113.帳の手
受領所のざわめきは、紙より遅い。
遅いのに、止まらない。
止まらないから、狩りになる。
腕章は声を張り続ける。
「確認は不要だ! 順番を守れ!」
順番。
いま、順番が崩れている。
ミラは柱の陰から動かない。
動けば、こちらが札になる。
札にされないために、見る。
見るのは、貼り手の指だ。
貼り手は落ちた紙片を探し、見つからないふりをして、次の板を押さえた。
押さえ方が雑だ。
雑な手は、癖を落とす。
リオが、靴の内側に滑らせた紙片を、見えない位置でミラへ渡す。
触らない。
見るだけ。
紙片の角に、黒い粒。
黒点の欠け。
その裏に、薄い罫線。
名簿の余白だ。
そして、一語。
「帳」
ミラはすぐに定義する。
帳──身代わり名じゃない。
“帳面側(記録側)に責任を戻す”ための、反転の一語。
だから腕章が焦る。
焦りは、紙の匂いで分かる。
封蝋の甘い匂いが、急に濃くなる。
閉じ直しの匂い。
貼り手が受領所を離れた。
離れる方向が、商会の裏へ戻る方向だ。
戻り足。
戻り足は、机へ繋がる。
ミラはリオにだけ聞こえる声で言う。
「追うのは足。貼り手じゃない」
リオが頷く。
頷いた瞬間、影が溶けた。
足で拾うために。
ミラは受領所の台を見る。
《確認不要》の端が、まだ浮いている。
浮いている端は、また落ちる。
落ちれば門札が増える。
増えれば代が増える。
増える前に、帳の手を取る。
ミラは受領所の外れの小さな机を見る。
机の上に、控え板が三枚。
《受領》《代理》《代》。
代の欄だけが新しい紙で貼り直されている。
貼り直しは、間違いを隠すための動作。
隠したいのは、“帳”だ。
帳が混ざると、責任が戻る。
責任が戻ると、狩りが遅れる。
遅れるのを、向こうは一番嫌う。
ミラは台の脚を見た。
脚の根元に、紙粉が溜まっている。
紙粉の中に、銀粉が混ざっている。
鍵穴の粉。
ここへ原本が運ばれた証拠だ。
原本は棚から出て、受領所へ来て、また戻る。
戻る途中のどこかで、“帳”が切り取られる。
切り取る手が、帳の手だ。
ミラは息を一度だけ止めた。
止めたのは怖いからじゃない。
足音を聞くためだ。
受領所の裏の通路で、靴音が二つ重なった。
一つは貼り手の靴。
軽い歩幅。
もう一つは、重い歩幅。
急がないのに、迷わない。
迷わないのは、順番を知っている足。
鍵番の足だ。
鍵番がここへ来るなら、原本が動く。
原本が動くなら、帳の手は近い。
ミラは柱の陰で、腕章の声を背中で聞いた。
「確認は不要だ!」
不要だ、を言うたびに、紙が増える。
増えるたびに、手が忙しくなる。
忙しい手は、落とす。
落としたものは、拾える。
リオが戻ってきた。
息を切らしていない。
切らしていないのに、目が刺さっている。
「貼り手、戻り足が二本に分かれた」
「二本?」
「一つは商会の裏口。もう一つは……役所の旧記録庫の方」
旧記録庫。
役所の紙の底。
ミラの胸が一度だけ冷える。
ここまでで一番、線が太い。
「帳の手は、役所側だ」
ミラは唇の内側で言う。
商会の机は入口だった。
名簿は増殖装置だった。
でも“帳”は、役所の底に繋がる。
紙の底に繋がるなら、白仮面が要る。
要るのに、今は付けない。
付けた瞬間に、門が閉じるからだ。
ミラはリオにだけ聞こえる声で、短く命じた。
「旧記録庫の鍵番を拾って」
「結び目、だな」
リオが笑わずに頷く。
ミラは受領所の台を最後に一度だけ見た。
《確認不要》の端が、風でめくれている。
その下に、黒い角が見えた。
黒点。
門札が、また落ちる。
ミラは決める。
落ちる前に、帳の手を折る。
「……次は、役所の底」




