白百合の園 ―『泥棒猫』の女給は、令嬢の『飼い猫』へと堕とされる―
「泥棒猫さん」
春の陽だまりを撫でたのは耳朶を溶かすほどに甘い声だった。
肩を掴まれて、はっと振り返った梅芽の目に飛び込んできたのは可憐な少女。
仏蘭西人形のように美しく、けれどその細められた瞳の奥にねっとりとした毒を孕んだような少女だ。
梅芽はその少女に見覚えがあった。
先程まで女給をしていた喫茶店の常連客。
いつも窓際の席で鼻を突くような珈琲の香りを纏いながら本を読んでいる少女。
帰国子女なのだろうか。深紅の洋装をごく自然に着こなしていて――それが梅芽にはひどく憎たらしかった。
――泥棒猫。
確かにこの少女はそう口にした。
梅芽は唇を噛みながらその少女を睨みつけた。
着物の袂をぎゅっと握り締める。
一張羅の銘仙越しに冷たく硬い宝石が手のひらに食い込んだ。
そこには確かな――梅芽の罪の重みがあるのだった。
「言い訳はしないのね? 賢明な判断だわ。貴女が盗んだその金剛石の首飾りはね、一点物なの。この世で私しか持っていない――その筈の物なのよ」
野良猫が欠伸をするような心地よい陽気の中で、梅芽の背筋につうっと冷や汗が垂れた。
自分は――何という虎の尾を踏んでしまったのだろう。
「今、私が貴女を憲兵に突き出したら……その袂の中を暴かれたらどうなるかしら? ……わかったら大人しくついてきなさい」
有無を言わさぬ声でそう告げると、少女は身を翻して歩き始めてしまった。
「あっ……!」
カツ、カツ、と裏路地に編み上げの長靴の音が響き渡る。
確かな罪の証を握ってしまってる以上、今は彼女に従うしかない。
梅芽は、ひらひらと洋装の裾を翻しながら歩く少女の後ろ姿を、からんころんと下駄の音を立てながら必死に追いかけた。
◇ ◇
ガタン、ガタン、と揺られながら梅芽は馬車の上で借りてきた猫のように身を縮めていた。
隣を見ると優雅に街並みを眺める少女。
どうやらこの馬車は少女の家の物であるらしい。
大通りに停めてあった、黒塗りの車体に金色の紋章がついた立派な馬車。
彼女はごく自然にそれに乗り込むと、梅芽にも続くように促したのだった。
白銀のようなさらりと美しい髪がお日様を浴びてきらきらと輝いている。
日陰側にいる梅芽にはそれがとても眩しく見えた。
それは正に今の二人の関係を現しているようで――。
「泥棒猫さんは女学校に通っているのでしょう?」
不意に少女が天使のような微笑みを梅芽の方に向けた。
その言葉はその慈愛に溢れた表情とは裏腹に、梅芽の心臓を小刀のように鋭く抉った。
「……っ」
「ふふ、怖い顔。学校に通告なんてしないわよ。勿論、貴女が私の言うことを聞いてくれたら……だけど」
清楚で有るべきとされている女学生が、喫茶店で女給をするなどという、下賤なことをしている。
少女が告げたのは、彼女がその梅芽の禁断の秘密を握っている――今の梅芽の生活を好きなように壊すことができるという告白に他ならない。
ああ、自分は、この袂の中の金剛石という枷がなくとも、この少女に手綱を握られるしかないのだ。
梅芽の胸のうちが絶望に染まっていく。
「学費の仕送りがなくなったのでしょう? 没落した商家のお嬢様が禁忌を犯してまで守りたかったのは、『女学生』という肩書きかしら。それとも――無理矢理決められた縁談からの逃避?」
心臓が少女の囁き声に絡め取られ、握り潰されているかのように痛む。
水晶のように透き通ったその瞳の奥に潜んでいる筈の、彼女の目的が見えない。
梅芽は彼女の毒牙から守るように、手を心臓の前に重ねた。
「あ……貴女は、どこまで、知って……っ」
「さあ、どうでしょう? でも……貴女が梅芽という可愛いお名前を持っていることも知ってるわ」
――この少女は自分の何もかもを知っている。
衝撃の事実を理解し梅芽が息をのんだ時、ガタン、と大きく馬車が揺れた。
