痛みの名前を借りて
夕方、誰もいない図書室。
開かれたままのカーテンが風で揺れ、机の上に落ちる影がにじんでいた。
澪はノートを開いたまま、文字を書きかけて止まっていた。
ページの隅には「神崎蓮」という名前。
その隣に、うっすらと書かれた「わたし」という文字が、不自然に見えた。
「名前を、残したいの?」
背後から、静かな声がした。
柚月だった。まるで、誰にも気づかれないまま空気に紛れて現れたように。
「……名前って、なんだろうね」
「誰かにとってのあなた、だよ。
“灯凪澪”は、あなたがどれだけそう名乗っても、
誰かの中でそうでなければ、ただの音になる」
澪は、ページの端をそっと折り返した。
「蓮が、わたしのことを“忘れていく”って言った。
怖かった。けど、それよりも――
それをわたしが、受け入れそうになってたのがもっと怖かった」
柚月は隣の椅子に腰を下ろす。
「蓮の中にある“痛み”は、まだ外に出ていない。
でも、そのままにしておけば、いずれ“歪者”になる。
あなたはそれを防げる。ただし――代わりに、蓮の過去は変わる」
「……わたしが、“彼女にとってのわたし”になる」
「そう。
今の蓮が持つ、わずかに残った“自分の痛み”を、
あなたが記憶の中から書き換えて消す。
その結果、蓮は穏やかになるかもしれない。
でもそれは、“本当の蓮”とは違う彼女になる、ということでもある」
澪は机の上に置いた手を、そっと握りしめた。
「わたし、ずっと“救いたい”って思ってた。
でも、それって――結局、わたしが誰かを“壊してる”んじゃないの?」
柚月は少しだけ微笑んだ。けれど、その目は真剣だった。
「あなたの選択は、誰かにとっての救いにもなるし、破壊にもなる。
でも、それを決められるのは、あなた自身だけ」
「わたしは……姉さんみたいになりたくない」
「ならないよ。
だって、あなたはわたしよりずっと迷ってる。
ちゃんと、誰かの痛みと向き合って、選ぼうとしてる」
カーテンが揺れて、光の形が変わる。
柚月の影が薄れていく。
「澪。
“名前”は、誰かに呼ばれることでしか意味を持たない。
でも、誰にも呼ばれなくなっても、あなたの存在が消えるわけじゃない。
それでも、誰かのためにその名前を手放すというなら――
それは、わたしが見た中で、一番強い優しさだと思う」
その言葉を残して、柚月はまた、音もなく姿を消した。
澪は、机の上のノートを閉じた。
そして心の中で、静かに自分の名前をもう一度、呼んでみた。
“灯凪澪”。
それはまだ、自分の中にあった。