感謝
コタロウとの暮らしは、淡々とした日々の連なりでありながら、時折、不意に胸の奥を震わせるような瞬間を私に与えてくれた。ある晩、仕事の疲れが骨の髄まで染み込んだような帰り道、ふと見上げた空に月が滲んでいた。ぼんやりとした光の輪郭が、まるで水槽の水面に映る蛍光灯の光のようで、私は急にコタロウの姿を思い出した。早く帰りたかった。あの静けさに包まれたくて、足を早めた。部屋に戻ると、蛍光灯の淡い光の下で水面が微かに揺れていた。コタロウは、岩の上に登り、じっとこちらを見ていた。私は上着を脱ぎ捨てるより先に水槽の前に膝をついた。水の中に漂うその小さな命に、今日一日の疲れも、うまく言葉にできない寂しさも、そっと吸い取られていくようだった。夜は不思議だった。昼間には気づかなかったコタロウの細かな仕草が、闇の中では妙に輪郭を持って私の意識に入り込んでくる。甲羅の縁をゆっくりと水で洗うように首を動かすその動作。水面を割って広がるさざ波の静けさ。それはまるで、亀という存在そのものが夜の静寂をまとって瞑想に耽っているようだった。餌を与えるでもなく、ただ見つめるだけの時間が、私には何より大切だった。水の音、呼吸の音、時計の音、そのすべてが部屋の中にしみわたり、私とコタロウの間にある見えない糸を確かめるようだった。宇宙のどこかで、星々が音もなく生まれ、消えていくその営みと、コタロウの小さな存在は、どこかで繋がっている気がした。宇宙安定亀——私はそう心の中で名づけ直し、ひとり納得した。ときおり、私は水槽の前に座ったまま、眠りに落ちた。夢の中で、コタロウは巨大な亀となり、私をその甲羅の上に乗せて暗い夜の海を渡っていく。波は静かで、風は優しく、私はただその背に身を任せ、星の海を旅していた。目が覚めたとき、現実の水槽の前で微かな水音が耳に残っていた。夢だったのか、それともほんの少しだけ、あの夜の海を歩いたのか。そんなことを考えながら、私はまた、コタロウに向かってそっと呟くのだった。
「生きていてくれて、ありがとう。」
コタロウは答えない。だが、その瞳の奥に、私だけが知っている静かな宇宙が広がっている気がした。夜の水面に浮かぶその夢は、私をまた明日へと連れていってくれるのだった。