その拍子に二人の肩が深く重なった。
梅芽は身体を離そうと身動ぎしたが、少女は逆に身を寄せてくる。
彼女の纏う、濃厚な百合の香りと、嗅いだこともない高価な香油の匂いが混じりながら、逃げ場のない檻のように梅芽を包み込む。
張り詰めた薄氷に熱い指先を突き立てて砕くように、梅芽の胸の前の手があっさりと剥がされる。
「そうね……私だけが貴女のことを知ってるのは不公平ね」
少女はくすくすと笑いながら梅芽の耳に唇を寄せた。
「ファロル」
少女の桜桃のように赤い唇は。
メロンソーダのグラスをストローでかき混ぜたような、弾む音色を奏でた。
「……私の名前よ。ねぇ、梅芽……呼んでみて?」
「へ……っ?」
少女の澄んだ声色に呆けていた梅芽は、急に名を呼ばれて肩をぴくりと跳ねさせた。
「呼んで、私の名前。ファ、ロ、ル……って」
ファロルの細い指先が梅芽の唇を、とん、とん、とん、と叩いた。
それはまるで――呪いの封印を解くようだった。
「ふ……ファロ、ル……」
震える声で紡いだその名は、餡蜜よりも甘く重く、舌に残った。
ファロルは満足そうに目を細め、剥がした梅芽の手にそっと自分の指を絡めた。
◇ ◇
馬車が行き着いた先は、春の陽光をその身に浴びて白く輝く豪奢な洋館だった。
きっちり制服を纏った門番が、主人の帰還を察知して重厚な鉄柵に手をかける。
ぎい、と重い音を立て、門が厳かに開かれた。
突き刺すような昼の日差しが門の影を鋭く地面に刻んでいる。
ファロルはその様子を、まるで玩具に飽いた子どものように酷く退屈そうな目で見ていた。
馬車が通過すると、背後でガシンと錠の閉じる音がした。
自分は外界から閉ざされたこの見知らぬ洋館に閉じ込められてしまったのだ――その事実が梅芽の胸に重くのしかかる。
数台の馬車が並んで走れるほどに広い砂利道を抜け、車寄せで車輪が止まる。
扉が開かれると同時に、どこか眠気を誘うような暖かな春の風が吹き込む。
開かれた扉の外では燕尾服を着た老僕が深く腰を折っていた。
「お帰りなさいませ、ファロルお嬢様」
ファロルが慣れた仕草で老僕の手に指を添え、陽だまりを渡る蝶のような軽やかさで馬車を降りる。
「梅芽、おいで」
逃げ出したくなる衝動を、銘仙の袂に入れた金剛石の重さで抑え込み、震える足で眩い地面に降り立った。
「爺、お下がりなさい」
「お嬢様、しかし、お客様のおもてなしを……」
「下がりなさいと言っているの。お茶も要らないわ。……この子のことは私が直々に『おもてなし』するから」
ファロルの涼やかな声が長閑な午後の空気を鋭く切り裂く。
老僕はそれ以上の言葉を重ねることなく、洋館の方に消えていった。
梅芽が言葉を失い、その背中を見送っていた、その時。脹脛を生き物の柔らかな熱が、ぞわり、と撫でた。
「ひゃっ」
足元を黒い影がすり抜けファロルの方へと駆け寄っていく。
「うふふ、ただいま。……いい子たちね、出迎えに来てくれたの?」
お日様を浴びて艷やかに光る黒猫たちに、ファロルは蕩けるような笑みを零した。
「さあ、梅芽。こっちよ」
ファロルが梅芽の指を絡め取り、手を引いた。
梅芽は導かれるがまま歩みを進める。
二人は石造りの本館を通り抜け、陽光が降り注ぐ渡り廊下を進んだ。
カツ、カツ、というファロルの小気味よい長靴の音を、からん、ころん、という梅芽の下駄の音が心細げに追いかけていく。
やがて庭園の奥の萌え渡る春の緑に囲まれて、その異形の光景は姿を現した。
それは巨大な玻璃の建物だった。
無数の鉄枠に支えられた水晶宮は白日の光を乱反射させ、見る者の目を焼く。
まるでここだけが、日本ではないどこか異国からまるごと切り取られてきたかのようだ。
「……きれい」
思わず漏れた梅芽の呟きにファロルがその顔を覗き込む。
逆光に透ける彼女の白銀の髪が光の粒を撒き散らしている。
