紙。
印が濃い。
濃い印は、命令だ。
「宰相府の照会だ」
「救護区画の名簿を確認する」
男の声は低い。
低い声は、人を逆らわせない。
アークは紙を取らない。
取った瞬間、これは“公爵家が受けた命令”になる。
命令を受けた紙は、いずれ公示になる。
アークは男を見た。
「確認は、ここで終わりだ」
腕章の男が一度だけ瞬きをした。
予想と違う言い方だったのだろう。
「終わり?」
アークは淡々と言う。
「名簿は、救護の責任者が持つ」
「宰相府が触れるなら、責任者の前で触れろ」
「責任者が拒めば、宰相府が命を止めたことになる」
腕章の男の口角が、僅かに動いた。
笑いじゃない。
嫌な確認だ。
「君は賢い」
またその言葉。
アークは返さない。
返した瞬間、会話が“記録”になる。
腕章の男は机の名簿に視線を落とした。
視線だけで、役人の手が動きかける。
役人は命令に慣れている。
アークは、役人の手元へ視線を落とした。
視線だけで止める。
「その名簿は、救護の紙だ」
役人の手が止まる。
救護の紙。
命の紙。
命の紙に手を出すのは、政治としては悪手だ。
腕章の男も分かっている。
だからこそ、別の手を出す。
男は懐から、もう一枚の紙を出した。
薄い紙。
だが、文字が強い。
——救護区画に潜伏する協力者に注意。
協力者。
その単語が出た瞬間、縄の外の空気が変わる。
周りにいた者たちが、救護所の入口へ視線を寄せる。
目が集まる。
目が集まると、指が上がる。
腕章の男が小さく言った。
「……“協力者”がいるなら、名簿は証拠になる」
紙が作られる。
入口で。
アークは一歩、縄の内側へ踏み込んだ。
踏み込んで、縄の外の目を全部、自分へ寄せた。
「協力者がいるなら——俺が責任を負う」
役人が息を呑む。
腕章の男の目が僅かに揺れる。
“責任”。
この国で一番、人を動かす餌だ。
アークは続けた。
「名簿はここにある」
「俺が立っている」
「証拠があるなら、俺の前で言え」
怒鳴らない。
声を荒げない。
荒げたら、血が出る。
血を出せば、紙が強くなる。
アークは静かに、けれど通る声で言った。
「救護の入口で、狩りを始めるな」
“狩り”という言葉は強い。
だが今は必要だ。
ここが狩りの入口になるのを止めるために。
縄の外で、誰かが言いかける。
「でも——」
その瞬間、救護所の中から呻き声が聞こえた。
担架が運ばれる。
布が濡れている。
腕がぶら下がっている。
生の映像は強い。
紙より強い。
入口にいた人間たちの目が、一瞬だけ“救助”へ戻る。
その一瞬で、アークは言葉を足した。
「ここで指を上げたら、次はその手が救助をしなくなる」
「救助をしなくなった手は、代わりに石を拾う」
石、という言葉は出さない。
出すと扇動になる。
だから具体の動作だけ置く。
腕章の男が、薄い紙を引っ込めた。
引っ込めたのは退いたからじゃない。
場所が悪いと判断したからだ。
男は代わりに、役人へ低く命じる。
「責任者を呼べ」
役人が慌てて救護所の中へ走る。
走る背中が“入口はまだ生きている”と告げる。
アークはその背中を見ながら、執事へだけ聞こえる声で言った。
「中の男を、奥へ」
「名簿から遠い場所だ」
執事が頷く。
「……はい」
腕章の男が、アークへ近づいた。
近づき方が丁寧だ。
丁寧な距離は、刃の距離だ。
「公爵閣下」
男が初めて敬語を使った。
「君は、救護を守りたいのか」
「それとも、誰かを隠したいのか」
選べ、と言っている。
選ばせた瞬間、こちらが負ける。
アークは答えない。
答えずに、別の言葉を置く。
「救護は、命の紙だ」
「宰相府の紙を入れるな」
腕章の男の目が、ほんの僅かに細くなる。
そのとき、救護所の中からセラが出てきた。
袖をまくり上げたまま、手には濡れた布。
今も命の途中だと、ひと目で分かる。
セラは机の前に立ち、名簿を押さえた。
押さえる手は、紙の手じゃない。
命の手だ。
「確認は、私が立ち会います」
セラの声は低い。
「ただし、救護の流れを止めるなら、あなたの名前で責任を取ってください」
責任を返す。
現場のやり方。
腕章の男は、ほんの一拍だけ黙った。
黙ったのは——効いたからだ。
その一拍で、救護所の奥へ担架が通る。
担架が通った分だけ、入口の空気が“命”へ戻る。
紙より先に、命が動く。
アークはそれを見て、胸の奥でだけ思った。
(入口は守れた)
だが、守れたのは今日だけだ。
紙は引かない。
場所を変える。
獲物を変える。
アークは目を上げた。
縄の外、路地の影に、リオがいる。
汚れない指先で、救護所の入口の紙を見ている。
人を見ない。
名簿を見る。
アークは一度だけ視線を交わし、すぐに切った。
信用しない。
だが見逃さない。
狩りの入口は、今日ここで止めた。
次は——屋敷の入口だ。




