13.詰める人
港は、止まりかけていた。
止まりかけているのに、目には見えない。
見えるのは、止まったあとだ。
棚が空になり、鍋が軽くなり、子どもが泣く。
そうなってから、人は「何かがおかしい」と言い出す。
だからいまが一番怖い。
“何も起きていない顔”のまま、国の腹が詰まっていく。
リオは、屋敷の客ではなかった。
呼べば来る。呼ばなければ来ない。
そういう人間が、ここ数か月、屋敷と宰相府のあいだを行き来していた。
港の帳面、配給の帳面、掲示の文面——仕事の紙が増えるほど、彼は黙って現れた。
アークは彼を“味方”だと思ったことはない。
だが“敵”だと決めるほど単純でもない。
便利な人間ほど、怖い。
廊下を歩く執事の足音は、いつもより薄い。
屋敷の人間が音を消すのは、誰かを起こしたくないからじゃない。
言葉が起こすものを、知っているからだ。
「閣下」
執事は声を落とした。
「港湾監督の代理が参ります」
「それと——リオ殿が、今日からこちらで詰めます」
「これまで通り、調整はあの方が」
“詰める”。
その言い方だけで分かる。
今までのリオは、必要なときだけ現れる影だった。
今日からは、その影が屋敷の中に腰を下ろす。
アークは頷きもせず言った。
「宰相府が決めたか」
「はい。『臨時では足りない』と」
臨時では足りない。
つまり——見張りを増やすということだ。
「通す。ただし港の話だけだ」
「余計な紙は増やすな」
「承知しました」
執事はそれ以上言わない。
言えば、それが紙になる。
紙になれば、掲示板に貼られる。
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応接の間には、海の匂いが薄く混じっていた。
港湾監督の代理は、肩幅の広い男だった。
爪の間に油と塩が落ちない。帳簿より縄の人間の手。
男は椅子に腰を下ろす前に、地図を机へ広げた。
港と倉庫と街を、太い指で順に叩く。
「閣下。港が詰まってます」
挨拶の前にそれを言うのは、現場の人間の癖だ。
余計な言葉を挟むと、その分だけ荷が腐る。
「北が止まりかけてる。封鎖で荷が流れねぇ」
「流れねぇ荷が、南の倉庫に積み上がってる」
「倉庫が塞がれば、船が入れない。船が入れなきゃ、街に回らない」
男の指が、倉庫の印の上で止まる。
「……現場が荒れてます」
「荷の話より先に、“誰のせいだ”が動き始めてる」
その“動き始める”が一番厄介だと、アークは知っている。
荷より先に、疑いが動く。
扉が静かに鳴った。
執事が一歩引いて、道を空ける。
入ってきたのがリオだった。
身なりは簡素だ。
だが背筋だけが妙にまっすぐで、視線が机の角と扉の位置を先に測る。
書類を持つ手も、汚れないように端だけを押さえている。
「本日からこちらに詰めます。宰相府のリオです」
港湾代理は、吐き捨てるように言った。
「屋敷に張りつくってことか」
「現場は、紙を増やされるのが一番嫌なんだよ」
言い方は荒いが、意味は真っ直ぐだった。
紙が増えると、責任が増える。
責任が増えると、吊し上げが増える。
リオは言い返さず、淡々と続けた。
「配給の乱れを抑えたい」
「港が止まれば、街が先に飢えます」
港湾代理が鼻を鳴らす。
「だからって、犯人探しの紙を貼るな」
「現場が仕事どころじゃなくなる」
リオは一度だけ頷いた。
「犯人探しの紙は出しません」
港湾代理の肩が、ほんの少しだけ下がった。
安心じゃない。警戒が一瞬ほどけただけだ。
アークも同じだった。
同じ方針が宰相府の口から出るのが気味が悪い。
気味が悪いのに、頼りたくなる。
港湾代理が問う。
「じゃあ、何をする」
リオは窓の外——港ではなく街の方角を見た。
掲示板があるほうだ。
「先に折れるのは荷ではなく、人です」
港湾代理が眉を寄せる。
リオは、順に言った。
順に言うと、誤魔化しが入りづらい。
「荷が詰まる」
「不安が増える」
「次に回るのは、責任の押しつけです」
「押しつけが回り始めたら、現場は手を止めます」
「荷を動かす手が、隣の手を疑い始めるから」
アークが口を挟む。
「……もう回っている根拠は」
港湾代理が、言いづらそうに唇を舐めた。
「整備の連中がひとり、余計なことを口にした」
「事故の直前の控えが抜かれてるって」
「現場の紙が綺麗すぎるって」
「……そいつの名が、掲示の前で囁かれてる」
アークは一拍、呼吸を止めた。
整備士。
セレナが掴もうとして、掴む前に消えた線だ。
リオの目が、ほんの僅かに動いた。
同情とも計算とも取れる、短い揺れ。
「その男を守るべきです」
リオが静かに言った。
港湾代理が噛みつく。
「守ったら余計に疑われるだろ」
リオは淡々と返す。
「守らなければ、港が止まります」
「吊し上げが始まれば、現場は止まる」
「現場が止まれば、荷は腐る」
「腐れば、また次の名が貼られる」
リオは最後だけ、低くした。
「……矛先を折るしかない」
アークが問う。
「どう折る」
リオは、紙ではなく人の動きの話をした。
「救護区画に回します」
「怪我人の手伝いに入ったことにすれば、人目から外せる」
「掲示の前で名を呼ばれる前に、現場から引き剥がせます」
港湾代理が唸る。
「救護区画は役所が押さえてる。勝手に入れねぇ」
リオは即答しない。
焦って答えると、現場は信用しない。
「救護の責任者が、規則より現場を優先する人間なら通ります」
アークは地図の端を指で押さえ、伏せるようにして言った。
「救護の責任者に、話を入れる」
「今日の話は、ここまでだ。——港を止めるな」
港湾代理は地図を畳み、椅子を引く音だけが残る。
「……了解だ、閣下」
リオは一礼だけして、先に出た。
港湾代理がそれに続く。
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二人が退出し、扉が閉まる。
部屋の空気が少しだけ軽くなった。
軽くなるのが怖い。
軽くなると、人は油断する。
執事が戻ってきて、声をさらに落とした。
「閣下。掲示が増えております」
「“協力者を見た”という噂が、紙より速い」
“見た”。
証拠じゃない。
だがこの国では、“見た”が真実になる。
執事は続けて、さっきの出来事を事実だけ置いた。
「……使用人通路で、侍女がリオ殿とぶつかりました」
「侍女は洗濯籠を抱えており、膝を擦りむきました」
アークの目が、わずかに動く。
「リオ殿は足を止めました」
「外套を外して床にかけ、侍女の膝を隠しました」
外套の黒が、床を隠す。
「その下で、小さな革の筒が転がりました」
「留め金が外れ、中の金属が床で一度だけ鳴りました」
執事はそこで言葉を区切る。
推測は置かない。
推測は紙になる。
「侍女が傷に気を取られている間に、筒は回収されていました」
「そのあと、リオ殿は侍女の洗濯籠を洗い場まで運んでいました」
報告のまま終わらせる。
廊下の外から、遠いざわめきが届く。
掲示の前のざわめきだ。
熱を帯びた正義のざわめき。
アークは扉の奥ではなく、手前の現実へ戻るように言った。
「……急ぐぞ」
執事が頷く。
「はい」
掲示の前で、指が上がる前に。
狩りが始まる前に。
紙より先に——守るべき“口”がある。