彼女は何も言わずただ誘うように目を細めると、真鍮の重厚な取っ手に手をかけた。
――カチャリ。
硬質な扉が開かれる。
その瞬間。
春の長閑な空気は遥か遠くに消え去った。
押し寄せてくるのは肌に纏わりつくような湿った熱気。
そして――意識が朦朧とするほどに濃厚な白い百合の芳香だ。
あまりの空気の濃密さに梅芽の視界がくらりと揺れる。
「さあ、入りなさい。泥棒猫さん」
梅芽は自分の背中を押すような奇妙な予感に震えながら、一歩、その白く煙る楽園へと足を踏み入れた。
そこには現実のものとは思えない光景が広がっていた。
見渡す限りの、白い、白い、『白百合の園』。
頭上で交差する玻璃の天井からは細かな光の粒が降り注ぎ、狂い咲く花々を白く塗りつぶしている。
――バタン。
背後で扉が閉まった。
外界の音はもう届かない。
その時。
二匹の黒猫たちが梅芽の足元を抜けて、百合畑へと飛び込んで行った。
「あっ……だめよ、百合は――っ!!」
梅芽が弾かれたように悲鳴のような声を上げ、黒猫を捕まえようと必死に手を伸ばす。
以前、喫茶店で医者らしき客が話していたのだ。
猫にとって百合は猛毒で、香りを嗅ぐだけで命に関わることもあるのだと。
「ふふっ……梅芽は優しくて博識なのね。でも、心配しなくていいのよ」
ファロルは楽しげに「くすくす」と喉を鳴らし、黒猫たちに続いて百合畑の中へと歩みを進めた。
「ここの百合は私の我儘で毒を抜かれた特注品なの。この子たちがどれだけ戯れても命を落とすことはあり得ないわ」
そう言ってファロルが座り込んだのは百合畑の中央――まるで生贄を待つ祭壇のように、ぽっかりと不自然に空いた円状の空間だった。
「泥棒猫さん。……ここへ、おいでなさい」
透き通る声が湿った熱気に混じって梅芽を招く。
秘密を握られて抗うこともできない梅芽は、一歩、また一歩と重い足取りを踏み出した。
絡みつくような視線に導かれるままファロルの隣に沈み込む。
待ってましたと言わんばかりに二匹の黒猫が、主と獲物の境目を埋めるようにして寄り添ってくる。
「ねぇ、泥棒猫さん」
不意にファロルの気配が極限まで近づいた。
耳朶をくすぐる赤い唇が、逃げ道を塞ぐように呪いを吹き込む。
「貴女が今までどんな物を盗んだのか……教えて?」
――これは罠だ。
本能がけたたましく警鐘を鳴らしている。
けれど、脳を掻き回すように濃厚な百合の芳香と、隣り合う少女から放たれる圧倒的な熱に、梅芽の思考はとろとろに溶け始めていた。
「そ、それはっ……」
梅芽は言い淀み、唇を震わせる。
するとファロルは、迷える子羊を導く聖女のような慈愛に満ちた笑みを湛えた。
「大丈夫。ここにいるのは、私と貴女、そして秘密を守れる黒猫たちだけ……。生活が苦しかったのでしょう? 貴女が生きるために犯した罪を私は責めたりしないわ」
ファロルの言葉は煮詰めたキャラメルのように甘く、粘り強く、梅芽の鼓膜に絡みついて離さない。
震える梅芽の膝を宥めるかのように、ファロルの熱い掌が包み込んだ。
銘仙の薄い布地を通して、逃げ場のない熱がじわりと肌に染み込んでいく。
「ねぇ、泥棒猫さんのことをもっと知りたいの。だから教えて? 最初は何を盗んだの?」
その言葉は甘美な自白剤となって、梅芽の脳髄を直接撫でつける。
隠しておくべき、罪深い行い。
けれどこの少女になら、全てを晒して、許されたい――。
そんな倒錯した願望が梅芽の喉をせり上がってきた。
「あっ……わたし……私は……っ」
梅芽は抗う術を失い、自らの罪を舌の上に乗せた。
「最初は、銀の匙を……っ」
「ふふ……そうなの。最初は、喫茶店の匙だったのね?」
親からの仕送りが断たれ、学費と下宿代と、生活費が要る。
内緒で始めた喫茶店の女給だと、ほんの少しだけ足りなかった。
そんな時に目に入った綺麗な銀色の匙。
たくさんあるから、一つぐらい。
