独白の独り言。
死にたがりだった。二日酔いを経験したことは未だないが、少なくとも胃が常時吐きそうな感覚を教えてくる。それなのに食べたいものや飲めるものがハッキリしているためか、危機感を覚えたことが無い。常に危機感を抱いているから、何も思えてないように思うのだろうか。胃がムカムカというか空腹に似たキリキリを感じている。空腹に似ているというのは、自律神経の問題なのだろう。食事時間が義務的に思え、空虚な世界の中たった独りで誰にも見せられない、ご飯とも言えない何かを食べているようなものなのだ。そんなのだから、ご飯を食べる行為自体が億劫となり、もはや死んでしまった方がましなのではと思えてしまう。
昔から自分のことを殺す妄想ばかりを繰り返していた。生憎、実行力は無いので搬送されるなどの警察が関わるようなことはしていない。誰かから、発せられる言葉以上の何かが、医療用のメスになって、もしくは幼少期に母親に向けられた包丁になって、あるいは父親の主観からくる人格否定と手を振り下ろそうとするジェスチャーとなって、純粋無垢な露出されたままの弱い心に刺さるとき。そんなときに死にたくなるのだ。
自分のことを解っていないようで、生物詳細まで書けるぐらい解っている。人には理解にくい心の奥底までも、気づいた頃には言語化できていたように思う。だが人として、自分を評価しても誰かが言う優しい人間とは真逆なのだ。
太宰治・著作の『人間失格』を読んで、第三の手紙の前編まで理解してしまえた。誰にも理解されない、そう思っていたのに。同じムジナだからか、感覚が似ているのか、はたまた自分が生まれ変わりなのか。考えてもきりがないが、一般的な意見からすれば、すでに可笑しなことなのだろう。
僕の悪い癖が複数個ある。一つは無意識のうちに、人へ従うというもの。自分の軸が無いわけではない。でなければ無意識に行った行動に対し、悔いたり嘆いたりしない。二つは性を嫌っていること。生物上の本能ともいえる性を嫌っている。公の場で性的な話を聞けば不快に思う。それだけなら、誠実な人間のように思うかもしれない。しかし、もっと奥底にあるのは自分の性に対する不愉快なのだ。母親の過去のことを知らないが、母親から聞かされる過去は暴行や性暴力など現代では問題になるような環境であった。その話を食事の時間も、子どもへ諭すときも、もれなく触れてくる。何故、過去の話をしたがる。聞きたくもない、胸糞悪い話ばかりで自分のことを正当化するのだろうか。父親もだ。母親は虚言癖でコンプレックスの塊だからと、フル無視して食事を済ませる。父親の方が知識があるから相談に乗ってもらってはいるが、会うたびに過去の話をラジオのゲストになったように語らないでほしい。微塵も興味が無い、子どもの話を最後まで聞けずに憶測で騙って、人格否定した上で人に思いやりを持てと諭してくる。父親自身、身内に対して思いやりが無い癖して、説得力が皆無だ。
僕が二人の話を適当にあしらえば、一つ上の兄にすべて責任を塗りたくるようにするのは如何なものかと思う。お陰で食事もマトモに取れぬまま、食卓から消えていく兄の気持ちを両親は考えたことがあるだろうか。父親は障碍者として兄を扱った試しがない。無論、母親に対しても同じだ。母親は母親で自分が悪く言われるのが嫌なので人に矛先が向くように語り始める。もう少し内省できないのだろうか。気分が悪くなるたびに、僕はようやく言うようになった。「主観で上からモノを言わないでくれ。気分が悪くなった。」などを。これも成長できていると言えるのだろうか。
僕自身の過去の話をするとき、僕は母親と同じような話し方をしてしまう。両親を卑下するように話すのだ。無論、ご飯をくれたり独り暮らしになった時気にしてお金を入れてくれたり、度々顔を見せに来てくれることもある。完全に捨ててもらえてないので、余計に死ぬことができない。苦しいままなのだ。憎めないヤツという枠組みなのだろうか。
自身の過去を話すと、「よくここまで生きていたな」、相談に返答すると「優しいな」と言われる。
正直、判らない。内心では過去を話す度に、死んでしまいたい、殺されとけば良かった、としか浮かばない。相談に乗っている時だって、内心では僕の方が酷かったという両親譲りのマウントが出かかかる。正直、大学の友達たちに過去話するのが、しまった言っちゃったと思ってしまうくらいだ。




