異変
その日も私は、疲れ切った体を引きずるようにして部屋に戻った。扉を閉める音がやけに大きく響く。靴を脱ぎ、水槽の前に腰を下ろすと、どこか妙な違和感が胸を刺した。コタロウの姿が、いつもと少し違って見えたのだ。岩の上に登るでもなく、水面に顔を出すでもなく、ただ水底の片隅に沈むようにしてじっと動かない。小さな瞳も、こちらを向くことはなかった。私はそっと水槽に顔を近づけた。水面にはわずかに埃が浮き、ガラス越しに見るコタロウの甲羅は、どこか色褪せて見えた。餌の袋を手に取り、指先で小さな粒を水に落とした。ぱら、ぱら、と水音がして、いくつかの餌が沈んでいく。しかし、コタロウは反応を示さなかった。いつものように、首を伸ばして口を開くこともない。ただ、水底でじっとしていた。私は餌の袋を持つ手をそっと膝の上に置いた。
「……どうしたんだ、コタロウ。」
声に出したところで、返事があるわけではない。それでも、その小さな沈黙が、今夜は重たく感じた。胸の奥に、冷たいものが少しずつ滲んでくるのを感じた。もしかして。ふと頭をよぎる考えがあった。私はここしばらく、まともに水槽の掃除をしていただろうか。水温は、ちゃんと保たれていただろうか。餌をやることすら、何度か忘れかけていた気がする。
「仕事が忙しくて……ちゃんと世話してなかった?」
その言葉が、口の中で転がった。誰に聞かせるわけでもない、責めるわけでもない。ただ、小さな罪悪感が胸の奥でゆっくりと形を成し、ずしりと重みを持って私の中に沈んでいった。私の人生の拠り所であったはずのこの小さな命に、私はどれだけ向き合ってきただろう。忙しさにかまけて、心のどこかで「大丈夫だろう」と油断していたのではないか。水槽の中、コタロウの甲羅の紋様は今夜も曼荼羅のように静かだった。しかしその静けさは、どこか不安を孕んでいた。私は水槽のガラスに額を寄せ、小さな命の鼓動に耳を澄ませた。夜の部屋は静かで、水の音だけがかすかに響いていた。私はその静寂の中で、自分の怠慢を噛みしめていた。