そんな軽い言い訳と、重い罪悪感と共に、袂に放り込んだ。
それが梅芽の罪の始まりだった。
店名の刻印を必死に削り取って、一張羅を隠すように外套を着込んで、裏路地の古物商へ。
重い罪悪感と共に得た金は、その日の昼食代であっけなく消えた。
「それから? 次は?」
「……厠にあった、口紅を」
厠に残されていた仏蘭西製の口紅。
喫茶店に来る客なら、こんなものいくらでも買えるだろう。そう考えながら袂に放り込んだ。
「気のいい貴婦人が譲ってくれた」――そう言いながら女学校の学友に見せたら、目を輝かせて買ってくれた。
数日分の生活費が賄えた。
それからも貴婦人の口紅や白粉の忘れ物には、度々世話になった。
「皆、お洒落が好きだものね。それから?」
「……ネクタイピンを」
テーブルを片付けようとして見つけた、紳士が忘れて行ったネクタイピン。
目に入った瞬間、衝動的に袂に放り込んだ。
後で届け出るつもりだったのを忘れてしまった――そんな言い訳を用意しながら。
真珠がたくさんついていて、古物商で値が高くついた。
女学校の月謝の半分を賄えて、このおかげで居場所を守れたんだと、正当化するように自分に言い聞かせた。
「もっと高価なものもあるんじゃないかしら」
「……万年筆を、二本」
一つは女学校の教壇に置かれたままだったもの。
もう一つは喫茶店の客が忘れて行った、高価な舶来品。
それを売ると一気に一学期分の延命ができた。
卒業という名の光を盗品の金で買い取っていたのだ。
「……それでおしまい?」
ファロルが梅芽の喉元を、猫の首筋をなぞるように指先で愛撫した。
その指は、今、梅芽の袂に隠している存在を無言で指摘しているようだった。
「さあ、白状なさい、泥棒猫さん。貴女は何を盗んだのかしら? ……この私から」
ファロルの指が梅芽の震える手首を優しく掴む。
「……これ、を……」
梅芽は袂を握り締めた。
その中にあるのは、窓辺で本に集中するファロルの手鞄からはみ出ていた、金剛石の首飾りだ。
客の目の前で当人の私物を盗むなんて、危険が大きすぎる。
それでも、これさえあれば卒業までのお金が十分に賄えて、さらにお釣りが来る。
女給の仕事からも、窃盗の罪からも、解放される。
誘惑に抗えず、珈琲のお代わりを運ぶ際に袖に引っ掛けた。
首飾りは吸い込まれるようにして袂に滑り込んだ。
興奮に頬が緩むのを隠すのに苦労した。
――後ほどそれが自分をこんなに苦しめるなんて思ってもいなかった。
いや、考えないようにしていた。
「……馬鹿ね」
呆れたような、そして慈しむような溜息が、ファロルの唇から漏れる。
ファロルは迷いのない手つきで、梅芽の袖口の狭い隙間へと、その白く細い手を滑り込ませた。
「ひゃ……っ」
袖口で二人の肌が重なる。
震える梅芽の腕に触れたのは、驚くほど熱いファロルの体温だった。
ファロルの柔らかな指先が袂の中で獲物を探すように動くたび、梅芽の手首をくすぐったい感触が這い回る。
そのどこか官能的な刺激に、梅芽の背筋にぞくぞくとした戦慄が走り、思わず肩が跳ねた。
自分の罪を、一番見られたくない相手に、直接手探りで暴かれる。
その屈辱と、触れられた場所から溶けてしまいそうな甘い熱に、梅芽は呼吸を忘れて身を固くするしかなかった。
やがてファロルの指先が、重い『罪』を捉える。
引き抜かれた細い手と共に温室の陽光の下に引き摺り出されたのは、冷たい光を放つ――梅芽の罪の証である金剛石の首飾りだった。
「こんなもの貴女みたいな分不相応の小娘が質屋に持ち込んでみなさいな。真っ先に盗品を疑われて、通報されるのが関の山よ」
「――それ、は……っ」
冷ややかなファロルの指摘が梅芽の心臓を容赦なく打ち抜いた。
――ああ、そうだ、その通りだ。
首飾りを袂に迎え入れながら想像したアイスクリームのように甘く溶ける幸福な結末なんて、どこにもあり得なかったのだ。
