127.口が先に読む
三枚の紙は軽い。
軽いのに、持ち方を間違えるとすぐ目立つ。
ミラは《光》と《死亡扱い》と、押し跡の残る紙を袖の内で重ね直した。
一番外には何も書かれていない紙を置く。文字が見えると、人の目はそこへ寄る。
見せるのは白だけでいい。
箱置き場の外では、もう怒鳴り声が近い。
「そっちだ!」
「裏を見ろ!」
ミラとリオは走らない。
細道を抜け、配給台の裏へ出る。
表では列ができていた。腕章の色が混ざっている。役所の灰、配給の茶、帳場の黒。
人の手には札がある。折れた札、濡れた札、角の丸くなった札。
札を持つ手が多い場所は、紙を隠すのに向く。
「列の中を切る」
ミラが言う。
「押すなよ」
リオが返す。
二人は配給待ちの列の脇を、ひとり分だけ空けて進んだ。
押さない。急がない。急いだ足は追われて見える。
前で、子どもを抱いた女が振り向いた。
後ろの男に肩をぶつけられ、手の札を落とす。
札は泥の手前で止まった。
黒い腕章がその横を荒く抜ける。
「通せ!」
列が揺れた。
女の子どもが泣く。
その前に、リオの手が出た。
札を拾い、泥のついていない角だけを持って女へ返す。
「なくすな。札がないと、今日はお前の番じゃなくなる」
女は礼を言いかけたが、リオはもう前を向いていた。
子どもは泣きやんでいない。
でも、札は戻った。
列の人間はそれだけで少し静かになる。
生活の場では、正しさより順番が効く。
ミラは列の影へ入りながら、袖の中の三枚を指で探った。
角が揃っている。
そのとき、指先に小さな欠けが当たる。
一枚だけじゃない。
三枚とも、右上の角に同じ切れ目がある。
ミラは歩きながら、袖の中で紙をずらした。
切れ目は三角だ。
偶然の破れじゃない。最初から切ってある印だ。
「同じ角」
リオが横目だけで見て言う。
「渡し口の印だな」
「分かるの」
「上へ回す紙でよくある。差し込みやすくするための欠き方だ」
上へ回す紙。
ミラはその言葉を頭の中で止めた。
ただの帳場の紙じゃない。
まだ途中だ。
どこか上の渡し口へ入る前の紙だ。
列の先で、配給台の上に札が積まれている。
白札、灰札、控え札。
その端に、切り角のついた紙がひと束だけ見えた。
同じ欠き方だ。
ミラは足を止めないまま、小さく言う。
「本当に上へ行く紙だ」
「しかも急ぎだ」
リオが続ける。
「急ぎの紙は、切り角が大きい」
ミラは袖の内の三枚をもう一度押さえた。
確かに大きい。
普通の差し込みより、深い。
そのとき、列の外から別の声が飛んだ。
「何を失くした!」
「誓約対象の束だ!」
束。
その言葉で、列の中の空気が少しだけ変わる。
振り向く人間が増える。
誓約。対象。
生活の言葉ではない。
だからこそ、人は勝手に怖がる。
ミラは配給台の木の脚に身体を寄せ、袖の中の《死亡扱い》を少しだけ裏返した。
裏は白い。
だが、下の端に薄い朱がついている。
印じゃない。
こすれた跡だ。
ミラは指でこすらない。
見るだけにする。
「赤い」
リオが言う。
「上の印泥だな。帳場の赤じゃない」
帳場の赤じゃない。
上の赤。
上の渡し口へ入る前に、どこかで印泥に触れている。
つまり、この三枚は、もうかなり上まで行きかけていた。
進んでいた。
もう少しで、届いていた。
その横で、配給待ちの老人が列の外を見てぼそりと言った。
「また公の字か」
ミラの目が動く。
老人が見ていたのは、黒い腕章が手にした別の控え紙だ。
そこに何が見えたのかは分からない。
でも、老人の一言に、後ろの女がすぐ乗る。
「公って、公爵家の公?」
「この前もそうだったよね」
違うかもしれない。
まだ、そこまでは読めないかもしれない。
だが、もう遅い。
列の三人目が言う。
「また公爵家か」
四人目が聞き返す。
「何したの」
五人目は中身を知らないまま、もう顔だけしかめている。
ミラは袖の中の押し跡の紙を強く握りそうになって、やめた。
握れば皺になる。
皺は、見つかったときに一番まずい。
リオが低く言う。
「まだ《公》しか出てない」
「でも、口はそこまで読む」
ミラが返す。
それだけだ。
それだけで十分だった。
真実がないわけじゃない。
まだ届いていないだけだ。
その前に、読み方だけが列を走っていく。
前で配給係が木札を打つ。
「次!」
いつもの声だ。
生活の声だ。
それなのに、列の端ではもう別の話が育っている。
公の字。
公爵家。
またあそこだ。
証拠はない。
でも、順番だけはもうできている。
靴磨きの子が、配給台の下をくぐって反対側へ出た。
顔は上げない。
足だけで止まり、つま先で床を二回打つ。
二回。
右。
上。
リオがすぐに拾う。
「右階段」
「上の渡し口だ」
ミラは頷いた。
次に行く場所が決まった。
三枚の紙は、もう途中まで上へ行っていた。
なら、続きを見ればいい。
《照》を押す場所を見れば、誰がこの順番を固めるのか分かる。
背後では、まだ誰かが言っている。
「公爵家だって」
「やっぱり」
ミラは振り向かない。
振り向いても、もう止まらないからだ。
まだ紙には、《公》しかない。
それでも群衆の口は、もうその先を読んでいた。




