わたしの名前を忘れても
放課後の教室。
カーテン越しの陽射しが傾きはじめ、机の上に長い影を落としていた。
澪は、窓際の席に座る神崎蓮の隣にそっと腰を下ろした。
「蓮」
「……あ、澪ちゃんか」
返事は柔らかかった。でも、どこか遅れて届いた気がした。
「ねえ、今日の数学、やばかったよね。全然わかんなかった」
「うん……そうだね。たぶん」
「たぶん、って……見てなかった?」
「見てたと思うけど……あんまり、覚えてないや」
蓮の声は、いつもより少しだけ平坦だった。
笑っているのに、そこに温度がない。
目は合っているのに、何かを通して見られているような距離感。
「……最近、よく忘れものしちゃうの。
この前、家に帰る途中で“どこに帰るのか”一瞬わかんなくなってさ」
澪は、胸の奥が静かに冷えるのを感じた。
「それ、怖くなかった?」
「……うん。怖いっていうか、
“ああ、またか”って思っちゃった。
前にも、こんなふうに忘れた気がするから」
蓮は、指先でノートの端を折りながら続ける。
「記憶って、すごく柔らかいんだね。
触れすぎたら、簡単にへこんじゃうみたいな感じ。
……澪ちゃんの名前も、昨日より遠くなってる気がする」
その言葉に、澪は息を止めた。
「……わたしのこと、覚えてないの?」
「覚えてるよ。顔も、声も。今もこうして話してるし。
でも、“わたしと澪ちゃんがいつから友達だったか”って言われたら、答えられない」
蓮の笑顔がにじんでいた。
それは、悲しさも、苦しさも通り越した“透明な顔”だった。
「もし、わたしが澪ちゃんのことを忘れちゃっても……
澪ちゃんは、わたしのことを覚えててくれる?」
澪は、何も言えなかった。
うなずくことも、否定することもできない。
ただ、その問いだけがずっと胸に刺さっていた。
――また、誰かの中から“わたし”がこぼれていく。
そのとき、自分は、また“入っていく”のだろうか。
今度も、何も言わずに。
蓮は笑った。
「……ごめん、変なこと言ったね。ちょっと疲れてるのかも。
でも、澪ちゃんの顔見てると、ほっとするんだ。なんでだろうね」
それは、かつての“神崎蓮”が持っていた優しさだった。
けれど、その輪郭は、すでに曖昧になりかけていた。
澪は、そっと蓮の手を握った。
そこに確かに“温度”があることだけが、唯一の救いだった。