肩から力が抜け、梅芽は倒れそうな身体をどうにか支えながら絶望に俯いた。
ファロルの手の中にある首飾りが咎人を縛り上げる鎖のように見える。
背筋を伝う汗さえも凍りついたように冷たかった。
沈黙を破ったのは、温室の熱気を孕んだ甘美な囁きだった。
「ねぇ……私が貴女を買い取ってあげるわ」
縋るような思いで顔を上げると、そこには慈愛に満ちた微笑みを浮かべるファロルがいた。
逆光を背負ったその姿は、救いをもたらす天使のようでもあり、奈落へと誘う悪魔のようでもあった。
「衣食住はもちろん、卒業までの月謝も私が全て受け持ちましょう。たまには学友の皆さんと気兼ねなく餡蜜を食べるお小遣いだって。ね、悪い話ではないでしょう?」
ファロルの示すそれは、梅芽が今まで手を汚してまで必死に求めてきた光の全てだった。
それがあまりにも容易く、美しく提示される。
「わ……私は、何を、差し出せば……っ」
震える声で梅芽は問いかけた。
これほどのものが与えられる以上、要求されるのはそれに見合う――命に類するものに違いない。
その確信に梅芽の背筋にぞくりとした恐怖が走る。
ファロルは満足げに目を細め、梅芽の耳朶に唇を寄せた。
「私の飼い猫になりなさい」
「……っ!?」
梅芽はその意味が理解できず、言葉を詰まらせた。
ファロルはそんな様子を嘲笑うかのように、梅芽から取り返したばかりの金剛石の首飾りの留め具を外して、梅芽の首の後ろに手を回した。
カチッ、と冷ややかな音がして、梅芽の首元に金剛石が固定された。
肌を刺すような宝石の冷たさと、それを留めるファロルの熱。
そのあまりの対比に、梅芽は喉元を、ひゅっ、と鳴らして身をすくませた。
それは紛れもなく、逃げることを許さない首輪だった。
「この広い屋敷で私が寂しくないようにお父様が黒猫を与えてくれたけど……お喋りできないんだもの」
ファロルは膝の上に乗る黒猫の頬を両手で包み込んで、指先で耳の付け根をくすぐった。
猫が「うにゃあ」と気持ちよさそうな声を出す。
そしてファロルはそのまま同じことを――梅芽にも続けた。
ファロルの細い指先が梅芽の耳の後ろをやわやわと弄ぶ。
「ふ……、あっ」
耳元で響く自分の吐息がやけに艶やかで恐ろしい。
矜持を剥ぎ取られ、ただの獣として扱われる屈辱。
――それなのに身体はどうしようもなく、その甘い愛撫に陶酔し始めていた。
「……ふふ、本当に猫みたいで可愛い。でも……その『手』はいけないわね。また余計なものを盗んで悪い人に捕まってしまったら、飼い主の私が悲しいもの」
ファロルの細い指が梅芽の髪を飾っていた大きな繻子のリボンへと伸びた。
しゅるる……と音がして、女学生の純潔の象徴であるリボンが剥ぎ取られる。
解かれた長い髪が温室の湿った空気のなかに広がった。
ファロルはそのリボンで、梅芽の両手首を、痛みを感じないように優しく、そして拒めない力でしっかりと縛り上げた。
「……っ」
自由を奪われ、膝の上に置かれた自分の手。
それは人間としての誇りを根こそぎ奪い取られ、飼い猫に成り下がった証だった。
「私はね、望むものは何でも手に入るの。――お金の力でね。金剛石の首飾りも、百合畑も。でも、そんな毎日に飽きちゃった」
ファロルの指が梅芽の首筋をつーっと撫でる。
まるで梅芽の生殺与奪の権をファロルが握っていることを、身体に刻みつけているようだ。
「以前、貴女が喫茶店でテーブルの上のネクタイピンを盗んでいるところを見たの。私もそんな風に盗まれてみたいって、そう思って……だから今日、首飾りを盗みやすいように手鞄からはみ出しておいたの。梅芽ったら……大胆に盗んでくれて、とっても嬉しかったわ」
ファロルはうっとりとした恍惚な表情を浮かべた。
梅芽はその表情にぞくりとする。
「ねぇ、泥棒猫さん。――いいえ、かわいい私の猫さん」
ファロルは身動きの取れない梅芽の顎を、くい、と持ち上げた。
「飼い猫が主人に擦り寄って愛を求めるように……貴女も同じことをするのよ。可愛らしく鳴いて、私の体温を求めて……懸命に媚びてご覧なさい」
手を結ばれているとはいえ、ファロルの華奢な身体を突き飛ばそうと思えばいつでもできる。
でも梅芽の身体はまるで金縛りにあったように、全く動かすことができなかった。
逃げ場のない百合の香りが肺の奥まで白く塗りつぶしていく。
その毒に侵されたように梅芽の意識は混濁し、目の前の飼い主の熱だけが唯一の真実になっていった。
「私の心を見事に盗めた時、人間に戻してあげるわ。……それまではたっぷり、私の飼い猫として可愛がってあげる」
ファロルの瞳が、飢えた虎のような、捕食者の色を帯びる。
ファロルの顔が寄せられ、二人の熱い吐息が混じる。
梅芽は縛られた拳を握りしめながら、逃げ場のない百合の海へと、溺れるように身を預けた。
――カチャリ。
首元の金剛石がファロルの鎖骨に当たって小さく音を立てる。
それが、泥棒猫がファロルという檻に閉じ込められた閉門の合図だった。
ファロルがそっと唇を寄せると、梅芽はそれを蜜を待つ花のように静かに迎え入れた。
触れたのは、羽毛のように柔らかく、火傷しそうに熱い熱。
ちゅ、という小さく甘い音が静寂の中に響く。
リボンで縛り上げられた両手は、梅芽の胸の前で行き場をなくして縮こまっていた。
その不自由さが、唇から伝わる感覚を逃げ場のないほど鮮烈に際立たせる。
「……、ふっ」
深い、深い、百合の匂いに酔わされるような口づけ。
梅芽の喉の奥から甘い息が漏れ出した。
泥棒猫として彼女の心を奪うどころか、気づけば自分の魂ごと、この甘美な毒に飲まれてしまう。
やがて名残惜しそうにファロルの唇が離れていった。
至近距離で見つめ合う、二人の瞳。
ファロルの水晶のような瞳の中に、あられもなく上気した自分自身の顔が映り込んでいる。
それさえも自分がファロルの所有物であることの証明のようで、梅芽はたまらず目を伏せた。
「可愛いわ、梅芽」
ファロルが熱に浮かされた梅芽の頬を愛おしそうに撫でる。
梅芽は、自分が今、どんな顔をしているかを想像して、耳の裏まで真っ赤に染め上げた。
これから毎日。
学校が終わればこのお屋敷へと帰り、この百合の檻の中で彼女の飼い猫として生きていくのだ。
昼間は凛とした女学生を演じ、夜はこの首輪に繋がれて彼女に愛を乞う――。
その歪な毎日を想像するだけで羞恥心に全身の力が抜け、梅芽はぐったりとファロルの肩に額を預けた。
それは叱られた猫が許しを請うて、主人に首を預ける姿そのものだった。
ファロルはその完全に降伏したように従順な態度に応えるように、再び『猫』の項へとその赤い唇を寄せた。
春の午後の光はどこまでも白い。
二人の影は重なり合ったまま、百合の海へと深く沈んでいく。
温室には、遠く、春の微睡みを謳歌する猫たちの鳴き声だけが溶けるように響いていた。
甘々なメリバの百合、お楽しみいただけたでしょうか!
ほぼハッピーエンドのようなメリバでした。
続きが気になるところではあると思いますが……残念ながら私の方では続きを書く予定がありません。
自由に執筆していただいて大丈夫です(笑)
なろうでもムーンライトでもノクターンでもいいですよ!
Caita百合部の部誌『白百合倶樂部』に寄稿するために書いたものです。
『白百合倶樂部』では他にも様々な百合作品が寄稿されていますので、興味あればCaitaで検索してください!
今(2026/02/05)ならCaitaの百合ジャンルのランキングトップにいます!
いつもは長編の異世界百合小説『人魚と姫』を書いています!
いろんな百合カップルが出てくるほのぼの百合ファンタジーです。
甘々な百合の雰囲気が気に入ったらぜひ読みに来て頂けるとうれしいです!




